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第二話:僕の名は純平

「まあ、秀一、また今度の期末テスト70点だったの。はあー、こんな事なら志望のA大学合格しないわよ。」

大きなため息をつきながら秀一の母は言った。

「今度は頑張りなさいよね。全くあなたは出来が悪いんだから。良ちゃんみてごらんなさい、今回も期末テスト学年トップよ。もう少し弟を見習いなさいよね。」

苛々と何度もため息をつきながら母は言った。

「分かったら、返事。返事も出来ないの、この子は。」

「・・ごめんなさい。お母さん。」

「はあー、本当に誰に似たのかしらね。あなたは。」

目も合わさずに母は台所へ歩いて行った。

「別に僕だって、頑張ってない訳じゃないんだ。僕はあれで精一杯なのに。そんな言い方しなくたって。」

秀一は肩を落としながら自分の部屋へ歩いて行った。

「はあーー。」

部屋へ入っていった秀一は、大きくため息をついて机に座った。

「何で勉強なんてしなきゃいけないんだろう。いい大学行っていい会社入って、いい給料もらって、大きな家を建てて、年を取って。一体何が楽しいんだろう?僕には分かんないよ。」

そう呟きながら時計を見た。夜10時を回っている。

「早く勉強しなきゃ、明日の塾の予習しなきゃ。勉強やって、良い点取って。それから、それから・・。」

机の上に山積みの参考書を広げた。細かくぎっしりと文字が埋まっている。

「それから・・・?」

秀一は参考書を眺めながら呟いていた。

「その先には、何か楽しい事でもあるんだろうか?」


「うーーん。」

朝の目覚めはいつも悪い。僕、三上秀一はまだベットの中にいた。外で小鳥がさえずっている。

「秀一起きなさい。学校遅れるわよ。」

一階から母が声を掛けていた。

「分かってるよ・・。」

僕はうな垂れるようにベッドから出てきた。今日の朝も目覚めは最悪だ。結局昨日ほとんど勉強せずに寝てしまった。

「嫌だな、学校。」

ぶつぶつ言いながら階段を下りて行く。すると台所で忙しく朝ご飯の支度をしながら、母が父に何か話しかけていた。

「何とかならないかしらね、秀一。」

「うーん。」

父は朝刊を読みながら曖昧に頷いていた。僕の話だ。僕は歩きかけていた足を止めた。

「この前の期末テストも悪かったのよ、今回もこんなだし。このままじゃ、A大学は無理だわ。本当にどうしましょう、あの子。一体何を考えてるのかしら。さっぱり分からないわ。もう、困ってしまって。頑張りなさいって言っても返事もろくに出来ないし。本当誰に似たのかしら。」

「うーん。」

また適当に父が返事をしている。いつもそうだ、僕の父は話を聞かない。家の事に興味がないのだ。

「ちょっと、あなた聞いてるの?」

「え、ああ、ちゃんと聞いてるよ。今日も残業で遅くなるから。」

「全然聞いてないじゃない、何よ残業って。どうせ、ただの飲み会でしょ。いいわよねー男の人は。残業残業っていえば、何でも許されるんだから。」

こうなると父はもう何も言わずに黙ってしまう。いつものパターンだ。

「はあー、この家でまともなのは私と良ちゃんだけね。」

父は読み終えた朝刊をテーブルの上に置いて残りの味噌汁を飲み干した。

「だったら、いいじゃないか、後継ぎはまともな良次に任せれば。それで君も文句ないだろう。」

「まあ、それはそうなんだけど・・。でもある程度は2人ともいい大学に入ってくれなくちゃ、周りの体裁もあるじゃない?」

「・・まあ仕方ないじゃないか、せめて良次が後を継いでくれるなら。どっちも駄目よりましだろう。」

「まあ、それはそうなんだけど。」

「もう、行く時間だ。行ってくる。」

「あら、そう。じゃ、あなた行ってらっしゃい。」

「ああ。」

慌しく父は出て行った。いつものように僕に気付かずに。

「ふう。」

母は小さくため息をついて、父が食べ終わった茶碗を片付け始めた。

「ああ、そうだ。秀一を起こさなきゃ。良次は朝練で早く出るし、この二回の朝ご飯の準備も手間なのよねー。」

そう言いながら手早く片付ける。

「おはよう。」

僕は今来たかのように台所に入って行った。

「あら、秀一、早く食べないと学校遅れるわよ。」

「うん。」

僕は座ってご飯を食べ始めた。慌しい朝。さっきの会話のせいでお味噌汁が少し冷めている。母がすぐ傍の洗い場でさっきの洗い物をしている。ここから、洗い場までそう遠くない。僕はいつもこんな時、母の背中をとても遠くに感じていた。こんなに近くにいる筈なのに、何て僕の母は遠くにいるんだろう。話し掛ければすぐに返事が返ってくるであろうこの距離で、僕の母はいつも遥か遠くにいた。さっきの会話も別に驚くことはない。高校に入ってから今日までずっと、何度も耳にしてきた言葉だ。もう傷つくこともない。冷めたご飯を口にしながら、僕はそっと呟いていた。

「母さん、僕って何の為に生まれてきたのかな・・。」

そう、この呟きですら、忙しく洗い物をする母には聞こえない声だった。


「じゃあ、今日はこれで終わります。来週模擬試験があるから、希望する人は帰りに申し込み用紙を提出して下さい。」

ガラガラ・・皆一斉に席を立つ。やっと塾が終わり、今日のノルマが終わった。いや、まだ終わった訳ではない。これから、家に帰って今日の復習と明日の予習だ。まだ、一日は終わらない。

「ふう、疲れたな。」

秀一はゆっくりと立って教室を出た。外へ出ると一気に体が冷える。歩き出してすぐに誰かが肩を叩いた。

「よう、秀一。」

振り返ると満が立っていた。高校三年に入って初めてクラスが一緒になった。

「ああ、満か。」

秀一は力なく答えた。

「何だよ、お前元気ないじゃん。」

満が話し掛けてくる。

「いや、別にそんな事ないけど。」

「そうか、ならいいけど。そういやお前大学何処受けんの?お前頭良いからなー、どうせA大でも狙ってるんだろ。いいよなー、頭の良い奴は。選択肢がいっぱいあるもんな。」

「そんな事ないよ。満こそ何処受けるんだよ。」

「え、俺?俺は取り合えず偏差値に沿って大学受けようかなーと思って。俺お前みたいに頭良くないから。お前みたいに頭良かったら、自分の行きたい大学好きに決めるかも知れないけど、俺の場合行きたいって思っても頭足りねえから、向こうからお断りされちまうもんな。辛いねー、人生。まあ、あの親にこの子ありってか。それに比べたら、お前んとこは良いよなー。俺ん家はしがないサラリーマン、お前んとこの親はりっぱな代議士だもんなー。DNAが違うよ、DNAが。鷹は鷹、鳶は鳶ってね。同じ年に生まれて、お前は鷹の家、俺は鳶の家。出発点が違うもん、神様って本当不公平だよなー。お前が羨ましいよ。」

「羨ましいだなんて、そんな。全然そんな事ないよ。」

「えー、そんな事滅茶苦茶あるよー、実際。例えばこうやって、2人で歩いてるとするだろ。」

「うん。」

「そん時に、誰かが喧嘩振ってきて喧嘩するとする。」

「・・うん、それで?」

「それで、派手にやっちまって、家に帰るとするだろ。」

「うん、帰るとする。」

僕は一体何の話が始まってるんだ?と思いながら、満の例えば話に耳を傾けていた。

「次の朝、案の定、学校から電話が掛かってくるわけだよ。学校にばれてさ。」

「うん、ばれちゃうだろうね、多分。そんな事やったこともないけど。」

「まあ、例えばの話。んで、まず、親に怒られるだろー。あんたー、何やったのよーって。俺の母親怖いからさー。」

満は母親の物真似をしながらそう言った。流石に親子だ、よく似ている。

「うん、知ってる。」

僕はそっくりな物真似ぶりに感心しながら頷いた。

「だろ。で、学校行ってみるわけよ。それで、校長やら、担任に、散々怒られる。」

「うん、きっと、そうなるだろうね。」

「な、普通そうだろ。でも、違うんだよ。」

満はチッチッチッと指を動かしながら言った。

「違うって何が。」

「お前だよ、お前。」

「僕?」

意外な言葉に僕は不思議そうに答えた。

「そう。だって、お前代議士の息子だぜ。そんな事世間に知れたら、スクープになっちまうだろ。もう既にお前がやったって事はもみ消されてるのさ。」

「・・そんな事。」

「いやー、絶対そうだぜ。気が付いたら、俺だけ学校呼ばれて俺だけが怒られてんの。んで、俺は先生達に謝りながら心の中で、秀一遅えなーとか思ってるわけ。いつ来んのかなーとか思ってる内に気が付いたら俺だけ反省分書かされてるんだぜ、きっと。」

「反省文って・・。」

「いいよなー、金と権力持ってる親は。子供も何でもやりたい放題だもんな。」

「そんな事、ないよ。」

僕は少し小さく答えた。

「分かってるって。お前は少なからずそんな事しないもんな。そこが、お前の良い所でもあり、勿体ない所でもある。」

「勿体ない・・?」

「そう。俺が、お前だったら、悪い事いっぱいするもんね。んで、全部親にもみ消してもらうんだ。小遣いも付き20万ぐらい貰って優雅に暮らす訳よ。ささやかな夢だけどね。ま、そんな夢話したって無理なんだけど。俺はもう、鳶の家に生まれちまったからなー。まあ、その代わりお前が俺の夢を叶えてくれよ。」

「何言ってんだよ。」

「あはは、冗談冗談。」

満は軽く笑い飛ばした。小さい頃よく公園で見かけて、満はいつも泥だらけで遊んでいた。それが凄く楽しそうに見えて真似しようとした僕に、

「お洋服が汚れるでしょ、やめなさい。」

そう母に言われて僕は何も言えずに、ただ羨ましそうに泥まみれになって走り回っている満をずっと見ていた。

「こらー、満。またこんなに汚して。洗濯する方の身にもなってみなさい。」

満の母が夕飯前に満を迎えにきて、いつも怒っていた。

「えへへー。」

いつものように満が笑う。

「えへへーじゃないでしょう、もう。早く帰ってご飯にするわよ。その前にお風呂入りなさいよ、でなきゃご飯あげないからね。」

「はーい。」

「ご飯の時だけ返事がいいんだから。」

そう言って満の手を引いて一緒に帰っていった。怒られてもいつもへらへら笑っていた満。それは今も全く変わっていない。僕は小さい頃から既に分からないでいた。どうしていつも怒られているのに、あんなにへらへら笑っていられるのだろう。僕ならきっと怒られたら二度としないように気を付けるのに。

「お前の方が羨ましいよ。」

僕はポツリと呟いた。

「んー、何か言ったか?」

満が聞き返してくる。

「いや、別に。」

そう言って僕たちはそれぞれの家に向かって行った。家に向かいながら僕はさっきの話を思い出していた。

「悪いことか・・。」

悪い事って一口に言っても一体どんな事があるんだろう。殺人とか強盗とか。それは究極に悪い事として万引きとか喧嘩とか。それぐらいの小さな事件なら、僕の親は確実にもみ消すだろう。そして、僕は何事もなかったように、また何食わぬ顔で朝を迎えて生活を始める。そしてまたやったとしても、また僕の親はもみ消すだろう。何度も、何度も。そうしてる内にきっと僕はその罪を罪として感じなくなる。だって、朝になれば何事もなかったかようにいつもの朝を迎える事が出来るんだから。何も変わらないいつもの朝をー。

「人生楽勝だね。」

僕は少し笑って言った。きっと親はどうしようもない子供だと手を焼きながら罪の事実をもみ消すのだろう。それが自分の為であり自分の子供の為であると信じて。なかにはそれを親の愛情だと確信する人もいるだろう。そのままじゃ、台無しになったかもしれない子供の人生を俺が守ってやったんだって。でも本当は誰も気付いていない。そこに親と子の会話が無かったことに。いつもと何も変わらない朝を迎えて、一度も顔を合わせていないことに。

「本当は、色々話したいんだよ。父さん。」

ほとんど家に帰らない父。家に帰っても母の話をめんどくさそうに聞いている。気付いてた?父さん、もう、僕何年も父さんと会話してないんだよ。たまに会えばちょっと挨拶するくらい。小さい頃から本当は話したいことはいっぱいあった筈なのに、今はどう伝えていいのか分からない。会話の仕方を忘れてしまった。

「悪い事か。一度やってみたい気もするけど。」

そんな事言って出来ない事は薄々分かっていた。小さい頃、怒られるのを怖がって一枚の服さえ汚す事ができなかった僕。そんな僕が悪いことなんてきっと勇気が出ないに違いない。

「勇気が出ないって・・悪い事するのに勇気を持ってって。」

何でわざわざ勇気を振り絞って悪い事しなきゃならないんだ。

「・・疲れてるのかな・・・。」

考えながら歩いていると、もう家の近くの公園まで来ていた。通り過ぎようとしてふと僕は足を止めた。

「ん?」

立ち止まって下を見ると、ボロボロのダンボール箱に一匹の犬が入っていた。

「嘘だろ、めずらしいな、今の時代。ダンボールに捨ててるなんて。」

よく見ると生まれたばかりではないらしい。毛並みもしっかりしていて、愛らしい目で僕を見ている。

「捨てられたのか、可哀相に。」

{キューン。 ーお腹すいたよ}

「お前、いつから、ここにいたんだ?塾行くとき全然気付かなかったな。」

{ワン。 ーずっといたよ}

「飼ってやりたいけど、家犬飼ってるんだよね。」

{ワン。 ーいいよ、別に。気にしないから}

「どうしよっかな。取り合えず今晩は家でミルクでも飲むか?夜も冷えるだろうし・・。」

{ワン。 ー有難う。すっごく助かる。ここの場所冷えるんだよねー}

「んー、問題明日以降だな。家で飼うの反対されるだろうし。」

{ワンワン。 ー大丈夫だって。何とかなるよ}

「取り合えず、明日満にでも相談してみるか。」

{ワン。 ーうん、そうしよう}

秀一は子犬をひょいと軽く持ち上げて家路に向かった。

「とにかく、ばれないようにしなきゃ。」

家に着くといつものように、

「ただいま。」

とだけ言って、すぐに二階へ上がっていった。別に「おかえり」と返事があるわけでもない。僕の中での儀式の一つでしかない。

「ちょっと、待ってろ。今ミルク持ってきてやるから。」

秀一はそっと階段を下りて行った。母が居間でテレビを見ている。ばれないように器に牛乳を入れた。

「温めた方がいいかな。」

電子レンジに手をやりかけたとき母が居間から話し掛けてきた。

「今塾が終わったの?」

秀一は電子レンジに伸ばしかけた手を慌てて戻した。

「えっ、ああ、うん。」

「来週の模擬試験あなた受けるんでしょ?申し込みはちゃんと済ませたの?」

何で来週模擬試験ある事知ってんだ?いつものご近所の噂で聞いたんだな。

「ああ、受けるよ。」

一言返事をして、秀一は急いで器を持って部屋を出た。実は受けるつもり無かったから、帰りに提出していない。秀一はため息を吐いた。

「明日、申し込み用紙提出しなきゃ。」

秀一は零さないように慎重に階段を上り部屋に入った。犬が行儀良く座っている。

「ほら、飲みな。お腹減ってるだろ。冷たいままで申し訳ないけど。」

そう言ってそっと器を差し出した。ゆっくり飲み始める。

「家で飼えたら良いんだけどな。」

犬の頭を撫でながら秀一は言った。

{うん、僕もこんな優しいご主人に飼われたい}

触れる手の温度を感じながら犬もそう思っていた。



「んー、どうだろうな。一応聞いてみるけど。」

秀一は犬の貰い手を満に相談していた。

「やっぱ、難しいよな、満ん家も。もう犬いるもんな。」

「まあな、でも他の友達にも当ってみるよ。」

「悪いな。」

「気にするなって。飼い手が見つかったら電話するよ。じゃ、またな。」

そう言って満は教室を出ようとした。

「えっ、またなって。お前もこれから塾行く時間だろ?」

と、僕が聞くと、目を泳がせながら、

「いや、まあそうなんだけど。ちょっと今日は部活に顔だそかうと思ってて。」

と、頭を掻きながら満が言った。

「部活?満もう三年なんだからとっくに引退しただろ?」

「まあ、そうなんだけど。たまには顔出して後輩の面倒もみてやらんとな。」

「嘘つけ、自分がサッカーやりたいだけなんだろ。」

「まあ、そうともいう。」

と、またいつものように、へらへらと満は笑った。

「じゃあ、満、今日の塾はどうすんだよ。」

すると満は軽く僕の肩を叩きながら、

「また今度!」

と言って廊下を歩いて行った。その姿を見たクラスの女子が急いで走ってきた。

「どうしたの?」

僕が聞くと、

「あいつー、また掃除当番さぼりやがって。」

と手にモップを抱えたまま仁王立ちしている。

「ちょっとー、満君、今日掃除当番でしょー。サボんないで帰って来―い。」

大きな声で叫んでいる。

「何―?聞こえなーい。」

白々しく満が返事する。

「掃除当番!」

「ごめーん、また今度!」

笑いながら満は廊下を掛けて行った。

「もう、いっつもああなんだから。」

「本当、いつもああだね。」

僕は見えなくなった満に向かって無意識のうちに呟いていた。

「やっぱ、お前のほうが羨ましいよ。」


塾が終わって、いつものように遅い帰宅になっていた。

「ただいま。」

秀一は小さい声で言った。別に返事が返ってくるわけではない。そのことに何の疑問もなく秀一は台所へ向かった。弟は二階の部屋で、父はいつものように家に帰っていなかった。母は居間でテレビを見ている。秀一はテーブルの上にある晩御飯を温め、食べ始めた。おかずとご飯を少しずつ分けて別の器にのせる。秀一は適当に晩御飯を食べ終え、ご飯ののった器を隠しながら二階ヘ上がり、自分の部屋へ入っていった。ドアを開けると犬が行儀良く座って待っている。

{ワン!  ―お帰りなさい!}

秀一は慌ててドアを閉めた。

「しい、あんまり大きな声出さないで。聞こえちゃうだろ。」

{あ、ごめんなさい}

「遅くなってごめんな。ほら、ご飯。残りもんで悪いけど。」

そう言って秀一さんは僕の前に器を置いた。

{そんな悪いだなんて。僕の方こそ秀一さんのご飯分けてもらって、秀一さんこそ足りてないんじゃないんですか?}

僕は食べるのをためらった。本当に申し訳ない。

「んー、どうした?食べないのか?遠慮するな、お腹減ってるだろ。」

秀一さんは僕の頭を撫でながら言った。

{でも・・}

「大丈夫。気にせず食べていいんだぞ。温かい内に、さあ、食べろ。」

{・・ありがとう}

僕はゆっくり食べ始めた。まだご飯が温かい。食べながら、秀一さんはずっと僕の頭を撫でてくれていた。大きくて暖かい手。僕は秀一さんの手が大好きだ。

「いつもごめんな、遅くなって。」

{ううん、そんな事}

僕はあっという間にご飯を全部平らげていた。

「ご飯ももっといいやつ持って来れればいいんだけど。」

{そんな。凍えそうで今にも死にそうだった僕を助けてくれて、それだけでも十分感謝してるのに。こんな温かい部屋で、しかもご飯まで秀一さんのご飯分けてもらって。悪いだなんて、バチが当っちゃうよ}

「まあ、もう少し、飼い主が見つかるまで我慢してくれよな。」

{ううん、いつも感謝してます。ありがとう}

「んー、でも、飼い主、見つかるかなー。」

{見つからなくて良いよ}

僕は尻尾を大きく振って答えた。

{僕、秀一さんの傍にずっといたいし}

「んー、でも大分経つし。・・名前・・。」

{名前?}

「飼い主が見つかったら、どっちにしろ変わるから、つけない方が良いと思ってたんだけど。でも名前ないのも呼びにくいし。まあ、つけちゃうか。仮って事で。」

秀一さんは辺りを見渡した。

「んー、何が良いかな?」

そう言って、ふと、机の本棚に目をやった。

「そうだ、純平にしよう。」

{純平?}

「うん、そうだ。それが良い。」

{僕は純平}

名前が付くなんて何か嬉しい。僕はまた大きく尻尾を振っていた。

「気に入ってくれるかな。」

{うん、もちろん。ありがとう、秀一さん}

秀一さんは立ち上がって机の棚から一冊の本を取り出してきて、僕に見せた。

「実は、この本の主人公の名前なんだ。」

{主人公の?}

淡いグリーンの表紙に何か文字が書いてある。

「たくさんのありがとうって言うんだ。」

{たくさんのありがとう・・}

「この話は主人公の純平が旅をしていく話なんだ。旅の途中で純平は色々な困難にぶち当たる。その度に出会った人に助けてもらったり、自分でその困難を乗り越えたりして、少しずつ純平自身が成長していく話なんだ。旅から帰ってきた時、純平は何一つ持っていなかった。服も靴も鞄もボロボロで、財布の中もお金なんて1円も残ってなかったんだ。街の人達は皆純平を見て笑った。あいつは服もボロボロで何一つ手に入れず、何しに旅に出たんだって、街の人は皆そう言って純平を笑ったんだ。」

{・・それで?}

「でも純平は大笑いされているのに、気にせずに、皆の前でこう言ったんだ。僕はたくさんの物を手に入れたよ。街の人は不思議そうに純平を見た。すると純平はこう言ったんだ。」

{・・・}

「たくさんのありがとうを・・と。」

{たくさんのありがとう・・}

「純平は旅の途中、たくさんの人に助けてもらった。1人ではとても旅を終える事なんて出来なかったんだ。旅をする中で純平は沢山の人と出会い困難を乗り越え、沢山の感謝を感じ沢山のありがとうを手に入れた。目には見えない多くのものを純平は手に入れたんだ。」

{目に見えない多くのもの・・}

「それを聞いた街の人は誰も純平の事を笑わなくなった。そしてまた純平は新しい旅に出るんだ。また沢山のありがとうと出会うために。」

{たくさんのありがとう・・}

そして秀一さんはゆっくりと本を閉じた。

「な、いい話だろ。僕この話大好きなんだ。小さい頃に読んで凄く感動して。こんな絵本高校生の僕が持ってるなんて、気持ち悪いって思われるだろうけど。」

{そんな事ないよ}

「でもこの主人公の純平は、僕の理想なんだ。」

{理想?}

「前向きでどんな困難にも逃げないで乗り越えていこうとする姿。周りの人達に笑われて何て言われようと全く動じない自信が純平にはある。羨ましいんだ、僕は純平が。」

{羨ましいなんて、そんな}

「僕にはこんな勇気もないし、胸をはって言える程の自信も、僕には何も無い。」

{そんな事ないよ。秀一さんは凄く優しいし、今は受験で大変なのに、こんな僕の為に、色々してくれて。そんな風に思わないでよ・・}

「それに僕はこのありがとうがいまいち良く分からないんだ。」

{分からない?}

「言ってる意味は良く分かってるんだけど、僕自身がちゃんと感じた事がないっていうか・・。」

{感じた事?}

「何か、普通にありがとうって思うことは、もちろんたくさんあるよ。でも心の底から湧き出るようなというか、体中がジンとくるっていうか・・」

{ジンとくる・・}

「小さい頃から、物はあって別に困る事はなかったし欲しい物は何でも親が買って来てくれた。それが親の愛情だと思ってるからね、家の親は。それはそれで感謝してるし、とても贅沢な事だって分かってる。普通は何でも買って貰えるわけじゃないし、世の中には明日のご飯さえ食べれない人達だってたくさんいるんだ。こんな事考える事自体おこがましいんだけど。でも何かこう、ジンとくるありがとうってのが無いような気がして。ただ単に僕の感情が欠落してるのかな?何か心からありがとうって言ってもらった事もないような気がする。」

{そんな事ないよ!いつもありがとうって思ってるよ!}

「やっぱり、僕って駄目だよなー。ごめん、ごめん、こんな話。つまらないよな。」

{そんな事全然ないよ}

「ああ、もうこんな時間だ。純平は先に寝てろよな。僕はもう少し明日の予習しなきゃ。」

そう言って秀一さんは机に向かった。自分の事駄目だなんて言わないで。そんな事全然ないのに。僕も悲しくなってしまうよ。僕は机に向かう秀一さんの背中を見ていた。どこか寂しげな・・。秀一さんはよく寂しそうな顔をする。何が彼をそうさせているのだろう。僕が言葉を話せたら良いのに。そしたら僕は真っ先にこう言うだろう。

{秀一さん、心からいつもありがとう}



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