第九話:レールの引き方
今日も家の中は静まり返っていた。弟は塾に行って、まだ帰って来ていない。父は相変わらず仕事なんだろう。母は居間でいつものようにテレビを見ている。純平は結局庄ちゃんが預かってくれる事になっていた。あの日、僕が母に怪我を負わしてしまって以来僕たちは一切会話を交わしていなかった。何度か謝ろうとしていたけれど、完全に母が僕のことを避けるようになってしまったのだ。だから、あの日以来、母のあの怖い目を見ることは無くなった。当たり前か。母は僕と会話すら、目すら合わせなくなってしまったんだから。僕は部屋で相変わらず受験勉強をしていた。一息ついて、しばらく参考書をぼんやり眺めていた。僕は庄ちゃんの家から帰った日から、ずっとずっと考えていた。庄ちゃんと満と三人で色んな話が出来た僕は、本当にこのままではいけないと思えるようになっていた。何とかしなきゃ、僕自身が、何とかしなきゃ、僕自身で。少しずつそう思えるようになっていたんだ。
「ちゃんと、話さなきゃ・・。」
ふう、ともう一度大きく深呼吸して僕はゆっくり参考書を閉じた。
「ちゃんと、伝えなきゃ・・。」
多分上手く伝えられないだろうけど。でも、伝えようと努力しなくちゃ・・。
僕は目を閉じて、何度もゆっくり深呼吸をした。母と話をする為にこんなに気合を入れなきゃ駄目だなんて、それだけでも、おかしな家族なんだろうけど。僕はゆっくり目を開いて覚悟を決めた。
「よし、行こう。」
僕は立ち上がって、ドアの方へ歩き扉を開けた。冷たい空気が一気に入ってくる。僕は部屋から出て、静かに階段を降りていった。階段を降りて、リビングのドアを開けると、居間の方からテレビの声が聞こえる。僕はドアを開け、居間の方へ入っていった。僕が居間に入ると、母は僕の姿を見るなり立ち上がってテレビを消した。目を合わせない母。
「母さん。」
そのまま、寝室へ行こうとした母を、僕はやっとの思いで声を出して引き止めた。
「母さん待って。話したいんだ。」
母は立ち止まって言った。
「話すことなんて何も無いわ。」
そう言って、また部屋を出ようとする。今までの僕なら、話を持ちかけることすら無論無かったが、こうなっても、ああ駄目だったと諦めていたに違いない。でも、僕はもう一度声を出した。
「母さんは無いかもしれないけど、僕はあるんだ。」
もう一度母が足を止めた。母の後姿。僕は母の表情が、全く想像出来ないでいた。
「何の話・・。」
後ろを向いたまま母が聞いた。
「何って・・。あの、色々・・。」
「そう、なら、すぐに話して。このまま聞くわ。」
そう母は言った。ここで挫けちゃいけない。ちゃんと、話をしなきゃ駄目なんだ。
「そのままって・・。こっちで座って話を聞いてよ。」
「・・・。」
「お願い、母さん。」
少しの間沈黙が流れて、僕は内心母がなんて返事をするかどきどきしていた。
「分かったわ・・。」
そう言って母は息を吐いた。くるっと向きを変えて僕の横を通り過ぎソファーに座った。
僕も向きを変え、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。
「あ、えっと・・。」
目の前に来られるとやっぱり萎縮してしまう。僕は大きく深呼吸した。
「あの、だから・・。」
母は腕を組みながらやや下を向いていた。めんどくさそうにも見える。
「あの・・。僕、僕・・。」
しっかりしろよ、もう言うしかないだろ。僕が僕に囁く。僕は唾をごくっと飲み込んだ。
「僕、志望大学、変更しようと思ってるんだ。」
言った・・!また僕が僕に囁いた。
「ああ、そう。」
母はポツリと言った。いつもなら、何言ってんのよ!と、怖い目で僕を怒るはずの母。
しかし、その母から出た返事は意外なものだった。
「あなたの・・好きにすればいいわ。」
「えっ・・いいの・・?」
僕は予想外の返答に呆気に取られていた。僕が毎日しんどいながらも頑張って、でも自分の希望する大学を変更するという事を分かってくれたのかと、一瞬そう思った。
「この家はもう、良ちゃんに任せるわ。」
母のとんでもない言葉に僕は言葉を失っていた。
「あの子は本当にいい子だわ。私の理想の子。あの子ならA大学に行けそうだしお父さんの後もあの子がりっぱに継いでくれるでしょう。」
僕は愕然としていた。
「だから、もう、あなたには何も期待しないわ。だから、自分の好きな大学でも何でも、行けばいいわ。」
僕は呆れてものが言えなかった。僕はあなたの一体何なんだ・・。
「じゃあ、もう、話はこれで十分でしょ。」
そう言って母はスッと立ち上がった。部屋を出て行く冷たい母の背に僕は拳を握り締めながら何とか声を振り絞った。
「待って・・。」
母は聞こえず部屋を出ようとした。
「待ってよ!母さん!」
僕は立ち上がって母を呼び止めた。僕はとても悲しくて悔しくて歯を食いしばっていた。
「待ってよ、母さん!何で、何で・・。」
母は振り向かず足を止めた。
「何で、そんなひどい事言うんだよ!」
「・・・。」
母の冷たい後姿。僕はもう、こんなのはたくさんだ。
「僕は、僕は、そりゃ、良二より勉強は出来ないし、良二よりいい子じゃないかもしれない。それに勿論僕だってA大学に入って就職して、父さんの後を継ぎたいって思って僕なりに頑張ってきたよ。でも、それでも、模試はいつもぎりぎりだし、このままじゃ受かるかどうかは分かんないし・・。」
「だから、弟に任せるって言ったでしょ。」
冷たく母は言った。
「だから・・、だから・・、そうじゃなくて・・。僕は・・。」
だんだんと思いが込み上げてきていた。
「母さんの期待にそぐわなかったのは申し訳ないと思ってる。でも、でも、僕だって、精一杯頑張ってきたんだ。一生懸命頑張って・・だから・・だから・・そのことだけでも分かってほしいんだよ!」
下を向いていた母が少し顔を上げた。
「分かってよ・・。母さん・・。僕だって本当に一生懸命頑張ってきたんだ。一生懸命頑張って、母さんに喜んで欲しかったんだ・・。」
それでも母がゆっくりと歩き出しドアの方へ向かった。
「ちょ・・、ちょっと待ってよ、母さん!行かないでよ!何か返事してよ!こっち向いてよ!こっち向いて、何か言ってよ!母さん!」
「・・・。」
ゆっくりゆっくり歩こうとする母。
「母さん!」
振り向かない母に、背中に話をしている僕。
「母さん、母さん!僕は、僕は・・・。」
僕は込み上げていた思いが一気に溢れ出していた。
「母さんの事が、大嫌いだ!」
母はふと足を止めた。
「母さん、僕は母さんが大嫌いだよ・・。」
母が少しだけ震えているように見えた。
「母さん、覚えてる?弟の入学式の時、僕がはしゃいで、カレーをこぼして服を汚してしまった、あの時・・。」
僕は母の背中に話し始めていた。
「母さん、あの時、僕を思い切り引っぱたいたよね。その時の母さんの怒って睨んだあの時の顔が目が、僕は未だに忘れられないでいるんだ。今だってそう、母さんは僕を叱る時、あの時の目を使う。僕はその目で怒られたら、もう怖くなって何も言えなくなって、言いたい事も、思っていることも、何一つ言えなくなってしまうんだ。だから、母さんが僕を叱るあの目が、僕はずっと嫌いだった。」
母は何も言わず、黙って聞いていた。
「僕はあの目を使う母さんが嫌いだった。手を上げようとする母さんが嫌いだった。言いたい事を言おうとしても、すぐに怒ってしまう母さんが嫌いだった。何も言えなくなる僕をまた怒る母さんが嫌いだった。言いたい事を分かってくれない、僕が思ってることを分かってくれない母さんが嫌いだった。僕が一生懸命頑張ってる事を分かってくれない母さんが嫌いだった。弟と比べてばかりで、いつも僕のことを駄目だ駄目だって言う母さんの口癖が嫌いだった。僕のことを見ようとしてくれない母さんが嫌いだった。」
辺りは静まり返って、母は動こうとしなかった。
「・・笑わない母さんが嫌いだった・・。」
長い長い沈黙がの後、母が小さい声で、
「分かったわ・・。」
一言そう呟いた。母が部屋を出ようとドアノブを手に取った時、僕はもう一度母を呼び止めた。
「待って、母さん。」
「・・何?」
小さい声で母は返事をした。
「でも母さん、それでも僕は・・。」
母はじっと動かなかった。
「それでも僕は、母さんが大好きなんだよ・・。」
一瞬ぴくっと母が動いた。母はドアノブを力強く握り締めていた。
「・・・。」
僕が声を掛けようとした時、母はゆっくりドアを開けた。
「・・・。」
スッと母は歩き出して、パタンとドアが閉まった。僕は一人居間に取り残されて、息を吐きながらソファに座った。僕は顔を上げ、ぼんやりと天井を見つめた。
「結局・・。」
僕は顔に手をやった。
「結局、一度も振り返らなかったな・・。」
僕は例えようのない虚しい気持ちを抑えられずにいた。
「えっ、まじで?」
満がかなりびっくりした様子で聞いてきた。
「うん。一応。」
「何でまた急に。こんな時期に。」
「うん。まあ、そうなんだけど・・。」
「まあ、こんな時期だからかもしれないけど・・。」
「うん・・。」
「でも、先生もびっくりしてたんじゃない?ええー、何でーってさ。」
「うん。まあね。」
放課後僕は進路変更したことを満に話していた。
「でも、担任もがっかりしてるだろうなー。」
「えっ、何で?」
「そりゃ、そうじゃん。自分のクラスから優秀な大学に行く生徒の希望が一つ消えたんだもんな。」
「何だよ、それ。」
「今の学校も頭の良い子の育成が何より大事なのさ。」
「お前は理事長か。」
「いやいや、まじで。学歴社会、学歴社会。嫌だねー、全く。・・でも、お前んとこの両親よく許してくれたな。」
そう言われて、僕は、
「えっ、あ、まあ。」
曖昧に返事をした。
「ふーん。」
「でも。」
「え?」
「許したも何も、一方的に僕が言って何か終わったって言うか。」
「へえー。」
目をまあるくして満が言った。
「ちょっと、それは革命的じゃん。」
「えっ?」
「今までの秀一からは親に反抗するなんて、考えられなかったじゃん。」
「あっ・・。」
「少し大人になったなあー?」
意地悪そうな目で僕を見る。
「何だよ。からかうなよ、同い年のくせに。」
「いやいや。僕は嬉しいぞー。」
「だから、誰なんだよ。」
僕は横目で満を見た。
「あー。」
声がして見るとクラスの一人が僕達を指差している。
「あっ、やべえ。」
満が言った。やっぱりな・・
「満、また何かやったんだろ。」
「いやいや、本当に何にもやってねえよ。」
「嘘付け。」
「本当、本当。本当、何にもやってない。」
そのクラスメイトは、ずんずんと前までやってきた。
「満君。」
相澤さんだ。
「え、何」
白々しく返事をする。
「満君、この前の学級当番何もしないで帰っちゃったでしょー。」
「ほらね、俺、何にもしてないっしょ。」
「あほか、あんたは・・。」
僕は思わず満に突っ込んでいた。
「んもうー、おかけで私大変だったんだからー。遅くまで残ってて。今度は満君全部やって帰ってよね。」
「へいへい、分かりました。」
「んもう、何その返事。反省の色全然ないんだから。」
相澤さんは膨れっ面で言った。
「あ、ところで就職は受かったの?」
僕は聞いた。
「え・・。」
「この前話してたとき、もうすぐって言ってなかったっけ?」
「えー、凄いー。覚えててくれてたのー?」
びっくりした様子で相澤さんは言った。
「え、いや、まあ。」
覚えるほどのことじゃないけど・・。
「何だよ。二人っきりで何話してんだよー。俺は何で知らないんだよー。」
満が僕の肩にのっかかりながら聞いた。
「満君が知る分けないでしょ。言ってないんだから。」
相澤さんが満に向かって舌を出す。
「あー、冷てえなー。同じクラスメイト。受験という困難をクラス皆で助け合い・・。」
「何が助け合いよー。あんた、勉強してないじゃん。」
「あ、うっせえな。痛いとこ突くなよ。」
今度は満が相澤さんに舌を出した。
「ところで、どうだったの?」
「え、あ、うん。有難う、お陰様で。受かってたわ。」
「そう。それは、良かったね。」
「うん、有難う。」
「お陰様って、別に、秀一が試験管だったわけでもなし。」
満が意地悪そうに言う。
「うるさいわねー。いちいち。」
「まあまあ。」
満って誰とでもこんな会話だな。まあ、僕からすれば羨ましい所もあるんだけど。
「あ、そろそろ、僕行こうかな。」
そう言って僕は席から立った。
「あ、今日も会いに行くのか?」
「え、うん。まあね。」
「相変わらずラブラブだなー。」
満が冷やかす。
「そんなんじゃないよー。」
僕が言うと、びっくりした様子で、
「え、秀一君、彼女いるの?」
と、聞いてきた。
「ああ、いるよ。」
満が答える。
「あ、お前いい加減な事言うなよー。」
「純平って言うんだ。」
満が言った。
「え・・。男の人・・?秀一君、まさか・・。」
「うわー、誤解だよ、誤解。」
「えっ・・だって今・・。」
「違うよ、違う。犬の名前だよ。」
僕は必死に答えた。
「え、あ、何だ。そうなんだ。びっくりしたー。」
「簡単に信じないでよ。そんな風に見えるみたいじゃない。」
「見える、見える。」
満がにやっと笑う。
「お前って、全く。」
僕は満の頬を少しつねった。
「あ、痛てて・・。冗談冗談。」
「でも、犬飼ってるんだー。」
「あ、今は預かってもらってるんだけどね。」
「へえー、そうなんだー。見てみたいなー。」
「うん。いいよ。」
「え、本当?」
「うん。全然構わないけど。」
「えー、じゃあ、これから見に・・。」
「あ、もう、行かなきゃ。じゃ、また。満、相澤さん。」
そう言って、僕はバタバタと教室を後にした。
「・・振られたな・・。」
満がボソッと言った。
「あっ、うるさいわね。そんなことないわよ。」
「さっさと帰って行ったじゃん。」
「今度よ、今度。まだ見込みはあるわ。」
「どうだか・・。」
「だって、名前覚えててくれてたもん。」
「名前?」
「そう、相澤さんって私の名前・・。」
「クラスメイトだもん。当たり前だろ。」
「んもうー、うるさいわねー。痛いとこ突かないでよ。」
「これは、どうも。」
「今度は学級当番さぼんないでね。」
「分かってるって。」
満は首を横に振りながら言った。
「あんたね・・。」
「ただいま。」
塾を終えて帰った僕はすぐにリビングへ入り、ご飯を温め始めた。
「お腹ぺこぺこだ・・。」
一人で呟きながら、電子レンジの前に立つ。すると、母親がリビングへ入ってきて、母も電子レンジの前に立った。
「ご飯、温めるわ。」
小さい声で母が言った。
「えっ・・。」
僕はかなり面食らってしまって、呆然と突っ立ってしまっていた。
「後は、私が温めるから、出来たもの先に座って食べてなさい。」
「・・・あ、有難う。」
僕は面食らったまま、テーブルに座ってご飯を食べ始めた。母が僕の食事中に入ってくるなんて考えられなかったからだ。実はあれからもう、一ヶ月が過ぎようとしていた。
あの日以来、結局何の変わりも無い僕は正直失望し、どうでもよくなっていた。いつもの諦めという選択肢が僕の中で芽生え始めていた。
「はい。」
母が温めた味噌汁を僕の前に置いて、椅子に座った。
「えっ・・。」
そのまま、居間へ行ってテレビでも見るのだろうと思っていた僕は目の前に座った母にまたびっくりしていた。
「・・・。」
何もない食卓。僕の食べる音だけが聞こえて、目の前に座られると余計食べにくいのにと、内心そんな事を思いながら、僕は味噌汁をすすった。
「昨日・・。」
突然母が話し掛けた。
「えっ・・?。」
僕は聞き返した。
「昨日、お父さんに話したわ。あなたが、志望校変えたいって言ってたこと。」
「そ、そう。」
話してくれていたんだ。僕は少しびっくりした。
「好きにすれば良いじゃないかって、言ってたわ。後は良二に任せれば良いって、そう言ってたわ。」
「・・・。」
僕の胸がちくっと痛んだ。
「・・・最低ね。」
母がポツリと言った。
「・・最低ね・・。私も、あなたのお父さんも・・。」
そう母が言って僕は少し止まった。
「本当、最低だわ。母親、失格ね・・。」
そう母が言った。僕の中に静かな衝撃が走っていた。
「私・・、私、ずっと、あなたの心が見えなかった・・。」
僕は目の前の母を少し見て、またすぐに目を反らした。
「あなたが何を考えているのか、あなたが何を思っているのか、いつからか、全く見えなくなってしまって・・。」
母も僕が見えなくなっていた・・?
「でも、本当は違ってた。」
違ってた・・?
「見えなくなっていたんじゃない。見ようと・・見ようとしてなかったんだわ。」
そう母は言った。
「自分のペースに当てはめてしまって・・。あなたが、なかなか返事しないのは、考えているからだったのに、何も考えていないからと勝手に思って、何でこの子は何にも言わないんだろう、何で、聞いてるのに何も返事しないんだろうって。子供なんだから、ゆっくりで構わないのに、考えてることに気付いてあげられずに、勝手に私の中で、この子は何を考えているか分からない子だって次第に思うようになってしまっていたんだわ。もっと、あなたの返事をもっと・・もっと待つべきだったんだわ・・。そうすれば、あなたが話して、そしたら、あなたが何を考えていたか、手に取るように分かったはずなのに・・。何か・・、焦っていたんだわ・・。周りには負けたくないって、何かむきになって・・。」
母はすこし息を吐いた。
「ショックだったわ。あなたに、嫌いだって言われて・・。」
「・・・。」
「嫌われても仕方が無い事してきたのにね。・・それでも、とても、ショックだったわ・・。あなたに、ああ言われて、ショックを受けて・・ああ、でも私はそれ以上の事をあなたにしてきてしまったんだって・・。気付いたら、自分自身がとても情けなく思えてきて・・。」
母の声が少し震えていた。
「自分の子供に母親を嫌いだなんて言わせてしまうほど、私は母親失格だったんだって・・、思い知らされたわ。」
母の目からは涙がこぼれていた。
「母さん・・。」
僕も、胸が熱くなっていた。
「・・本当に、ごめんなさい・・。今まであなたにとても辛い思いをさせてしまって・・。あの時・・、あの時嫌いだってあなたに言われて、でも、最後に・・好きだって言ってもらえて、それなのに私どうしていいか分からなくて、そのまま部屋を出てしまったの・・。ごめんなさい・・。」
母からは大きな涙が流れていた。
「あなたが、どんな思いで言ったんだろうって考えたら、あの時、何も話さずに行ってしまった自分が、また本当に情けなくなってしまったわ。母親が子供にどう接していいか、分からなくなってしまうなんて、私が分からなくなってしまったら、秀一あなたはもっと分からなくなってしまうのに・・辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさいね・・。」
僕の目からも、大粒の涙が溢れていた。
「・・有難う、母さん・。」
自然に僕はそう口にしていた。
「言ってくれて、有難う・・。」
母はまた泣き出した。
「子供に教えてもらうなんて、本当にいけない母親よね・・。本当にごめんなさい・・。有難うって言ってくれて・・有難う・・。」
母はそう言って泣きながら、でも、少しホッとした様子で少し微笑んだ。きっとその笑顔が僕の見た久しぶりの母の笑顔だったー。
「純平!純平!」
僕はハアハアと息を切らしながら、庄ちゃんの家の純平のいる庭に入って行った。
{ワン! ―秀一さん!}
純平は僕の姿を見るなり嬉しそうにシッポを振ってくれていた。
「純平、いい子にしてたか?今日は新しいおやつを買ってきたんだ。」
{え、本当?}
{ふーん}
小庄太もシッポを振っていた。
「そんなたいした物じゃないから悪いんだけど・・。」
{何だ、たいした物じゃないのかー}
{あ、小庄太さん、なんて事を。そんな、たいした物じゃないなんて。僕はわざわざ買ってきてくれているだけでも申し訳ないと思っているのに・・}
僕は鞄の中をごそごそと探した。
「あ、あった。」
僕はさっき学校帰りに買ってきたおやつを純平に差し出した。小庄太が覗き込んでくる。
{ワン ―うわー、美味しそう!}
{ワン ―本当だ。結構美味そうじゃん}
「美味しかったら、また買ってくるから。」
{ワン ―うん。有難う秀一さん}
{ワン ―え、そうなの。何か悪いね}
純平と小庄太はパクパク食べ始めた。
{ワン ―わあー、美味しいよ、秀一さん。本当に有難う}
{ワン ―なかなかいけるね}
「美味しいか?純平、小庄太。」
{ワン ―美味しいよ!}
{ワン ―やるじゃねえか}
純平と小庄太は嬉しそうにシッポを振りながら答えた。
「そうか。美味しいか。また、買ってくるからな。」
{ワン ―有難う。秀一さん}
{ワン ―悪いね、サンキュー}
僕は純平と小庄太の頭を撫でた。気持ちよさそうな顔をしてまたシッポを振ってくる。
「やー、秀ちゃん。お帰り。」
庄ちゃんが、仕事を終えて帰ってきた。
{ワン ―あ、お帰りなさい。庄太さん}
{ワン ―よ!}
「あ、お邪魔してます。お帰り、庄ちゃん。今日は早かったんだね。」
「うん。残業が以外に早く終わったんだ。」
「そうなんだ。良かったね。でも、疲れたでしょ、お疲れさま。」
「うん。お疲れさん。何か・・。」
「え、何?」
僕は聞いた。
「いや、何か・・まるで、夫婦のような会話だな。」
「・・・。」
「秀ちゃん、今日の晩御飯、何?」
「知らないよ!」
僕は少し照れたように答えた。本気には勿論聞こえないし、冗談ってのは分かってるんだけど、サラッと言うんだもんなー。
「そっか。じゃあ、今日は先に風呂に入るとするよ。」
「勝手に入ってよ。」
「うん。湯加減大丈夫かな?」
「だから、知らないって。」
「じゃ、まじでお風呂先に入ってくるわ。」
「うん。ごゆっくり。」
「秀ちゃん。」
「何?」
庄ちゃんが僕にウインクしながら言う。
「後で来る?」
「庄ちゃん!」
「あはははー。だって、秀ちゃんからかうの面白いんだもん。」
そう言いながら家へ入って行った。
「んもう。いつも、からかうんだから・・。」
{仲良いですもんね、本当に}
微笑ましく純平は見ていた。
{ああ、恋人同士だからな}
{え・・?}
{あれ、知らなかったの?二人付き合ってるんだよ}
僕は何気なく純平の顔を見た。純平の目がびっくりするぐらい大きくなっている。
{秀一さん・・}
「まさか、純平、その目は疑ってるんじゃないだろうね・・。」
{え・・、そうじゃないんですか?}
「違うに決まってんでしょ!もう、純平まで。」
僕は軽く純平の頭を突付いた。
{何だー、違ったんだー}
純平がホッとした様子で息を吐く。
{簡単に信じるからなー。からかいがいのある奴め}
{ちょっと、小庄太さん}
{何?}
{すぐに、そういう事言って、犬をからかって。本当に・・}
{本当に何だよ}
{飼い犬は飼い主に似るって本当なんですね。庄太さんもすぐに秀一さんをからかうし}
{完全に、お前達もな}
{あっ・・。}
図星を指されて言い返せない純平がいた。
{でも、ちょっとホッとしただろ?}
{何がです?}
{庄ちゃんと秀ちゃんが付き合ってなくて}
{ホッとも何も別に・・}
{ライバルが消えて・・。}
{ライバル?}
{愛する秀ちゃんは僕のものなんて思ってるくせに}
{なっ・・。}
{あれー、赤くなったー?}
{ちょっと、そんなんじゃないでしょ!僕の好きはlikeであって決してloveなのでは・・}
{犬が英語を使いこなすな}
{もう、からかわないで下さい}
純平がぴょんと僕の膝に乗ってきた。
「ん、どうした?純平?。」
{またそうやって、すぐ秀ちゃんの所へ逃げるー}
{良いでしょ、別に}
「んー、よしよし。純平どした?」
そう言って僕は純平を抱き上げた。
{全く、秀ちゃんも純平には甘いんだから・・}
{小庄太さんも庄太さんに甘えれば良いじゃないですかー}
{何言ってんだよ。がらじゃねえっての}
純平とひとしきり遊んだ後、僕は塾へ向かった。
{何だ、今日は顔が寂しそうじゃないな}
{え、まあ・・}
{何で?いつもなら、恋人が去って行った後の様に寂しそうにしてるくせに}
{はい。いや、でも最近・・}
{最近?何?}
{いや、秀一さん、心なしか明るくなった気がしませんか?}
僕は小庄太さんに聞いてみた。
{お・・。}
{お・・?}
{ちょっとは、飼い犬らしくなってきたか?}
{え・・?}
{この前、満が来た時、庄ちゃんと話してたろ。秀ちゃん受験の志望校変えたって。その事で大分肩の荷が降りたんじゃねえの}
{はい。でも、それだけじゃない様な何か、もう少し何かが剥がれた様な・・}
{うーん。随分成長したねー。主人の心を分かってやる飼い犬心}
そう言って小庄太さんはにっこり笑った。
{何かが動き始めたのかもな}
{何かが動き始めた・・?}
{お前を助けた、あの日から、何かが変わってきてはいるね}
{僕を助けてくれた、あの日から・・?}
{ああ。秀ちゃんが命がけでお前を救った、あの日から}
そう言って、小庄太さんは皿の水を少し飲んだ。
{小庄太さんは何でもお見通しですね}
{いや、そんな事無いよ}
{羨ましいです}
{だから、前にも言ったろ。俺と庄ちゃんは何年付き合ってると思ってるんだ}
{はい}
{焦るなって。嫌でも分かってくる日が来るから。現にちゃんと気付けてるじゃねえか。秀ちゃんの事}
{はい・・。でも、ちゃんと気付けているのでしょうか・・?僕は本当に秀一さんの傍にいてもいいんでしょうか?}
{お前ねー。あれだけ大事にしてもらっておきながら、これ以上秀ちゃんの事信じてあげないと、秀ちゃんに失礼だぞ}
{失礼?}
{お前はまじかで見たんだろ?秀ちゃんが命がけで自分の事を助けてくれた姿を}
{はい・・}
{普通、あそこまでしてくれねえぜ。所詮俺達は犬なんだから、あの時見放されてた可能性だって大きかったんだぞ}
{はい。それは十分過ぎるほどに。本当に嬉しかったし、本当に感謝してます}
僕は心からそう言った。
{何で、そこまでしてくれたんだ?所詮犬である俺達に}
{・・・}
何で・・?
{それだけ、心から純平の事を大事に思って、秀ちゃんにとって純平は大事な存在って事なんだろ}
{小庄太さん・・}
{態度や行動で示してくれている思いを、ちゃんと気付いてあげなきゃ、相手に申し訳ないと思わない?あれだけの事をしてくれてるんだからさ。本当、いないよ。あそこまで君の為に動いてくれる人。その行動を、愛情と呼ばずして何て呼ぶんだよ。でも、それに気付いたら、自分も凄く幸せになれるでしょ?}
小庄太さんの言葉に、僕はぎゅっと胸の刺さる思いがした。
{はい・・。駄目ですよねー、僕。何か僕達と秀一さん達とはどうしても超えられない壁があるから・・。もともと、人間と犬なんかじゃ、つり合うわけないんだけど。伝えたい事は手に持てないほどたくさんあるのに、僕達は犬だから、言葉で伝え合えないのが凄くもどかしくて・・。もどかしいから、何故か凄く不安になって、その不安から逃れたいから、確信たる何かが欲しくて・・。だから、言葉という方法で、大事だよとか、好きだよって言って欲しくて、その言葉を貰って僕はどうしても、安心を手に入れたがっていて・・。}
{分かるよ。その気持ちは。分からなきゃ、不安になるのは、当たり前だ}
{でも、僕は、もう、既に手に入れていた・・}
{・・そうだよ・・}
{僕が気付かなかっただけで・・}
{気付けない時も、あるもんなんだよ}
{こんなに、近くに、それはあった}
{そうだね・・}
{愛情が・・。秀一さんの愛情が・・。僕はもう既に手に入れていた事に気付かないだけだったんだ・・。}
{どっちも、とっても大事なんだよな。言葉で伝えるのも、態度や行動で伝える事も}
{それを、信じあうのって、すっごく難しい・・}
{そうだよな。でも、手に入れられたら、それはそれは}
{それはそれは・・・?}
{極上の幸せだぜ!}
相変わらず僕の家は静かだった。久しぶりに家にいる父の書斎の部屋を母はノックしていた。
「はい。」
父が返事をする。
「あなた、入るわね。」
母は静かにドアを開け中に入っていった。父は書斎で何か仕事をしている。父の座っている机の後ろにあるソファーに母は腰を下ろした。
「ちょっと、相談があるんだけど。」
「何だ。」
父は書類に目を通しながら返事をした。
「秀一のことなんだけど・・。この前、あの子の志望校の変更の話したわよね。覚えてるでしょ。」
「ああ。」
「それで、幾つか受けたい受験校の中に、遠い所じゃ北海道辺りの所もあるみたいで・・。」
「ああ、そう。」
素っ気なく父は返事をした。
「もし、そこに受かったら一人暮らししなくちゃならない事になるかもって秀一に言われて・・。良い?って聞かれたの。」
「・・別に、いいんじゃないのか。」
父はずっと書類を見ていたままだった。
「・・そう・・。秀一も安心するわ。」
「別に・・。」
「え・・?」
「どうだって別に私は構わないよ。子供の事はお前に一切任せてあるから、私には関係ない。いちいち私の意見を聞かなくても。話はそれだけか、やらなきゃいけない仕事がまだあるんだ。ないなら、気が散るから出てってくれないか。」
冷たく父はそう言った。母はゆっくり腰を上げソファーから立ち上がった。二、三歩歩いて母は立ち止まった。
「あなたは、いつも忙しいのね・・。」
母は小さい声で言った。
「いつも、いつも、忙しいからって、子供の事も一切見ないのね。」
「何が言いたいんだ。」
「あの二人は、あなたの子供なのよ。」
「だから、何だ。」
「もう少し、相談に乗ってくれてもいいんじゃない?子供達だって、あなたに話したいことだって、あるかもしれないし・・。」
「お前が聞いてあげればいいじゃないか。その為の母親だろ。こんなりっぱな家に住まわせてもらって、何不自由なく生活させてもらって、欲しい物は十分に与えてきたはずだ。親の役割は十分に果たしてると思うがね。」
「はあ・・。」
母はため息を吐いた。
「それが、あなたの役割?それが親の役割?ええ、そうね。私も確かにそう思っていました。そう思って疑いませんでした。」
母は父の背中に話していた。
「でも、違ってました・・。」
「・・・。」
「私は、間違ってたんです。あの子を、秀一を、周りから恥ずかしくないように、りっぱだと褒められるように、必死になって育ててきました。周りから認められ、周りからりっぱだと言われることこそが、あの子の幸せであると、そうしてあげる事が、親の務めなんだと・・。でも、間違っていたんです・・。」
母は涙を浮かべていた。
「あの子は、これっぽちも、そんなことは望んでいなかった・・。むしろ、あの子は苦しんでいたんです。私が必死になって導こうとしていた未来ある将来に、導こうとすればするほど、あの子はますます苦しんで、知らない間に、あの子は暗闇をさまよっていたんです。それでも、私はその事に、気付きませんでした。私のしていることは正しいと、あの時は信じて疑いませんでしたから・・。」
母は涙を拭きながら、必死に話していた。
「・・エゴだったんです・・。私の・・。周りからりっぱだと言われるように必死なっていたのは、あの子が望んでいたんじゃない、私が望んでいたんだと・・。自分の望みを、私はあの子に背負わせていたんだと・・。」
父は仕事の手を止めて聞いていた。
「・・だから・・?私にどうすればいいのだと・・。」
父はそう言った。
「こっちを向いて話してください。」
母は言った。一度も振り返らずに書類と話をしている父。父は少しめんどくさそうに、やっと、母の方へ体を向けた。
「私に一体何をしろと?仕事をして疲れて帰ってきてるんだよ。子供が何不自由なく暮らせるのは、私が働いているからだ。それが、親の務めだろう。それをもっとあり難いと感謝してほしいね。」
「あの子と最近いつ話をしました?」
「えっ、さあ。仕事が忙しいからね。あの子も受験で部屋にこもったままで、仕方ないだろう会えなくても。」
「言い訳にしか聞こえないわ。」
「何だと?」
「あなた、私のこの手の傷、気付いていらっしゃいました?」
「ああ。包丁か何かで切ってしまったんだろ。」
父はまた書斎の方に目をやって、書類を取ろうとした。
「凄く、痛かったんです。」
「まあ、そりゃ、そうだろう。切ってるんだから。」
「秀一に切られました。」
そう母が言うと、父は少しびっくりした顔をした。
「何を言ってるんだ、お前は。」
「秀一が果物ナイフを持って、私に向かって来たんです。」
「冗談が過ぎるぞ。」
父は少し動揺しているようだった。
「冗談なんかじゃないわ。本当よ。私があの子を叱って、あの子があなたに助けを求めていた日あったでしょう。」
「・・。いや、覚えていないな。」
「それなのに、あなたは、逃げるように部屋を出て自分の部屋へ行ってしまって・・。その後です。あの子が私に向かってきたのは。」
「・・・。」
「めんどくさかったんですよね、あなた。私に怒られて助けを求めた秀一が・・。どう対処していいか分からずに、めんどくさい事に関わりたくなくて、逃げたんですよね、あの時・・。」
父は、目を反らすかのように書類を持ち、書斎の机に体を向けた。
「知らんよ、そんなことは。お前の勘違いだろ。とにかく、お前が秀一に厳しくしすぎたのが、問題じゃないのか?でなきゃ、秀一もお前にそんな事普通しないだろ。」
「そうやって、都合の悪い事になると私の責任になるんですね。」
「誰もそんな事は言ってないだろ。」
父は苛立った様子で答えた。
「あそこに残ったのが私じゃなくて、あなただったら、あなたが刺されていたんですよ。」
父はびっくりした様子で、母の顔を見た。
「そんな事はある訳ないだろうって?いいえ、確実にあるわ。それぐらい私達はあの子を苦しめていたのよ。あの子の暗闇を気付いてあげられずに、それでもあの子は私達が望んだレールの上を歩いてくれていた・・。」
「何が、間違っていると言うんだ?」
「レールを・・・。」
母も父を見ていた。
「レールを引いてはいけなかったんです。」
「子供は何も分からん。ちゃんとしたレールを引いて導いてやるのは親の務めだろう。」
「でも、それはあの子が望むレールではありませんでした。むしろ、嫌がっていたんです。私達が引いたレールは私達が望んだレール。あの子の希望ではありませんでした。」
「そんな事分からんだろう。もしかしたら、いいと思っているかもしれないじゃないか。」
「聞かれました?」
「何を?」
「いいかどうかを。」
「いいかどうか?」
「いいと思ってるかもしれないのは、あなたの勝手な推測でしょう。聞かれました?秀一に。私達が勝手に引いたレールをどう思ってるのか聞かれました?」
「・・・。」
父は黙ってしまった。
「と、とにかく、世間に認めてもらうには、まず勉強が大事だろう。世間に認めてもらうにはある程度いい会社にも入ってないと恥ずかしい思いをするのはあの子だ。そうならない為に私達はあの子を・・。あの子の為にやってるんじゃないか。」
「私もそうでした。でも、それがあの子を苦しめていた。間違っていたんです。私も、あなたも。」
「何を間違っていたというんだ。」
父が母に聞いた。
「世間が認める前に、何故、私達があの子を認めてあげられなかったのでしょう。初めから間違っていたんです。私達はあの子を見ていなかった・・。私達は世間を、社会を見ていたんです。もっと、あの子の話を聞いて、もっと一緒に話すべきだった。そしたら、あの子のやりたい事をもっと早くに知っていたに違いない。私達がレールを引くんじゃない。私達はあの子の思いを、あの子が引きたがっているレールを一緒に引いてあげるべきだったんです。一生懸命引こうとしているレールを真っ直ぐに引けるようサポートする事が私達の親の務め。間違えそうになったら、そうじゃない、こっちだよって助けて教えてあげること。ああ、そうだったって、私は秀一に気付かされたんです。あの子が必死に訴えてきた言葉に、私は一度だってちゃんと聞いてあげてなかったって・・。初めて気付いて・・。」
母の目からはまた、涙が溢れ出していた。父は何も答えなった。
「あの子に・・、秀一に嫌いだって言われたんです。びっくりして。とても、ショックで・・。でも、あの子言ってくれたんです。それでも、私の事好きだって・・。嬉しかったわ・・。良かったって、思った・・。」
「・・・。」
「あなた・・。」
「・・・。」
「私、今のあなた嫌いです。はっきり言って・・。もっと、子供に感心を持ってください。それが、あの子達の望みでもあるんだから・・。すみません、仕事中に・・。でも、どうしても、伝えたかったから・・。失礼します。」
そう言って母は書斎を後にし、父は暫くしてまた、書類に目を通し始めた。
「受かる、受からない、受かる、受からない、受かる・・。」
満が教室のベランダに咲いてある花を摘んで、受験占いをしていた。
「やめろよー。今更そんのやったって変わんないよ。」
僕は満に言った。
「うるさいなー。もう、こんな時期勉強したって間に合わねえもん。せめて神頼みでもしてなきゃ、やってらんないだろー。」
「神頼みじゃなくて、それ、唯の花占いじゃん。」
「うるせえなー、さっきから。良いんだよ、何だって。あっ・・。」
満が最後の花びらを掴んでいた。
「・・受からな・・。」
花びらを持つ手が震えている。
「だから、やめろって言ったじゃん。」
僕が素っ気なく言うと、
「ああー、お前は、冷たい奴だなー。ええい、今のは無しだ。もう一回やってやるー。」
と、またベランダの花を摘んできた。
「やめなよー、花が可哀相だろ。」
「これで、最後。さっき、どっちから、先に言ったっけな?」
「どっちでも、一緒だろ。」
「あ、馬鹿だなー、お前は。さっきと逆から始めたら、最後は受かるになるだろ。・・ええっと、受からない、受かる・・。」
僕は呆れながら、満の花占いを見ていた。もう、受験真っ最中だ。推薦で受かってのんびりしてる人、まだまだ勉強してる人。
「うおおー。」
満が雄たけびをあげていた。
「う、受か、受からない・・。」
またもや、最後の花びらを震えながら握り締めている。
「何で、また受からないになるんだよー。」
叫ぶ満に、
「そりゃ、花びらの枚数違うからでしょ。」
とあっさり言った。
「お前―、何て嫌な奴だ。始める前に言ってくれりゃいいだろー。」
「言う前にもう、始めちゃってたんだよ。」
「本当か、お前―。俺が落ちてもお前は何とも思わないのか?」
「いや、思うよ。」
「本当かー。」
「本当思うって。やっぱりなって。」
「ああ、お前、親友に何て事を。」
「冗談だよ。冗談。それだけ勉強しないで受かったら、羨ましいくらいだよ。」
「そんなー、羨ましがるなって。」
「まだ、受かってないじゃん。」
「・・・。」
また頭を抱えている満に、僕は思わず吹き出してしまった。
「お前―。何笑ってるー?」
「いや、何も。本当羨ましいなって思っただけさ。」
「何が?」
「そうやって、本当は凄く切羽詰ってる状況のはずなのに、何か満見てると大丈夫なのかなって錯覚しちゃうんだ。」
「それって、褒めてんのか?」
「ホッとするって意味だよ。」
「まあなー。俺って癒し系だから。」
「どこがだよ。そんな黒い顔して。癒し系はもっと肌の色とか白くて中世的な人を言うんじゃないの?」
「知らねえよー。どっちにしろ、お前、人の顔を黒いって言うな。夏の間部活で焼けてそのまま残ってるだけなんだから。本当は白いんだぜ。何なら、見てみる?」
そういって満は服を脱ぐ格好をする。
「もう、いいってば。お前の白さは、ちっちゃい頃みて知ってるから。」
「何だー。本当は見たいくせに。鍛え上げられた俺の裸体を。」
「絶対見たくねえー。」
「んもうー。恥ずかしがりやさん。」
そう言って満が僕のほっぺを軽く突付く。
「ちょっと、やめろって。」
「照れるなよー。秀ちゃんはすぐに照れちゃうんだから。」
満が面白がって懐いてくる。
「ちょっと、やめろよー、満。受験勉強の邪魔すんなよー。」
「だってー、暇なんだもんー。」
「何で暇なんだよ。満も受験生だろ。」
「そんな、現実的な事は、今だけ、忘れさせて。」
「忘れさせてって。満、忘れっぱなしじゃん。たまには、ずっと覚えておいた方が良いんじゃない?」
「ああー。ひどいー。秀一さんー。」
満が体を引っ付けてくる。
「もう、やめろってばー。」
「やっぱ、怪しいわよねー。あんた達。」
声がして振り返ってみると、相澤さんが僕たちの事を疑わしい目で見ていた。
「本当は出来てんじゃないのー?あんた達。」
「え、そんな訳な・・。」
言いかけて、満が横から入ってきた。
「そんな本当の事、言える訳ないじゃない。ね、秀一さん。」
「何で女言葉なんだよ。」
「秀一は誰にも渡さないわー。」
満がまた飛びついてくる。
「あー、ちょっとー。ずるーい。」
相澤さんが言う。
「えっ、ずるい?」
僕がそう言うと、また横から満が、
「私達の愛に入り込む隙間はないわよ。」
また女言葉で話す。
「まじ、気持ち悪いっての。」
僕は手の平を満の顔に当てて、満を引き離そうとしていた。
「ところで、相澤さんって仕事はいつから始まるの?」
「えっと、四月から。」
「へえー。じゃあ、それまではゆっくりなんだ。」
「うん。一応。」
「へえー。いいねー。色々出来るね。どっか行ったり、何かするの?皆みたいに自動車学校通ったり?」
「うん。しようかなーって思ってる。仕事始まったら車あった方が便利だから。すぐには買えないけど、働いてお金貯めて車は欲しいし。学校は今のうちに行っとかないと、働き始めたらもう、時間無いしね。」
「ふーん。本当偉いよね。相澤さんって。何でも自分でやってて。僕も見習わないと。仕事始めたら忙しいだろうから、今のうちに行きたい所も行った方がいいかもね。どっか行きたい所とかあるの?」
「うーん。温泉とか、結構好きなんだ。後、ディズニーランドも行きたいなあー。」
「へえー。温泉かディズニィランドかあー。温泉好きなんだ。」
「うん。大好き。」
「僕も結構好きなんだ。満にいっつも親父臭いって言われるけど。」
「えー、そんな事ないよ。」
「そうだよねー。」
「あっ、そうだ、いけない。」
「どしたの?」
「今日中に提出しなきゃいけない用紙があったの忘れてた。」
僕は机の引き出しの中を探して、
「あった。」
と言って、取り出した。
「進路の?」
「うん。そう。ちょっと急いで出してくるよ。」
「ええ、そうね。」
僕はバタバタと教室を後にした。
「あー、いっつも話の途中でどっかいっちゃうのよねー、秀一君って。」
「うーん、鈍いからねー、あいつ。」
「本当よねー。でも、何かドキドキしちゃったわ。」
「えっ?何で?」
満が不思議そうに聞いた。
「だって、何か色々根掘り葉掘り聞かれたから。」
「え、そう?普通の会話に聞こえたけど。」
「うるさいわねー。だって、仕事始めるまでの予定を色々聞かれたもん。」
「うん。何気なく聞いただけだと思うけど。」
「それに、何処行きたい?とかって。」
「うん。聞いてたね。」
「どうしようー。ディズニーランドのチケットとか用意してくれてたら。」
「大丈夫、大丈夫。それだけはないから。」
「でも、普通聞かないわよ。何処行きたいとか。」
「いや、聞くでしょ、普通。会話の流れで。」
「だって、車の免許取るかどうか聞かれたわよ。」
「いや、聞いたりもするでしょ。」
「何処かへ連れてってって事なのかなー。」
「プラス思考だねー。」
「受験発表の日とかに、準備してくれてたりして・・。」
「何を?」
「ディズニーランドのチケットか、温泉旅行のチケットよ。」
「温泉旅行にチケットなんかあったっけ?」
「それで、彼はこう言うのよ。」
「秀一が?何て?」
「ずっと二人で行こうって、その為に今日まで受験頑張ってきたんだ。ずっと前、喋ってたとき行きたいって言ってただろう。あの時話してたのずっと、覚えてたんだ。」
「うーん。妄想が突っ走るねー。」
「え、あの時の事覚えててくれたの?凄く嬉しい。私もあなたとずっと行きたいって思ってた。」
「一人芝居まで始まったよ。」
「そうなんだ。良かった、そう思ってくれて、僕も嬉しいよ。本当に有難う。じゃあ、行こうか。・・なあーんて、きゃあー。」
相澤が満の体をバシバシ叩きながら、一人で興奮している。
「イテテテ・・楽しそうだなー。」
「入れてあげないもんねー。」
「いらねえよ。お前の妄想なんか。入ったら怖えよ。」
「協力しなさいよねー。」
「へいへい。分かってるよ。」
「ああ。何か本当だったら良いのになー。」
「良いのにねー。」
満が一緒に頷いてあげている。
「秀一君、素敵だわー。あの、癒し系で中性的って感じの所が。」
「なっ、やっぱり、あいつがもっていくのかよ。俺も肌白くしようかな。」
満が呟いてるのをよそに、
「助手席、空いてるぞー。」
相澤は秀一が出て行ったドアに向かって叫んでいた。
「空いてるぞー。」
そして、満も一緒に叫んであげていた。






