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第十話:一番の花

「純平―、純平―。」

僕は大きな声を出しながら、庄ちゃんの家の裏庭まで走っていた。

{ワンワン! ―秀一さん!どうしたんですか?そんなに慌てて}

「純平、聞いて。受かってたよ!第一志望!」

{ワンワン! ―本当ですか!おめでとうございます!}

純平は大きく尻尾を振ってくれていた。

「有難う、純平!一緒に喜んでくれる?」

{ワンワン! ―勿論ですよ!受験受かって本当に良かったです!おめでとうございます!}

純平はハアハアと息を吐いて僕の顔を舐めている。

「あはは、分かった、分かった、純平。あはは、くすぐったいよ。」

{ワンワン ―だって本当に嬉しくて。秀一さん、本当に一生懸命頑張ってたし、本当に嬉しいんです}

{ワンワン! ―よ、秀ちゃん、合格おめでとう!}

小庄太も僕の傍に来て、体をすり寄せて来た。

「小庄太も本当、有難うな。」

{ワンワン ―いや、俺は何にもしちゃいないさ。秀ちゃんの実力だよ}

僕は小庄太の頭も何度も何度も撫でていた。

「本当、有難うな。小庄太。」

{ワンワン ―秀ちゃんは、やる奴だと俺は思ってたよ}

僕達がひとしきりじゃれた後、庄ちゃんが仕事から帰ってきた。

「おおー、秀ちゃん久しぶり。来てたんだ。」

「お邪魔してます。」

僕は純平と小庄太に塗れながら返事をした。

「庄ちゃん、僕受かったんです、第一志望。」

僕は庄ちゃんに伝えた。

「おおー、そう。そうかー、おめでとう。秀ちゃん良かったねー。」

庄ちゃんは満面の笑みを浮かべて、そう答えてくれた。

「有難う、庄ちゃん。」

僕も答えて、にっこり笑った。

「秀ちゃん、本当頑張ってたもんね。いやいや、秀ちゃんは、やる奴だと俺は思ってたよ。」

庄ちゃんは深く頷きながら言った。

{俺と同じ事言ってるよ}

小庄太が言った。

「そんな、皆のお陰だよ。」

「また、ご謙遜。本当、秀ちゃんはよくやったよ。たまには認めなさい、本当に一生懸命やってたんだから。」

そう言って庄ちゃんは、またにっこり笑った。

「有難う、庄ちゃん。」

僕はそう言って、僕もまた、にっこり笑った。

「お母さんには報告した?喜んでた?」

庄ちゃんが聞いてきた。僕は首を横に振って、

「まだ、言ってない。帰ってから言おうと思って。」

と答えた。

「そうか。喜んでくれるといいねー。でも、そうなると、報告者は純平君が一番って事か。ふーん、相変わらず大事にされてるねー、純平君は。」

「あはは、まあね・・。」

{えっ・・、秀一さん・・}

純平の舐める動きが止まった。

「勉強でしんどい時とかに純平の顔見に来て、一緒にこうやってると、いつも気が紛れたんだ。純平見てると癒されるっていうか。いつも心が少し楽になっていく感じがしたんだ。だから、本当純平には感謝してる。言葉じゃ言い尽くせないよ、本当有難うな、純平。」

そう言って僕は、僕の頬と純平の頬をくっつけた。

「本当、有難う。」

{秀一さん・・・}

{良かったな。純平、秀ちゃんにそんな嬉しい事言ってもらって}

{はい!本当嬉しいです!秀一さんー、有難うございます!。僕も秀一さんにそう思ってもらえるなんて本当に感激です。僕も秀一さんが大好きですよー}

純平が泣きながら、僕にしがみ付いてきた。

「おいおい、純平、どうしたんだよ。急に。純平。」

{ワンワン! ―秀一さんー!}

「うわ、純平。本当どうしたんだ?大丈夫か純平?」

{クーンクーン ―嬉すぎて大丈夫じゃないですー}

純平は更に僕にしがみ付いてきた。

「純平、何だ純平。何か目が潤んでるような・・。」

{そんなに、泣くなよ。純平}

{だってー、だってー}

「あー、もう、よしよし。大丈夫だよ。純平。よしよし。」

そう言って僕は純平をしっかり抱きしめて、ずっと頭を撫でていた。

{よしよし、分かったから、もう泣くな。男だろ}

小庄太も純平の体をずっと舐めてやっていた。

「可愛いねー。本当、純平君は。」

僕達のやり取りを見ながら庄ちゃんはそう言った。


「しかし、受かってよかったねー。ホッとしたでしょう。」

縁側に座りながら、庄ちゃんが言った。

「うん。取り合えずホッとした。」

僕は庄ちゃんが入れてくれたお茶を啜りながら言った。

「満はどうなってるんだろう?」

庄ちゃんが最中をかじりながら言った。

「うーん。まだ苦戦してる。」

「だろうね。」

「幾つか受けたみたいだけど、全部駄目だったみたいで。」

「だろうね。」

「流石に、ちょっと焦ってるみたい。このままじゃ、やばいんじゃないかって。」

「気付くの遅えよ。」

「庄ちゃん・・。」

「いやいや、たまには焦んないとね。あれで、受かってたら、秀ちゃんが身を粉にして勉強頑張ってるのに不公平でしょ。ま、レベル全然違うんだけど。」

「・・・。」

「まあ、取り合えずどっか引っかかってればいいんだけどね。」

「うん。そうだね。満にはどっか受かってて欲しいし。」

「相変わらず優しいね―。秀ちゃんは。」

「そんな事ないよ。唯、満には色々お世話になってるし。」

「ふーん、満が秀ちゃんに?お世話?」

「うん。本当、色々。」

「へえー。何?余計なお世話?」

「うん・・。えっ、いや違うよ!本当にお世話。」

思わず僕は肯定して、慌てて否定した。

「へー、そう。」

頷きながら庄ちゃんはクスッと笑った。

「うん。そう。勿論庄ちゃんにも本当感謝してる。」

「えっ?俺?何で?俺何にもしてないよ。」

「そんな事ないよ。本当に感謝してるんだ。」

「え、何か俺、秀ちゃんに勉強教えた事あったっけ?教えてもらった記憶なら恥かしながらあるけど。」

「あ、勉強の事じゃなくて。」

「・・だよね。」

「・・あっ、そうじゃなくて、そういうんじゃなくて・・あ、何て言うか・・。」

「どうせ、俺って馬鹿だから・・。秀ちゃんに何一つ勉強なんて、教えることなんて出来なかったよね・・。ごめんね、出来の悪い先輩で・・。」

「あっ、違うんだって、庄ちゃん。んもうー。」

僕はまた必死で否定した。

「あはは。秀ちゃんは本当からかいがいのある奴だねー。」

「庄ちゃん・・。もう・・。」

「冗談、冗談。」

庄ちゃんは大きな声で笑った。

「でも、本当有難う。」

「え、何?」

「僕、純平助けて、その後庄ちゃんと満に助けてもらった時あったでしょ。僕、あの頃本当に苦しかったんだ。何かもう、何かに押しつぶされてしまいそうになってて。もう、自分でも何がどうなっているのか、何をどうしたいのか分からなくなってて・・。辛かった・・。抜け出せない迷路の中に迷い込んで、真っ暗で何も見えなくて。その暗闇がどんどん狭くなって僕は押しつぶされそうになってしまうんだ。親が願う大学に何としてでも入らなくちゃっていう重圧に押しつぶされそうになりながらも、でも、どこかで、そうじゃない、僕はこんな事がしたいわけじゃないって思うジレンマに悩まされて、でも、何がしたいかなんてあの頃は分からなくて。結局何にもない自分に情けなくなってしまって・・。もう、何処にも逃げ場がない真っ暗な闇の中を僕はさ迷うだけしかもう道がないように思えたんだ。それで、逃げようとして僕はあんな事を・・。」

「辛かったんだね・・。」

「―うん。逃げられるわけなんてないのに。逃げられるわけなんて・・。でも、僕はもしかしたら、壊したかったのかもしれない。あの真っ黒い暗い闇を・・。ナイフであの闇を破ったら、僕は抜け出せるかもしれないって思ったんだ。そしたら、明るい光が見えるかもしれないって・・。そう、思ったんだ・・。」

「・・・。」

「母さんを怪我させた時、赤い血が流れて真っ黒な僕の闇に赤い血の色が飛び込んできたんだ。その赤い血と共に、ゆっくり僕の闇が壊れていくのが分かった。でも、やっと抜け出した闇の次の世界は、現実がぼやけた世界だったんだ。何か薄い膜みたいなのがべっとり張り付いてて、何が何か結局良く見えなくて、良く聞こえなくて・・。自分の中でパニックに陥っていたんだよね。そう、次の瞬間だったんだ。僕が我に返ったのは・・。」

「・・・。」

「純平の泣き声だったんだ。」

「純平・・。」

「そう。純平が母をかばって僕のナイフが当って傷ついた時に叫んだ声が僕の耳に入ってきて、それで、我に返った。やっと、初めて現実世界が見えてきたんだ。でも、その世界は最悪だった。僕は取り返しのつかない事をしてしまった後だったからね。もう、また何が何だか分からなくなって・・。生きた心地がしなかった・・。」

「・・・。」

「でも、庄ちゃんと満に全部話したら、ホッとしたよ。何かがスウーと降りていったみたいに。・・全部、受け止めてくれて有難う。あの時、庄ちゃんと満が受け止めてくれてなかったら、僕はきっと、完全に壊れてた・・。あの時、庄ちゃんと満が僕を支えてくれたから、僕はまた立ち上がる事が出来たんだ。そして、ここに戻る事が出来た。この、現実のこの世界に・・。」

「現実の世界・・。」

「うん。」

「どんな色?現実の世界は?」

「ん?そうだね、いろんな色。色鮮やかだよ、色んな色が混ざり合ってて、くっきり見えてる。とっても、綺麗な色だよ!」

「そっか・・。良かった・・。」

そういって、庄ちゃんは微笑んだ。

「ねえ、庄ちゃん覚えてる?夜中、庄ちゃんが小庄太散歩してて会った時の事。」

「ああ、覚えてるよ。」

「あの時、結構時間遅かったのに、庄ちゃん小庄太連れて散歩してて・・。庄ちゃんが声掛けてくれたんだ。」

「そうだったかな。」

「そう。庄ちゃん次の日も仕事あるのにこんな夜中に散歩してって。何で散歩してたか覚えてる?」

「え、いや、覚えてないなー。何で?」

庄ちゃんは腕を組みながら、首を捻った。

「星が綺麗だったからだよ。」

「・・。星が綺麗だったから?それ、俺が言ったの?」

「うん、そう。」

「え、覚えてない・・。俺って結構メルヘンチックっだったのな。ちょっと恥ずかしい。」

「そんな事ないよ。僕、母さんに駄目だって言われてたのに、部屋にこっそり純平連れてたんだ。それが、見つかっちゃって。で、母さんに怒られて、純平捨てて来いって言われて・・。それで、反抗できずに純平を公園に置いてきたんだ。」

「そうだったんだ・・。」

「うん。本当に自分が情けなくて。あの時、庄ちゃんに星が綺麗だって言われて見上げたけど、あの時の僕は星が綺麗だなんて分からなかった。」

「心が沈んでる時は、綺麗に見えなくなっちゃう事もあるよね。」

「うん。そうだね。でも、僕大分後になって気付いたんだ。星が綺麗に見える見えない以前に、僕はずっと、星を見ていなかった・・。」

「・・・。」

「僕は毎日ずっと勉強で、休憩はテレビゲーム。何かっていう、自身もなかった僕は、いつも下ばかり見て空を見ていなかった・・。だから、庄ちゃんに星が綺麗だって言われた時も、何でわざわざこんな時間に星なんて見に来てるんだろうって思って。だから、見上げても、その星が綺麗かどうかなんか分からなかった。・・あんなに降り注いでいる綺麗な星も気付けずに、僕は毎日毎日あくせくあくせく何をやっていたんだろうって・・。」

「必死にもがいてたんだね。」

「本当に疲れてた・・。」

「そう言えば・・。あの時秀ちゃん、僕に難しい事聞いてたね。」

「え、そうだっけ?え、何?」

「人生は楽しいかどうか・・。」

「あっ、うん。覚えてる。僕あの時あんまり楽しくないって答えてた。」

「そう。あの時はびっくりしたよ。まだ若いのに、もう人生考えてるのか?って。俺なんかそんなの、あんまり考えた事ないのに。満なんて絶対考えた事ねえぞって。」

「うん。確かに。満は考えてなさそう。」

「あの時、人生は?って聞かれて俺が楽しかったり楽しくなかったりって言ったら、秀ちゃんなんて聞いたか覚えてる?」

「え、何て言ったっけ?」

「どっち?って聞いてきたんだよ。」

「・・・。」

「正直、俺、その質問にもびっくりしちゃったんだけど。だって、人生って山あり谷ありじゃん?それなのに、どっちかしかないっていう考え方自体、俺の中ではびっくりしちゃって。人生はどっちかじゃ駄目なんだ、どっちもないと。」

「どっちも・・。」

「そう。どっちも。悲しかったり辛い思いを乗り越えるから、楽しい事が楽しいと感じられる。傷つくからこそ痛みを分かってあげられる。僕達はその思いを育てるために、学習しなくちゃならないんだ。本当に楽しい事、痛みを分かってあげる事。その経験は教科書で勉強したって理解する事は出来ない。経験でなきゃ。自分がされて嫌な事は他人にするなって言うじゃない?どれだけ辛いかは経験して初めて分かるもんなんだよ。僕もよく何で自分だけがこんなに忙しくてこんなに大変で嫌な思いして仕事しなきゃならないんだよって、よく思う事があるんだけど、よくよく、皆と話してみると、自分だけじゃないんだなって痛感しちゃうしね。どっちも、ないと駄目なんだよ、どっちも。」

「どっちも・・。」

「人間はロボットなんかじゃない。感情があるんだから。でも、その感情は、教科書で培うもんじゃない。いろんな人に出会って、経験して学んでいくもんだからさ。完璧じゃなくて良いんだよ。完璧なのはロボットの世界だけ。僕達は人間なんだから。出来る事と出来ない事があって人間。不完全だからこそ、人間なんだよ。」

「不完全だからこそ、人間・・・。」

「そう、不完全だからこそ。人間は長所もあって短所もあって人間。そうやって不完全な所を、皆の力や、自分の力で少しずつ良くしていく努力をしていくことが、きっと大切なんだと思うよ。そして、機械やロボットには無い感情というものを育てて吸収していくことが、まあ、人生の学びってやつなんだろうね。」

「・・。庄ちゃんは凄いね。僕なんて、そんな事全然分からなかったのに。」

「教えてもらってないからだよ。ちょっと悲しい事だけどね。その分秀ちゃんは勉強に注がれたって感じかも。とは言っても、じゃあ、俺はそんなに凄いのかって言われたら、全然。俺もまだまだ人生修行の身。あんまり、凄いなんて言わないで。まじ、俺なんか、全然凄くも何でもないから。でも、秀ちゃん、俺の話してる事、ああ、そうだねって言ってくれるよね。嬉しいよ。秀ちゃんは本当純粋だね。」

「え、そんな事ないよ。」

僕は首を振った。庄ちゃんは少し微笑んで、

「ああ、何かさー。どっか遊びに行きたいねー。せっかく秀ちゃん合格したし。パア―っとさあ。」

両手を大きく広げて言った。

「うん。行きたいねー。あっ、でも、満がまだ落ち着いてないし。」

「ああ―、満ね。んー、いいんじゃない?今まで、今までっていうか、ほんのさっきまで遊んでたんだからさ。」

「あはは・・。」

「まあ、でも、三人でどっかゆっくり出来る所行きたいねー。」

「うん。絶対行きたい!」

僕は深々と頷いた。

「んー、何処が良いかなー。」

「ねえ、庄ちゃん。」

「んー?。」

「もう一個だけ聞いて良い?」

「うん。何なりと。あ、でも、勉強はやめてね。一個も分かんないから。」

「あはは・・。んっと、庄ちゃんの理想って何?」

「理想?」

「うん。何か、こうだったら良いなーっていうの。」

「うーん。そうだなー。まあ、唯一あげるとするならば・・。」

「唯一あげるとするならば・・?」

僕は耳を傾けた。

「毎日、笑って過ごすことかな。」

「・・。毎日笑って過ごす・・。」

「うん、そう。知ってる?笑うっていう行為は、この地球上で人間しかしない行為なんだって。」

「え、・・そうなんだ・・。」

「うん、そう。この地球上で唯一許されている、笑うという行為。こんな素晴らしい機能を手に入れてるなんて、僕達はラッキーだよね。僕はその機能を大事にしなきゃなーって思ってるんだ。」

そう言って、庄ちゃんは僕を見た。

「だから、ずっと毎日笑っていたい。唯一人間が手に入れることが出来たってことは、そうやって、生きていこうっていう印なんじゃないかな。」

庄ちゃんはにっこり笑った。

「うん。うん。本当に、本当にそうだね。庄ちゃん。」

僕も庄ちゃんを見てにっこり笑った。


日差しがゆっくりと強さを取り戻そうとしていた。頬に当る風が心地よく枯れていた木々も少しずつ蕾を付け始めている。暖かい太陽が高く上がって僕達の体をやんわりと温めてくれる。

「卒業生、全員起立!」

マイクからその声は体育館中に響き渡った。

「卒業生、前へ。」

僕達は少しきゅっと体が引き締まるような感覚で、教壇を見上げていた。一人一人順番に卒業生である僕達が教壇に上がり、卒業証書を手に取っていく。

「お、もうすぐ俺の番だ。」

満がそっと立ち上がった。満も最後のぎりぎりで大学合格の切符を手に入れていた。合格が分かったその日は庄ちゃんの部屋で、って、何で満の合格祝いなのに、庄ちゃんの部屋でって事になってんのか、良く分からないけど、とにかく、満の合格祝いのどんちゃん騒ぎ。何かお祭り好きの庄ちゃんや満の友達が来てえらい事になっていた。僕もその中の一員として加えさせてもらって、何か最後は訳が分からない事になっていたけど、皆羽目をはずして、僕もかなりハイになっていてとっても楽しかった。僕にとっては恥ずかしながら初めて友達の家で泊まった事であり、母も外泊を許してくれた。僕が母に自分の思いを聞いてもらって、その後、母が気持ちを僕に伝えてくれて、あの日以来、何かまだ、ぎこちなく感じる時もあるけれど、僕達は色んな事を話すようになっていた。学校であった事、他愛無い世間話や、母もその日あった事を話したりして食事もちょっとずつ、皆で食べる様になっていた。何かって、別に大事な事を話してる訳じゃないけど、この何気ない会話がとても大事なんだって最近分かる様になってきた。ちょっとした話し口調で相手の心理状態っていうか、その日の体調っていうか、そういう微妙な変化や感情に気付く様になってきたんだ。何か当たり前の事だって言われそうで恥ずかしいけど、でも、僕はずっとこんな何気ない会話を交わす事無く、毎日机に縛り付けになって、ちょっとした何かに気付くっていうことに無関心になっていたんだ。だから今はその変化に気付く事が凄く嬉しい。もう一つ嬉しい事は、ただいま、行って来ます、って僕が元気に言ってる事。ちゃんと、おかえり、って、いってらっしゃい、って返ってくる事。ああ、後一つ、ちょっと嬉しくて複雑な事は、お母さんが僕に父さんの愚痴を言うようになった事。僕は最近よく思う。口に出して思いを伝える事って、とっても、大事なんだなって。でも、とっても難しいってのも少し思う。自分が言った事で相手を傷つけてしまうことだってあるから。でも、僕は強く思う。あの頃、自分自身が真っ暗闇の中にいた頃、自分の気持ちを分かって欲しくて、分かって欲しくて、その事にとても飢えていた。どうして誰も僕の気持ちを分かってくれないのか、どうして誰も僕の心に気付いてくれないのか。その事がとても悲しくて悲しくて、打ちひしがれていた。でも、今は思う。あの時、暗闇から助け出してくれる手を、差し伸べてくれる手を待っていた僕は、自分からも助けてほしい意思を、自分自身からもあの暗闇から手を差し出す勇気を持たなきゃいけなかったんだ。周りからは見えない僕の黒い闇。その闇から抜け出すために、僕は自分自身で、その闇を破るために立ち上がろうとするべきだった。だけど、僕は唯、相手が分かってくれる事を、周りが気付いてくれる事を待ってる事だけしかしてなかったように思う。待ってるだけじゃ前には進めない。見えない思いは、相手にも見えるように努力しなければならない。自分の思いを自分からも伝える努力を。届かない声は届くよう、あの時僕は、もっと叫ぶべきだったんだー。

「三上秀一。」

担任の先生が僕の名前を呼んだ。僕はゆっくり立ち上がり教壇へ階段を上り、卒業証書を受け取った。

「卒業おめでとう。」

校長先生が言った。僕は一礼して、再び席に戻って行った。最後に校歌、国歌斉唱し僕達の卒業式は幕を降ろした。

「卒業おめでとうございます。」

後輩達が声を掛け合っている。雲一つ無い晴れ渡る空だ。

「卒業おめでとう、秀一。」

母が歩み寄ってきた。

「有難う。母さん。」

「これからは、大学生ね。」

「うん。そうだね。何か実感湧かないけど。」

「あなたが家を出てしまったら、寂しくなってしまうわね。」

「母さん・・。」

「一人暮らしも心配だわ。ご飯も自分で作らなくちゃならないし。大丈夫かしら。今は何処も物騒になってきてるから・・。」

「そんな、心配のしすぎだよ、母さん。何とかなるよ。僕は男だし、ご飯も何とかなるよ、多分。それに、そんなに遠くに行っちゃう訳じゃないんだし。電車ですぐに帰ってこれる範囲だし。」

「それは、そうだけど・・。あなたが、行きたいって言って合格した大学なんだから、一人暮らしすることになるのは、仕方の無い事だし、むしろ、喜んであげなきゃいけないっていうのは分かるんだけど、やっぱり、寂しいものだわ。」

「母さん・・。時間がある時は帰るようにするよ。」

「ええ、有難う。そういえば母さんこの前ね・・。」

「え、何?」

母は僕の耳元で言った。

「お父さんに、私、今のあなた嫌いです、って言っちゃった。」

「えっ・・?」

僕はびっくりして、母さんを見た。

「色々相談したり言いたい事を、もっとちゃんと、聞いて欲しいって、お父さんに言ったの。」

「え、お父さん、何て・・言ってた?」

「何にも。ずっと、黙ってたわ。」

「・・そうなんだ・・。」

「でも、最近、ちょっとは聞くようになってきたかなーって。」

「本当?」

「うんうん、とまではいかないけど。ちょっと聞いて欲しいんだけどって言っても、めんどくさそうな顔しなくなったかな。」

「へえー。良かったね。」

「ええ。まだまだだけど、ちょっとずつ、母さんも努力してみるわ。あなたに、それを、教えてもらったから・・。」

「・・母さん。」

「本当、子供に教えてもらうなんて、駄目な母親よね。」

「そんな事無いよ。」

「有難う、そう言ってくれて。でも、何か、なんでだろう。大人になったら、大事な事たくさん忘れちゃってる気がするわ。昔は私もこんなんじゃなかったのに。これじゃ、子供が可哀相よね、本当は、私が秀ちゃんに教えなきゃいけない事なのに。有難う、気付かせてくれて。大事な事、教えてもらったから。私も、頑張るわ。もっと、あの人に私の声が届くように。」

「母さん・・。応援してるよ。」

「有難う。」

「愚痴りたくなったら、電話してきていいよ。メールでもいいし。お腹ん中溜めてるとストレス溜まっちゃうしね。溜めてると体に良くないから。」

「まあ、有難う。じゃあ、甘えさせてもらうわ。」

「うん。どうぞ、どうぞ。」

僕達は顔を見合わせてにっこり笑った。

「おーい、秀一―。」

満が遠くで僕を呼んだ。

「あら、満君。大きくなったわねー。」

「本当、高校入って一気に伸びたもんなー。」

「今日は、皆でご飯食べるの?」

「あ、どうだろう。まだ、分かんないけど・・。」

「そう。もう最後なんだし、ゆっくりして来なさい。食べてくるなら、電話だけは頂戴ね。一応作っとくけど。」

「御免。有難う、母さん。」

「いいのよ。行ってらっしゃい。」

「じゃあ。」

「ええ。気を付けてね。」

そう言って母は学校を後にした。

「おー、秀一。写真一緒に撮ろうぜ。」

「ああ、うん。撮ろう撮ろう。」

「あれ、お前、まだ、第二ボタン残ってんじゃん。」

「え、ああ。そんな、僕の欲しい人なんて、誰もいないよ。」

「またまたー。前もって糸解いて来たんじゃないのー?直ぐに渡せるように。」

「何だよ、それ。誰もそんなめんどくさい事いちいちしないよ。あれ?」

僕は満の制服に目をやった。

「第二ボタン取れかけてない?」

「えっ、あ、いや・・。」

「満って、そういうくだらない事にだけは時間と労力を惜しまないのな。」

「あ、いや、違うって。これは、何人もの俺のファンに引っ張られて、こうなったの。危うく奪われる所だったぜー。いやー、危ない危ない。」

フウーと息を吐きながら満は言った。

「見苦しいぞ、満。」

「うっせえなー。」

満が膨れっ面しながら言った。

「ねえー。秀一君―。」

相澤さんが駆け寄って来た。

「ねえ、記念写真撮ろう。」

「え、ああ。うん。」

「御免、写真とって。」

相澤さんは友達にデジカメを渡した。

「はい、いくよー。はい、ちー・・。」

友達が合図を掛ける。

「ああー。ちょっと、ちょっと待って!」

慌しく相澤さんがストップをかけた。

「ちょっと、ちょっとー。何であんたまで、一緒に入ってんのよー。」

振り向くと、僕達の後ろで満が両手を広げてポーズを取っている。

「え、だって記念写真でしょ。」

「そうだけど。あんたは、要らないの。」

「俺だって、卒業生だぞ。一緒に卒業したんだぞ。いいじゃん、一緒に入ったって。」

「んもうー。良くないわよ。邪魔―。早く―、退いて退いて。」

相澤さんが満を外へ押し出す。

「ちぇー。冷たいのー。俺は皆の満君なのに。」

「何、気持ち悪いわよ。後で、皆と一緒に撮ってあげるからー。」

「しゃーねえなー。」

すごすごと満は外にずれた。

「本当映りたがりなんだからー。」

「はい、チーズ!。」

友達が再びデジカメを合わせ始めて、僕と相澤さんは横に並んだ。

「あー、有難う。」

「あ、じゃあ、私もー。」

友達がもう一人の友達にデジカメを渡して、僕はまたその友達と横に並んだ。

「あ、そうだ。ちょっと、満君。」

相澤さんが満を呼んでいる。

「何だよ。」

「ちょっと、お願いがあるんだけど。」

そう言って相澤さんは満の袖を引っ張っていた。

「嫌だ。」

「ちょっと、まだ何にも言ってないじゃん。」

「だって嫌だもん。」

「何よー。まだ何にも言ってないでしょー。」

「ボタン。」

「え?」

「ボタン欲しいんだろ。」

「えっ、何で分かったの?」

「そんな事ぐらい簡単だよー。顔に書いてあるもん。」

「流石―、満君。そういう勘は鋭いわよねー。」

「ま、俺って心を読む天才だから。」

「何訳わかんない事言ってんのよ。」

「ま、仕方ねえよな。相澤の頼みとあっちゃ。」

「恩に切るー。」

僕は写真を撮りながら、楽しそうに喋ってる二人のやり取りを見ていた。何話してるんだろ?

「じゃあ、はい。」

満が相澤さんの手にボタンを手渡していた。

「え?はい?」

「特別にプレゼントするぜ。俺の第二ボタン。」

満はグーサインを出しながら言った。

「・・・。」

相澤さん・・?

「・・・てめえのな訳ねえだろ――!。」

叫びながら相澤さんは満に飛び掛っていった。

「うわー、冗談だよー、冗談―。冗談に決まってるだろー。」

満が必死に逃げ回っている。

「仲いいなー。あの二人。」

僕は二人を見ながらそう言った。

「本当ねー。」

友達も同意する。

「何でー、冗談に決まってるだろー。」

「あんたの第二ボタンなんか要るわけないじゃない。」

「分かってるよー、そんな事―。秀一のボタンが欲しいんだろ。」

その言葉に相澤さんはピタッと襲うのを止めた。

「う、うん・・。」

「何だよ、急に汐らしくなって。何だよ、その、ギャップは。可愛くねえんだよ。」

「うるさいわね。」

「悪いけど、嫌だかんな。」

「何でよー。」

膨れっ面で相澤さんが言う。

「しかし、お前、俺のこと気持ち悪いまで言い切っといて、よくぞ、そんな図々しい事を俺に頼むな。」

「だって、さっきのは。つい、本音が。」

「余計悪いわ。」

「冗談よ。だって、秀一くんって、そういうの、興味なさそうっていうか。言ったら何か引かれちゃいそうで。」

「そんな事ねえよ。ま、とにかく、そういう事は、自分で言わなきゃ意味ないだろ。」

「・・・。」

「分かったら、自分で貰いに行く!付いてってやるから。」

「・・・。」

「じゃ、行くぞ。」

振り返って満は歩き始めた。

「・・・晩御飯おごり・・。」

ピタッと満の足が止まる。

「・・・いやいや、そういう事じゃねえだろー。大事なことは自分の言葉で言わなきゃ駄目だろ。」

満が悟すように言う。

「・・牛丼、汁だく、大盛り。」

両手を広げて満が振り返った。

「・・・。仕方ねえなー。今度だけだぞ!」

そう言って満と相澤さんは仲良く肩を組みながら帰ってきた。

「おお―、皆で写真撮ろうぜー。」

満が言って、皆でもう一度並び始めた。

「はい、ちーずー!。もう一枚―。」

満が今度は僕の肩を組みながら、

「卒業かー。何か実感湧かねえよなー。」

しみじみそう言った。

「うん、本当だね。」

「色々あったなー。」

「うん。色々あったね。」

「でも、何だかんだ楽しかったな。」

「そうだね。満・・。」

「ん?」

「色々有難うね。」

「何だよ、改まって。」

「いや、本当に。満には色々感謝してる。」

「お互い様だろ。俺も、色々サンキューな。また、大学行っても遊ぼうぜ。」

「うん。勿論。遊びに来てよ。引っ越したら。」

「おお―。是非。しょっちゅう遊びに行くぜ。」

「何にも、もてなし出来ないと思うけど。良かったら。」

「そんなの、何にもいらねえって。あっ、そうだ。」

「何?」

「一個だけ、欲しい物ある。」

「え、何?僕に出来るものなら準備しとくけど。」

「準備なんていらねえよ。」

そう言って満は顔を近づけてきた。

「え、何?」

何だか、怪しい満の顔。

「わ、何?」

僕はびっくりして満の手を見た。満が僕の胸元に手をスルスルと置いてくる。何だか怪しい手つき。

「何すんだよ、満。」

「フフフ・・。」

怪しい笑みを浮かべながら、満は僕の第二ボタンを掴んで耳元で囁いた。

「秀ちゃん。私、貴方の第二ボタンが欲しいの。」

「・・・。まじで、気持ち悪いんだよー。満―!。」

僕は満の顔を必死に遠ざけながら言った。

「もっと、普通に取れんのか・・。」

相澤さんが突っ込んでいる声も聞こえずに、僕は満に第二ボタンを奪われていた。

「じゃあ、後でねー。」

「おおー。」

後でご飯を食べに行く約束をして僕達は一旦別れた。

「いやー、最後かあー。やっぱ寂しいなー。」

満が校庭を眺めながら言った。

「うん。そうだね。」

「最後はパア―ッと騒いで終わろうぜ。」

「うん。」

「でも、秀一も一緒に行けるし良かったよ。」

「え、何処へ?」

「皆で、打ち上げ。ちょっと前までの秀一なら来てなかったろ。」

「あ、うん。そうだね。・・きっと行ってなかった。」

「ちょっと、秀一の母さんも変わったんじゃない?良かったなー。」

「うん。本当に良かった。こんな風に自分の思いを何でも言い合えるって本当に有り難い事だなーって思うんだ。」

「そっかー。良かったな。何でも相談乗るぜ。」

「有難う。僕も何でも言ってよ。僕に出来る事なら相談に乗るから。」

「おお、サンキュ。」

「あ、そういえば。」

「何?」

「さっき、何騒いでたの?相澤さんと。」

「いや、何って・・。」

「何か、さっき第二ボタンがどうだの、何だのって言ってなかった?」

「えっっ・・・。き、聞こえてた?」

「え、あ、うん。ごめん。聞くつもりは無かったんだけど、所々だけ。」

「やべえっ・・。御免。相澤。」

「え?何」

「え、い、いや。・・・で、どう、思う?」

動揺しながら満は聞いた。

「え、あ、うん。良いんじゃないかな。」

僕は答えた。

「え?そうなのか?」

満はびっくりした様子で僕を見た。

「うん。結構いい感じだと思ってたし。」

「何だー。そうだったのかよー。それならそうと言ってくれりゃ良かったのにー。」

満は僕の背中をバンバン叩きながら言った。

「痛いよ。」

「悪い、悪い。」

「いつからだったの?だって、僕、ずっと気付かなかったもん。」

「いや、どうなんだろう。俺もはっきりは分かんねえけど。何となく気付いたっていうか。見てたら分かるじゃん、そういうの。」

「へえー、そうなんだー。流石、満。本当鋭いよなー、そういうとこ。」

僕は関心して大きく頷きながら言った。

「まさか相澤さんが満のこと好きなんて、さっきの話聞くまで僕全然気付かなかったもんー。」

「へ?」

満が目を丸くして僕を見た。

「お前は・・。」

「え、何?満?」

「お前は鈍感すぎるんじゃ――!」

「うわ――、何だよ、満――。」

満が僕をまた襲ってきて僕は必死に抵抗した。

「本当容赦ないんだから。」

「お前が悪いんだよ。あいつも、前途多難だぜ。」

「え、何?何か言った?」

「もう、何にも。」

僕達は緩やかに舞う風に吹かれながらゆっくりと学校を後に歩き始めていた。



「でも、良かったわねー。満君も無事合格して。」

庄ちゃんのお母さんと満さんのお母さんが、小庄太さん達の散歩の途中で立ち話していた。

「本当よ。でもね、ここだけの話、私もう、駄目だと思ってたのよー。」

満さんのお母さんが言う。

{俺も}

{俺も}

小庄太さんとジョンさんが口々に言った。

{皆さん・・}

{ありゃ、奇跡だな}

{本当、悪運の強いヤローだぜ}

「満には流石に言えなかったけどね、もう駄目だって諦めちゃってたわよー。あはははー。」

「奥さんたら・・。」

「まあ、とにかく受かってくれたから良かったけど。本当に良かったのかしら。」

「まあ、どういう事?」

「だって、お金掛かるでしょう。もう、受かったら受かったでどうしましょ、って感じよ。」

「本当お金掛かるものねー。」

「身になるんだどうだか・・。内の息子の事だからねー。」

「まあ、でも、元気が一番ですよ。」

「元気過ぎるのよー、内の子は。いつも庄ちゃんに迷惑かけてんじゃないかしら。」

「いえいえ、とんでもない。こっちこそ、満君が来ると私達も楽しいですから。」

「本当、いつもすみませんねー。煩かったら適当に追い出してくれて結構ですから。」

「あはは。全然。」

「あらー、お久しぶり。」

向こうの方で声がした。

「げ、武中さんの奥さんよ。」

満さんの母が言った。

「まあ。どうしていつも出会っちゃうのかしら。」

ボソッと庄ちゃんの母は言った。

{本当に}

小庄太さんとジョンさんも呟いていた。

「お元気―。」

上機嫌で二人の仲に入ってくる。

「奥さんー。これどうかしらー。安かったから買っちゃったのー。」

指輪を僕達に見せながらこっちに向かって歩いてくる。

{早速自慢話が始まったぞ}

{ハア―、また、長いぜ。ってか、もう、いいんだよ。あんたの自慢話は。誰も聞いちゃいねえって}

{ちょっと、毎回それにつき合わされてる私の身にもなってよ。どれだけ大変か}

マミさんは興奮しながら言った。

{いや、お前は良くやってるよ}

小庄太さんが慰める。

{本当、御主人は良いわよねー。私を使ってストレス発散してるんだから。ストレス受け取ってる私はこのストレスを一体何処に吐きゃ良いのよ。私のストレスも何とかして欲しいわ}

マミさんが切々と訴える。

{ストレス発散会でもやるか?}

ジョンさんが言った。

{あんた達は飼い主が仲良いからしょっちゅう集まれるかもしれないけど、私は無理よ。この鎖に繋がれている限り}

{んー。何かいい方法ないかな}

{何か、いい方法なあー}

{本当、何か良い案、頂戴}

{何かないですかねー}

僕も頭を捻った。

{んもう、このままじゃストレスでお肌が荒れちゃうわ。どうしてくれるのよ}

{毛で肌見えねえから大丈夫だよ}

小庄太さんが言った。

{そんな事無いの。女性は気になるものなのよ}

{誰も見てねえって}

ジョンさんが言う。

{大丈夫ですよ十分綺麗ですよ・・}

僕は言った。

{ま、純平ちゃん。いつの間にそんな公衆の面前で口説くようなプレイボーイになっちゃったの}

{え、そういうつもりじゃ全然}

{まあ、遠慮しないでいいのよ。そういえば、顔もちょっと大人になったかしら。今度お姉さんと遊びましょ}

そう言ってマミさんは僕にウインクする。

{マミさん・・!}

{そうそう、そういえばこんな風にお前をからかえなくなるんだなー}

小庄太さんが言った。

{え、それ、どういう事?}

マミさんが聞く。

{引越しするんだ、こいつ}

{え、そうなの?}

{そうなんです。皆さんには色々お世話になって有難うございました}

僕はペコっと頭を下げた。

{ちょっと、聞いてなかったわよ}

{言ってなかったもん}

{何で、ジョンが答えんのよ。でも、まあ、寂しくなるわねー。遠い所?}

{いえ。そんなには}

{そう。じゃ、また、帰ってきた時は会いましょうね}

{はい。是非}

{いやいや、止めといた方がいいぞ。こいつと会うってことは、もれなく飼い主の自慢話も聞かなきゃならないからな}

{んー、確かに。かなり、要らないぞ、それ}

{ちょっと、余計な事言わないで。本当、私だってつくづくうんざりしてるんだから}

{ん、いやいや、マミは良くやってるよ}

{本当、本当}

{でも、是非また会いましょうね。体に気を付けるのよ}

{はい。有難うございます。マミさんも体に気を付けて}

「それでねー、この前買った指輪がねー。」

{うーん、まだまだ続きそうだな}

小庄太さんが上をみて確認しながら言った。

{まあ、ゆっくり。俺達も腰据えて話すとしますか}

ジョンさんが言った。


「えっと、これと、これと、これと・・。ふうー取りあえずこんなもんか。」

僕は引越しの準備の為に荷物を片付けていた。

{引越しって大変なんですねー}

純平は部屋の空いている隙間から僕の作業をずっと見ていた。

「よしっと。これで大体片付いたかな。ふうー。」

僕は息を吐いて壁にもたれた。

「引越しかあー。」

僕は声に出して言っていた。少し前の僕なら一人暮らしの選択なんてまるで無かったからだ。自分で決めて自分で行動して・・。勿論こうやって自分のやりたい事を協力してくれている家族がいるから、また僕はやりたい事を見つけてやりたい事が出来るんだけど。その事を凄く有り難いな―って思う。何か一つが変わっただけなのに、どんどん僕自身が、僕の周りが変わっていく。前にほんの少しだけ勇気を持って踏み出す思いが、こんなにも大事な事だったなんて。前にほんの少しでも歩んでみる事が、こんなにも何かを変えれる事だったなんて。あの時、変わるきっかけがなきゃ僕はこの先もずっと気付けなかっただろう。

「良かった・・。気付けて・・。」

僕は机に目をやって、ゆっくり立ち上がり一冊の本を取り出した。

「純平―。」

呼ばれて純平は僕の所に近づいてきた。

{どうしたんですか?秀一さん}

「これ、僕の気持ち。」

そう言って、純平にさっきの本を見せた。

{秀一さん・・。これは・・。}

「純平、有難うな。」

{たくさんのありがとう・・}

「純平、あの時・・。」

{え・・?}

僕はあの時のことをふと思い出していた。純平がそっと僕の家を出て行って、僕が目覚めた時ベットからこの本が落ちてきた。それは・・それは・・。言葉を理解しえないはずの、無論字なんて理解しえないはずの・・。僕は純平を見た。キョトンとした顔で僕を見ている。

「純平・・。」

{どうしたんですか?秀一さん}

「これからもよろしくな。」

{ワン! ―はい!勿論です。こちらこそよろしくお願いします!}

「たくさんたくさん・・。」

僕は純平の頭を撫でた。

「話そうな!」

{ワン! ―はい!}

純平が一層尻尾を大きく振った。


「母さんー、ちょっと今から出かけてくるー。」

庄ちゃんは言った。

「はーい。何処行くのー?」

エプロンで手を拭きながら、庄ちゃんの母は言った。

「小庄太の散歩。皆で河川敷の方まで行って来る。」

「あら、そう。分かったわ気を付けてね。いってらっしゃい。」

「行ってきます。ほら、行くよー、小庄太。」

{ワン ―あいよー}

庄ちゃんは小庄太を連れて家を出て、河川敷に向かった。

「ジュースでも買っていくか。」

自販機の前で止まって庄ちゃんは考えていた。顔が真剣だ。

「んー。」

{何悩んでんだ?}

「んー。ジュースやめてビールにするか・・。」

{幸せな奴・・}

「よし。こういう晴れた天気の良い日はやっぱビールに限るよねー。」

そう言って庄ちゃんは店に入ってビールを買ってきた。ビールの入ったビニール袋から一缶取り出して、飲み口に手をやった。

{あれ、もう飲むの?}

「んー、やっぱ、止めとくか。皆と会うまで我慢しよう。先に一杯やってるなんて気悪いもんな。待たされた分ビールも美味く感じるだろうし。」

そう自分に言い聞かせながら、庄ちゃんはビールを元に戻した。

{ワン ―うん。賛成}

「よし、賛成。」

{ワウ ―ん?}

「ああ―、本当今日は良い天気だなー。」

庄ちゃんは思いっきり伸びをしながら言った。

{何か、今・・}

小庄太は歩くペースを落としていた。

「んー、どうした?小庄太?」

{ワウ ―いや、何か}

「んー?」

{グウ ―さっき俺が喋った言葉・・いや、まさかな・・}

フウーと大きく深呼吸をして庄ちゃんは言った。

「んー。何となく、たまにねー。」


「おおー、悪い、悪い。待ったー?」

庄ちゃんが手を振っている。

「ううん。今来たとこ。」

僕は答えた。

「遅えぞ。庄ちゃん。待ちくたびれたぜ。」

満が言う。

「何言ってんだよ、満。満こそ、今来たくせに。」

「にゃはは・・。」

満は頭を掻きながら笑った。

「はい、これ―。差し入れー。」

庄ちゃんが飲み物の入ったビニール袋を差し出した。

「おお―、サンキュー。」

満が受け取る。僕達は芝生へ寝転がった。

「乾杯―。君達卒業おめでとう。」

庄ちゃんが言った。

「いやー、サンキュー。」

「有難う、庄ちゃん。」

僕達三人は乾杯して飲み始めた。

「いやー、昼間に飲むビールって本当美味いよなー。」

庄ちゃんが言う。

「何、おやじ臭い事言ってんだよ。」

「いやいや、本当。皆が今仕事してんだろうなーって思いながら、昼間っから飲むこのビールは格別に美味いわけよ。」

「そんなもんなんだ。」

僕は言った。

「そんなもん、そんなもん。」

庄ちゃんが頷く。

「お、そういやまた新しいプラモ出てたぜ、知ってる?」

満が言った。

「知ってる、知ってる。今度見に行こうぜ。秀ちゃんも来る?」

「あ、うん。」

「面白いぞー。子供の頃に戻っちまうもんな。」

「今だって、十分子供だろ。」

「あ、そうだった。」

「秀一、俺の好きなのはな・・。」

・・・こんな風に何気なく話す会話。こんな風に何気なく流れる時間。どれも、こんな何気ない時間をとても、大切に感じるようになった。本当の友達って大切なんだな―って思う。手に入れて初めてこの大きな存在に気付く。きっと失って初めてその大きな存在に気付く。庄ちゃんが以前僕に言っていた。目に見えないものを手に入れる難しさ、目に見えないものをあると確信できる難しさ。僕は小さい頃から勉強が何より大事で、皆と遊ぶ事さえままならず、机に噛り付いていた僕は次第にゲームが自分の中の空間となり、次第に人との接し方を忘れていった。教科書の方程式を解けば解くほど、僕は友達の作り方を忘れていく。そして、空っぽな僕は育っていった。心の中に大きな闇だけ引き連れてー。

「おい、おい聞いてんのか?秀一。」

「え、御免御免。ちゃんと聞いてるよ。」

「本当か?何か上の空っぽかったぞ。」

「そんな事無いよ。唯。」

「唯、何だよ。」

「いや、何かいいなって思って。友達とこんな風にのんびり過ごすのって。」

僕はにっこり笑った。

「・・ああ。本当そうだな。」

満が言った。

「気兼ねしないってのがまた良いよね。」

庄ちゃんが言う。

「まあ、仲間ちゅうのはいいもんだ。」

「有難う。皆。僕こんな良い時間の使い方なんか知らなかったよ。こういう時間がとても良い時間だって思う事も今まで気付かなかったし。本当良いもんだね。」

「だろ!。」

満がにっこり笑った。僕は今まで臆病になっていた人間関係にようやくピリオドが打てそうな気がしていた。これからも、たくさんの人に出会って、色んなことを吸収して、たくさんの思いやりを僕は育てて行こうと思う。お互いを思いあっていけるような友達をこれからも作れるように、目に見えない大事なものが何かって、僕はたくさん教えてもらって、たくさん感じたから――。

「有難う。素敵だね。こういうの。」

「そうだね。秀ちゃんここから見る夕日見た事ある?」

「え、ない・・。」

「綺麗だぜー。全部が真っ赤に染まるもんな。」

「そうそう。俺ね、こっから見る夕日の景色が一番好きなんだ。今日一緒に見ようよ。」

「うん!」

僕はきっと今日の夕日をずっと忘れないでいるだろう。全ての景色を赤く包むこの美しい夕焼けを。毎日毎日何か全てに疲れていた僕は、唯もがきながら、それでも、立ち止らずにずっとずっと走り続けていた。あの頃ふとこんな風に立ち止って空を見上げれば、確かにこの夕日はあった筈なのに。毎日忙しく目まぐるしく過ぎていく日々。駆け足でどんどん走って僕達は一体何処に辿り着くのだろう。高価な価値ある物を求めて世間の煽りに飲み込まれながら、大人達も足元に一面に咲いている綺麗な花にも気付かない。そうやって皆駆け足で、咲いている花を踏みながら、一体その先にどんな花が咲いているというのか。踏まれた花はやがて枯れ、再び芽を出さず、砂漠と化していく。辺り一面咲いていた花は、何時しか広大な砂漠に覆われていた。僕達は喉が渇く。それでも、大人達は僕達が喉が渇いてる事に気付かない。それでも、大人達は駆け足で見果てぬ桃源郷を目指して走り出す。僕達は追いかけるのを止めた。砂漠化した土は灼熱の熱さをもたらし、僕達は熱さに苦しみ悶えていた。大好きだった花は消え、僕達に残ったのは枯れた砂漠と癒えない喉の乾きだけだった。大好きだった花を消し、美しかった景色を砂漠に変え、そうまでして得る桃源郷は一体どんな物なのか。そうまでして得る桃源郷は一体どれほどの価値があるものか。ようやく一人の女神が現れた。大人達は口々に聞いた。一体何処まで行けば、桃源郷はあるのかと。

「何処に行ったらあるって言ったんだよ。」

満が僕に聞いた。

「女神は言った。あなた達がずっと歩いてきた道に桃源郷はあったでしょう。もう、この先には桃源郷はありません。この前の天災でここから先の花は全て枯れてしまったのです。」

「えっ。」

「大人達はその時初めて振り返り、自分達が歩いてきた道を見た。」

「え、もう、全部枯れちまって、全部砂漠になったんじゃねえの?」

「うん。」

「結局、本当は既に辿り着いていた訳だ。その桃源郷とやらに。」

「そう。自分達が気付かなかっただけだったんだ。」

「少し、立ち止って周りや足元を見りゃ、そこが、花が咲いてる桃源郷だって気付いたって訳か。」

「うん、そう。後はもう元に戻らない砂漠だけが残ってしまったんだって。」

「おっかねえ話だな。子供達は?どうなったんだ?」

「やっぱ無くなっちゃうんじゃない?大人達がいないと子供は生きられないし。」

庄ちゃんが言った。

「うん。そうかな。」

「実はもう少し続きのページがあって。」

「あ、そうなの?子供達はどうなったってその本には書いてあるの?」

「大人達は女神に告げられた後、ショックで呆然と立ちすくんでしまうんだ。でも、少しして子供達が皆いなくなってる事に、気付いたんだ。」

「遅っっ。もっと、早く気付けよ。話の流れじゃ、大分前にいなくなってたぜ。」

満が突っ込む。

「それで、慌てて来た道を引き返すんだけど、何せ辺りは一面砂漠だし、熱いは道は分かんないわで来た道の何倍も時間と労力がかかってしまって、それでようやく辿り着いたんだ。そしたら、そこには。」

「そこには。」

満が身を乗り出す。

「誰も居なくなってたんだ。」

「居なくなってた。」

「うん。でも、子供達の着ていた服や靴はそのままで。」

「どういうこと?」

「大人達はそれぞれ、自分達の子供の服を探し出したんだ。すると、その服の中全部に、種が入ってたんだ。」

「種?」

「って、それって、つまり・・。」

「うん。子供達は大人達の帰りを待っていたんだけど、でも、辺りは砂漠で食べ物も水も枯れて無くなっちゃったから。結局、子供達は無くなってしまって、皆種になっちゃったんだ。無くして初めてその悲しみを感じた大人達は、一つ一つその自分の子供であった種を土に埋めて、育てるんだ。そして、毎日毎日水をやり一生懸命育てて長い月日が経った時、ようやくその種から芽が出てきたんだって。」

「ふうん。何か、寂しい話だな。」

「うん。そうだね。」

「花は、どんな花が咲いたんだろうな。」

満が聞いた。

「さあ、分からない。そこまでは書いてなかった。話はそこで終わってたから。」

「ふーん。そうか。」

「でも、どんな花でも良かったんじゃない?例えどんな花が咲いたとしても、その人達にとってはその花が、一番の花になったんじゃないかな。」

「―うん。そうだね。」

僕は頷いた。

「でも、それ、誰が書いた絵本?聞いた事ないなー。」

「僕も。誰かはもう分かんない。小さい頃図書館で読んで、ずっと忘れてて、最近思い出したんだ。」

「へえー。そうなのか。」

「あ、ねえ、皆見て!夕日が・・。」

庄ちゃんが空を指差した。

「あ・・・。」

僕は言葉を失っていた。本当に、周りの全ての景色を真っ赤に染めて、空も建物も僕達も全部、真っ赤に染まって、まるで地球上は本当は赤いんじゃないかって思っちゃうくらい、全てを赤く包み込んでいた。

「うわー。何て綺麗なんだろう。」

僕はそう呟いていた。

「やっぱり、こっからの景色が一番最高だよな。」

満が言った。

「本当にそうだね。ここの景色はそう中々ないよね。」

僕が夕日に見惚れている姿を見て、

「どう?気に入ってくれた?」

と庄ちゃんが聞いてきた。

「うん。最高!」

僕は満面の笑みで答えていた。

「ね、じゃあさ、夕日観賞後、そのまま、夜桜見ながら、花見しない?」

庄ちゃんが言った。

「おう!それ、最高!」

「うん。絶対いい!」

僕も大きく頷いた。

「じゃあ、もうちょっとしたら、晩御飯どっかで調達しよっか?そんで、そのまま、夜桜見ながら花見しようよ。」

庄ちゃんが言った。

「おお、それはいいねえー。」

「うん。大賛成!」

僕達はまた他愛ない話を始めた。純平達は仲良くじゃれ合って遊んでいる。僕はきっとこんな毎日が幸せなんだな―って思う。分かり合える仲間がいて、何気ない時間を共に過ごして。ゆっくり歩きながら、たまには道草したりして、たまには花も摘んでいこう。そして、僕はこれからも、ずっと笑って歩いて行こう。きっとそれが僕達の一番の幸せなのだから――。

「おおー。見ろよ、見ろよ、秀一、庄ちゃん。桜が風で舞ってるぜー。」

「あ、本当だ。綺麗だなー。」

桜が丁度満開の時期を迎えていた。僕達はそれからも、ずっとずっと笑い合っていた。春の暖かい風が僕達を包んで、桜の花びらが心地よい風に舞い、赤く染まった夕日の中でキラキラと輝いていた――。


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