第七話:たくさんのありがとう
どれだけの時間が経ったか分からないぐらい時間が流れているような気がしていた。大分経ってから、秀一さんは僕を二階に連れて止血した前足の所に包帯を巻いてくれていた。
「ごめんな、純平。痛かっただろう。」
何度も何度も呟くように秀一さんはそう言っていた。
{秀一さん・・}
そんな風に謝るたびに僕は何度も何度も涙が溢れそうになっていた。
{秀一さん、もう、謝らないで・・}
次の日も次の日も秀一さんは何も喋らなくなっていた。何も喋らずにそれでも何とか学校に行って塾に通って、帰宅してからまた勉強をして、また変わらない生活を繰り返していた。
「ほら、純平、ご飯。お腹減っただろ。」
唯一聞く事が出来る秀一さんの声だった。僕は毎日秀一さんが持ってきてくれる温かいご飯を食べながら、苦しくなっていた。こんなにも苦しんでいる秀一さんに僕は何も出来ずに、秀一さんだけが毎日辛い思いを抱えながら、僕だけ毎日温かいご飯を食べている。それが僕にとって、とても辛くなっていた。そして秀一さんのお母さんが言った言葉。僕がいるせいで秀一さんは成績が下がったって・・。でも考えてみれば確かにそうだろう。庄太さんの家に居させてもらっていた時、毎日の様に秀一さんは僕のところに来てくれていた。その時僕は秀一さんに会えることだけで嬉しくて、秀一さんの受験勉強の事をそこまで深く考えていなかった。でも僕の所に毎日来てくれていた時間は受験生の秀一さんにとって、とても貴重な時間だったのに。僕は会える嬉しさでそんな事まで考える事が出来ずにいた。僕は自分のことだけ考えていたんだ。あんなにも一生懸命頑張って勉強している秀一さんの姿を見ていた筈なのに、僕は自分のことばかり考えてしまって・・。秀一さんの大事な時間を僕は・・。秀一さんのお母さんが言うように僕は邪魔な存在だったかもしれない。僕に手を焼く時間がなければ、秀一さんはもっと受験勉強が出来たはずだろうし、それなら、きっと成績も下がらなかっただろうし・・。そしたらお母さんはあんなに怒ったりしなかっただろうし、あんな事にならなかったんだ・・。
{不必要・・}
秀一さんのお母さんがあの時僕の事をこう言っていた。あの時はすごくショックだったけど、でもそうなのかもしれない。秀一さんの大事な時間を僕が奪っていたのは事実なんだから・・。
「ただいま。」
秀一さんが帰ってきた。今日もとても疲れて見える。
「ほら、純平、ご飯。遅くなってごめんな。」
そう言って温かいご飯を差し出した。
{有難う、秀一さん。ごめんね、僕のせいで色々迷惑かけてしまって。本当にごめんなさい。今まで本当に有難う}
僕はペコっと頭を下げた。
「何だ、どうした、純平。早く食べな。ご飯冷めちゃうぞ。」
そう言って秀一さんは僕の頭を撫でてくれた。温かい大きな手。僕は秀一さんが本当に大好きだ。
{ワンー うん。有難う、秀一さん}
僕はまた胸が切なくなるのを感じながらゆっくりとご飯を食べ始めた。
いつものように秀一さんの勉強は深夜にかかっていた。
「ふう。」
息をついて秀一さんはやっとベットに入っていった。毎日深夜まで勉強が及んでさすがに今日は早く眠りに付いていた。僕は音を立てないようにゆっくりと立ち上がって、勉強机の上に上り本を取り出していた。僕は自分なりに考えて、秀一さんのもとを離れようと決心していたんだ。これ以上秀一さんの邪魔になるわけにはいかない。もうこれ以上、秀一さんに迷惑はかけられない。今まで本当に有難う秀一さん。捨てられていた僕を拾ってくれて、こんなに大事に僕のことを育ててくれて僕は本当に嬉しかったんだ。あのまま捨てられていたら、僕は死んでいたかもしれない。そんな命の恩人に僕は何も出来ずに迷惑ばっかりかけて本当に御免なさいね、秀一さん。でも僕は本当に嬉しかった。毎日秀一さんと、この部屋で一緒にご飯を食べたり、庄太さんの家に毎日来てくれて会いに来てくれたのも僕にはとっても嬉しい事だったんだ。皆で僕の小屋を作ってくれて、こんな僕に皆本当に色々してくれて感謝の気持ちでいっぱいです。秀一さん本当に有難う。秀一さんと出会って、何気ない毎日が本当に楽しかったし、たくさんの愛情を秀一さんから貰いました。感謝の気持ちでいっぱいです。それなのに迷惑ばっかりかけてごめんなさい。でも本当に秀一さんと楽しい日を過ごせて僕は幸せでした。今まで本当に有難う。受験頑張って下さいね。合格する事を祈ってます。さよなら、秀一さん・・。
僕はそっとベットに上がって秀一さんの手を舐めた。大好きな秀一さんの手。大きくて温かくて僕は何度もこの手に包まれて、この手が大好きだった。
「んっ・・。」
秀一さんが少し寝返りを打つ。僕はしばらくの間秀一さんを見て動かなかった。
{さよなら、秀一さんー}
溢れそうな涙をこらえながら、僕はゆっくりとベットから降りて部屋を出て行った。
「んーん。」
日差しがだるく感じる毎日。日曜の朝、僕はまだ眠い目を擦りながらゆっくり体を起こした。
「・・・純平・・?」
いつもなら僕が目を覚ますか覚まさないうちにベットに駆け上がって手や顔を舐めてくるのに。
「・・純平?」
ベットから出て立ち上がった時、バサッと何かが落ちる音がした。
「ん・・?」
一冊の本。昨日は何も読まずにすぐに寝たと思うんだけど・・。
「あれ、この本・・。」
僕はゆっくりその本を拾い上げた。
「たくさんのありがとう・・。」
僕の大好きな絵本だ。大分前に純平にも読んで聞かせていた・・。
「あ・・、純平?純平!」
僕ははっとして部屋中純平を探し始めた。
「純平!純平!」
何処にもいない。僕は嫌な予感がしてたまらなかった。少し開いていた部屋のドア。昨日の夜ドアが開く音を夢の中で聞いた気がした。純平は部屋のドアをジャンプして開ける事が出来る。ただ僕が部屋を出ちゃいけないって言ってたから、いつもはしなかっただけで。一階に下りればジュエリーが出入り出来る戸があるから、そこから外に出て行ったんじゃ・・。こんな寒い季節に外なんか出たら、凍えてしまうかもしれないのに。
「純平!」
僕は急いで外に出て行った。何処か当てがあるわけじゃない。でもとにかく探さないと純平が死んじゃうかもしれない。そんなことになったら、僕はどうしたら・・。
「純平!純平!」
近所の庭、公園の滑り台、砂場の横のベンチの周り、大きな道路で引かれていやしないか、僕は必死になって探し続けて、気が付けばもう日が暮れそうになっていた。
「純平・・。」
こんなに探してもいないなんて、もう何処か遠くに行ってしまったのか・・。
「僕が、僕がちゃんともっと見てやっていたら・・。」
僕がこんな意気地なしじゃなくて母にちゃんと了解を得て純平を飼っていれば、こんな事にはならなかったんだ。僕がもっとちゃんとしてやれていたら・・。まだ足の怪我も治っていないのに、こんな寒い中でお腹も減っているだろうに。何処に行ってしまったんだ、純平!
「おーい、秀一君。」
遠くで呼ばれて振り返ると庄ちゃんと満が歩いてきた。
「凄い、偶然だなあー。今秀ちゃんに会いに行こうとしてたとこなんだ。」
庄ちゃんが言った。
「今日出張から帰って来たんだ。で、小庄太と純平ちゃんを迎えに行こうと思って。」
「そうか、そういえば今日だったんだ・・。」
「何かあった?」
庄ちゃんが聞く。
「えっ・・?」
「何か顔色悪いよ。」
「あっ・・。」
僕は言葉に詰まった。迎えに来てくれた庄ちゃんに、実はその純平が行方不明なんて笑えない冗談だ。
「実は・・。」
でも今はそれどころじゃない。それに一人で探して不安だった僕は少しほっとした。
「実は純平が行方不明で・・。」
「えっ・・?」
庄ちゃんと満が声を揃えて言った。
「行方不明って、どっか遊びに行って帰ってきてないだけじゃないの?。」
「いや、多分違うと思う・・。」
僕の不安そうな顔が二人に伝わったのか、二人はそれ以上何も聞かずに、
「取りあえず手分けして探そう。」
と言ってくれた。日がどんどんと落ちてくる。辺りはもう薄暗くなっていた。
「いたか?」
「いや、見つかんねえ。」
僕達は合流して焦りを感じていた。
「何処行っちまったんだろうな、純平の奴。」
満が言った。
「ごめん、皆。こんな時間までつき合わせちゃって。後は僕自分で探してみるよ。有難う。」
「また、謝ってる。困ったときはお互い様だろ。それに、俺達だって純平が心配なんだから。」
そう言って庄ちゃんはポンと僕の肩を軽く叩いた。
「有難う。」
「おう。いいって事よ。」
満が言った。
「もう一度公園に行ってみよう。」
純平と出会った場所。もう一度探してみよう。でも、そこにもいなかったら・・。
「公園か。よし、行ってみよう。」
僕達は公園へ向かった。
「純平―、純平―。」
くまなく探して諦めかけたとき公園の裏手に流れている河川敷まで出て行って足を止めた。
{クウーン、クウーン}
微かに犬の鳴き声がする。
「純平だ!」
僕は叫びながら声のする方へ走って行った。
「純平!純平!」
庄ちゃんと満も僕の声を聞いて駆け寄ってきた。
{秀一さん・・}
純平は驚いた様子で僕を見ていた。
{秀一さん、何で此処に・・}
吐く息が真っ白になっている。凍りそうなほど寒い日だ。
「純平!探したんだぞ、純平!無事で良かった。」
僕はほっとして大きく息を付いた。
「さあ、こっちおいで。一緒に帰ろう。」
{秀一さん・・。もしかして、ずっと僕を探して・・。}
「さあ、おいで。純平。帰ろう。」
{でも秀一さん、僕は、僕は、ずっと迷惑ばっかりかけてしまうから・・。僕は、秀一さんと一緒に帰る資格なんてないよ・・}
「何してるんだ、純平。早く帰って、ご飯食べよう。お腹空いたろ?」
{秀一さん、僕は、僕は帰れないよ・・}
純平はくるっと後ろを向いて歩き始めた。
「純平、何で。行くな、純平!こっちおいで、一緒に帰ろう!」
{秀一さん、有難う。さようなら}
「待てよ、純平!行くなよ、純平!純平、僕には純平が必要なんだ!だから、行っちゃうな!」
{えっ・・}
純平は足を止めた。
{秀一さん、今何て・・}
「純平、僕には純平が必要なんだ!だからお願いだ、行っちゃうな!」
{秀一さんが、僕を必要って・・}
純平はゆっくり振り返った。
{こんな僕を秀一さんは必要としてくれるの?僕は迷惑ばかりかけてきたのに、秀一さんの傍にいて良いの?}
純平はずっと僕の顔を見ていた。
{本当に本当に良いの?秀一さん}
純平はずっとこっちを向いて鳴いていた。
{本当に、本当に、嬉しいです。有難う、秀一さん}
もう辺りは暗くなっていて僕ははっきり見えなかったけど、まるで純平が涙を流しているように見えた。
{クーン、クーン}
「良かった。純平、さあ、おいで。」
僕は手を差し出した。ゆっくり純平がこっちに向かって歩き始めた。昨日降っていた雨で川が増水している。
「気をつけて、純平。」
そう言った瞬間、純平が足を踏み外した。
「危ない!」
純平の小さな体は増水した川の中に一瞬で飲み込まれた。流れが速く一気に流されてしまう。
「純平!」
僕は急いで下流へ走り出した。
「どうした?」
追いついてきた二人が僕に聞いた。
「純平が、川に落ちたんだ!」
走りながら、そう叫んだ。
「何だって?」
二人も驚いた様子で僕の後を急いで走ってきた。
「純平、純平・・」
僕は何かを唱えるように何度も純平の名前を叫んでいた。急いで下流へ先回りして何とか純平を捕まえようと僕は必死だった。走って走ってハアハアと僕は息を吐きながらそれでも流される純平を必死に追いかけた。
「痛っ。」
滑りやすくなっている川沿いで僕は足を取られ大きく横転し転げ落ちた。
「ハアハア・・」
痛みが全身に走って僕は泥だらけになっていて、それでも何とか起き上がりまた走り出した。
「うっ。」
一瞬足に激痛が走る。挫いたみたいだ。
「ハアハア・・。待ってろ、純平・・。」
僕は痛む足を引きずりながら、それでも必死になって走っていた。体の痛みも足の痛みも、そんな事よりとにかく純平を助けようと必死だった。
「純平!」
その時、川に流れ落ちる枝に何とか純平の体が引っかかるのが見えた。
{ワンワン ―秀一さん!}
「純平!純平!」
川の流れの速さに純平は負けそうになりながら、必死に枝にしがみ付いていた。
{ワンワン ―もう、駄目だ。流される・・}
「待ってろ、純平、今助けてやる!」
僕は形振り構わず一気に川の中へ飛び込んでいった。
{秀一さん!}
川の水がまるで針が刺すように冷たく痛みにを感じる。全身に刺すような痛み。それでも僕は純平の元へ向かって行った。
{秀一さん、何て事を・・。}
僕は、僕は犬が人間の言葉を理解出来るかどうかなんて分からない。もしかしたら、分かってくれている様な、そんな気になっているだけなのかもしれない。もしかしたら、人間だけが勝手に理解して欲しいと願っているだけかもしれない。だから、もしかしたら犬は理解しているようにみえて、本当は何も理解していないのかもしれない。それでも僕は、少なくとも僕にとって純平は、理解してくれているんだと信じたいんだ。このくだらない毎日の中で、誰も僕の事を必要としない、そんな何も無い僕の毎日の中で、純平はいつしか僕の心のよりどころになっていた。冷たい家族の中で、空っぽの家族の中で、もがき苦しんでいる僕の心に温かい思いをくれたのは純平だけだった。家に帰って部屋に入ると、純平だけが僕の帰りを待ってくれていた。いつも僕の帰りを嬉しそうに迎えてくれた純平。馬鹿だなって笑われるもしれない。そんな犬一匹にそこまで思い入れるなんて馬鹿だなって言われるかもしれない。でも僕は純平の喜ぶ顔や、僕が部屋を出て行く時に見せる悲しそうな顔や色んな顔を純平の気持ちと理解して傍にいるつもりだった。理解なんか勿論全部分かってやれないけど、お互いに一緒にいたいと、純平も僕を必要としてくれているんだと、そうずっと信じていたんだ。本当は僕の勝手な思い込みなのかもしれない。本当は勝手な僕の願いなのかもしれない。それでも僕は純平のことが本当に大切だったんだ。あの時のあの一冊の本の意味を。僕は、「たくさんのありがとう」のあの本が、純平の僕へのメッセージだとそう信じていたかったんだ。
「純平!純平!」
必死になって逆流を進んで、何とか純平の近くまできていた。
「純平、こっちに・・。」
僕は無我夢中で純平の体を掴み、離さないようにしっかり抱きかかえながら、流されないように何とか川沿いにたどり着いた。
「おい、秀一、大丈夫か!」
二人が心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫、僕は・・。純平を・・」
そう言って僕は純平を差し出した。
「ああ。」
満が純平を抱きかかえた。
「秀ちゃんも早く、僕の手を掴んで!」
庄ちゃんが手を差し伸べてきた。僕はしっかり手を掴んで、庄ちゃんと満が引きずり出すように僕を川から上げてくれた。
「大丈夫か!秀一!」
心配そうに満が声を掛けてくれる。
「ああ、純平が無事で良かった。僕は大丈夫・・。」
僕はほっとしたのか、体が凍えてしまっていたからか、そのままゆっくり倒れていった。
「秀一!秀一!おい、秀一!」
何度も何度も二人が僕を呼ぶ声が遠くで聞こえていた。