第三話 「重ねて言うが俺はロリコンではない」
「いや…………それにしてもだ」
まさかこの目で〝少年十字軍〟かもしれない人物を見られるとは、思ってもみなかった。
本物だったら言わずもがな、コスプレだったとしても見事な西洋甲冑だ。子供用のなんてなかなかあるものじゃない。
気絶しているうちに一枚写真を撮らせてもらおう。ぱしゃり。
「綺麗にとれた。よし、今のうちに」
馬に乗ろう。
…………少女には何もしないぞ?
コンビニ袋の中にはそんな感じの聖典が収まっているが、俺は現実と二次元の区別はできている。
女の子の寝顔を無断で撮影したからってこれをドウスルなんて考えてねぇぞ、本当だ大丈夫だノープロブレム。
ふざけてないで次の行動に移らねぇと。
馬だ、馬。
今のうちに馬に乗る練習をしておこう。
いくら鞍と鐙があるといっても、練習もせずにいきなり移動は無理だろう。
それに、だ。
俺は、あの子を置いては行けない。
一緒に連れていく。何なら家まで送り届ける。
この寒さだ。あのままではすぐに命を落とすだろう。
金属製の鎧は思ったよりも冷えていた。ヘタをしたら寝ているだけで死にかねない。
でもだからと言って外したらそれはそれでダメだ。
さっきみたいな事態になった時、鎧がないと生存確率は大幅に落ちる。
そうでなくてもこの世界の輩は簡単に人を殺そうとする。そういう奴がいる。
どっちに転んでも俺が連れていくしかない。
〝俺が置いていく〟という選択肢はない。
せっかく助けた命だし、だいたい子供を見殺しにできるような神経は持ち合わせていない。
いろいろ聞きたいしな。ここがどこなのか。君はだれなのか。
言葉が通じるかはわからない。そもそも俺は外国語と言えば英語くらいしかできない。
あまり自信はないが、片言でも通じることは通じるだろう。一浪の本気を見せてやる。
この辺が英語圏かどうかはどうかは賭けだがな……。
「よう、お馬さん。ご機嫌いかが?」
馬の頭のほうから近づいて、茶色いたてがみをそっと触ってみた。
以外に柔らかい……もっとゴワゴワしてるのかと思った。
えっと、たしか左側から乗るんだよな。
優しく頭をなでながら、まずは鐙を引き寄せて、左足を突っ込んで……。
「よっ……と!」
一息に跨いで腰を下ろす。右足も鐙に通してやる。
手綱を強く持っちゃダメなんだよな。ただでさえも締まってるんだっけ?
常に少し垂らしておいて、発信と停止の時だけほんのちょっと合図してやる、だったか。
「テレビの知識でも意外と頭に入ってるもんだな」
かくして、どうにか乗るには乗れた。
かなりぐらぐらするが、バランスボールよりは簡単だ。三分も乗っていれば安定して座れそうだった。
腹に少し力を入れつつ、背筋を伸ばし、足を若干後ろへ回すと、
「おっ、こうだな」
がぜん安定して乗れる。
そのまま五分。
太ももの内側で馬の胴体を軽く締めれば、全身を強張らせることなく、リラックスして乗れるようだった。
ついでに視線を遠くのほうにやると自然と背筋も伸びるので、より安定して座れる。
「進んで、みるか。どうやるかね」
手綱を少し引っ張ってみるか。
くい。
…………?
くいくい。
…………進まねぇ。
じゃあ命令したらどうだろう?
「――――進め」
口で命令して聞いてくれるならだれでもすぐに乗れちゃうおわわわわわ!!
いきなり、馬が短くビヒヒッ! と鳴いたかと思うと、ものすごい加速力で走り出してしまった。
身体が後ろに引っ張られるような感覚。
大慌てで踏ん張って、足に力を込めて体を前へ倒す。
馬は道の上をリズムよく走りだした。心地よい振動が一定のリズムで腰から伝わってきて、俺はそれに身体の上下を合わせればよいのだと気が付いた。
馬の胴体を足でしっかりと挟み込む。上体をやや前に倒して、ケツから伝わってくるリズムに合わせて俺の呼吸も調整する。
速い。ただただ速い。
これが馬の疾走か。なるほどこれが騎馬兵か。
周囲の木が軒並み素早く後ろへ流れるその光景は、両親の運転する車の助手席で外の様子を見ている時よりも速く感じられた。
世界史で騎馬遊牧民がやたら強いと言われていたのを思い出した。
そりゃ強いわな。この速さで移動して、しかも弓矢まで使えるのだ。
歩兵はたまったものじゃないだろう。バイクに乗ってヒャッハーするやつらが銃をぶっ放してくるのと同じことだ。
恐ろしや。
「っとと、あんま行き過ぎるとあの子が目を覚ました時に困るからな」
手綱をやや強く引くと、馬は徐々に速度を落とし、やがてパカラパカラと歩くスピードにまで落ち着いた。
身体を少し右へ倒しながら、右側の手綱をちょいちょいと引っ張ってやると、気持ちが通じたのか右へUターンしてくれる。
いいやつだ。なんというか、こいつとは仲良くなれそうな気がする。
見知らぬ土地の最初の友達は馬でした、ってか。
これぞまさに竹馬の友。
違うか、違うなぁ。
そのままもう一度ゴーサインを出し、俺は少女の元へと駆け戻った。
○
調子よく走って馬を止め、俺が一息ついたのと、少女がむくりと起き上がったのは同時だった。
俺は馬から降りて、不自然にならない程度の笑顔を浮かべながら少女の元へ歩み寄る。
低い位置にある太陽がくすんだ金髪を照らしている。
少女は、自分の身体にかけられている俺のコートに気が付いたのか、不思議そうにそれを見下ろしていた。
「グッモーニング。ワッツアップ?」
おはよう、調子はいかがかね? ぐらいの意味でまずはコミュニケーションを。
「…………? 何語、ですか?」
…………ん?
おい、ちょっとまて。聞き間違いか。
「あの、これ、あなたのですか?」
金髪の少女はおずおずと、顔を隠すようなそぶりで俺のコートを両手で持ち上げた。
いやいやいやいやいやいや。
なにそれめっちゃ日本語じゃん。
くっそ流暢な日本語じゃん。
「なぁ、君、もしかして俺の言葉分かる?」
「え? はい、わかりま……す、ん? え、でもフランス語じゃない……?」
「おぉ……」
フランス語…………いや、そうだ。
俺が聞いているのも日本語じゃない。
この子の言葉は、なんというか滑らかな。
どう考えても日本語じゃない。そしてどう考えても英語でもない。
しかし俺は理解できている。
――――まさか。
「君、もしかしてフランス人?」
「えぇ……は、はい。そうですたぶん……〝フランス人〟って、フランス王国の事ですよね?」
「そうそう」
「リコは、〝リヨン〟っていう町から来ました」
〝リヨン〟の名前に聞き覚えがあるぞ。やっぱりフランスの町の名前だ。
ってことはこの子の言語はフランス語。
俺はフランス語について「男の敬称は〝ムッシュ〟と言う」ぐらいの事しか知らないから、当然会話なんぞできるわけがない。
…………あぁ、なるほど。
これが噂の〝ご都合展開〟というやつか。
耳に入るのはフランス語。
しかし理解は日本語。
これいづくんぞ人の常と思わんや。
なるほどどうやら、俺の身には確実に〝なにか〟が起きているらしい。
この期に及んで俺はまだ、これがちょっと長めの夢じゃないかと思っていた。
しかしまぁこうも展開が重なると、いよいよ夢だ、などとは思えなくなる。
突拍子な出来事であればあるほど、自分がその渦中のど真ん中に居ることを痛感する。
これは、まぎれもなく、夢などではない。
そして、であるからこそ生き残るために、少しでも多く情報を集めなければならない。
見知らぬ土地で情報がないことは万死に直結する。
おそらくだが、どうやら俺の身に起きたのは〝タイムスリップ〟らしい。
この世界の住人がフランス語の話者であり、なぜかはわからないが俺はそれを理解できる。
同時通訳をしているような感覚だ。簡単な英語なら日本語で考えなくてもわかるのと同じ境地だ。
とにかく、ここが俺の居た世界の過去であるならば。
今が何年で、ここはどこの国かだけでも特定しなければならない。
むしろそれさえ分かれば、ため込んだ世界史の知識でどうにかなる!
なるべくこの子から情報を聞き出そう。
不審がられないように、信頼感を築けるように。
そうしないと、この後安全な場所まで運ぶという俺のミッションが達成できない。
「そうか、リヨンから来たのか…………すると、ここからけっこう遠いのか?」
「それが……よく、わからないんです」
まぁそうだわな。こんな小さな子が森の中に一人でいるとなると、迷子か何かだろう。
「リコ、船から海に落ちたはずなのに」
今、なんて?
〝船から〟
〝落ちた〟…………?
「ごめん、お嬢ちゃん……あぁいや、リコちゃん。何言ってるのかよくわからない」
「その……リコも、よくわからないんですけど、すごい嵐で、風がぶぁーって吹いて、それで船がひっくり返っちゃって」
少女――――言葉の端々で〝リコ〟と自分のことを称している、くすんだ金髪の少女は。
「それで、リコたちは……海に放り出されちゃって……」
やや垂れ気味の、透き通った碧い瞳に涙を潤ませながら、
「怖くて目を瞑っちゃって、でも気が付いたら――――この森の中に居たんです」
不安を隠しきれない表情で、声を震わせながらそう言った。
○
金髪碧眼。やや垂れ気味の瞳が特徴的な少女は、その名前を〝リコ〟と言うらしい。
年は今年で十二歳。フランスのリヨンという町から旅立って、ある場所を目指していた。
というか、やっぱり、読み通り。
彼女は〝少年十字軍〟だった。
リヨンという街自体は結構でかい。あの時代のヨーロッパ最大商業組合、ハンザ同盟には加盟していないものの、フランスの主要商業通路は通っている。
そんな街のちょっと裕福な平民、といったところだろうか。
話を聞くにこの鎧は、家族が旅に出る自分のために一生懸命働いて買い与えてくれたものらしい。
胸のところの傷を指しながら「この鎧がリコの命を守ってくれた」と伝えると、声をあげて泣き出してしまった。
きっと家族を思い出したのだろう。
○
「…………困った」
馬の上。
俺は覚えたての手綱さばきで馬をのんびりと歩かせつつ、俺の腹に後ろから手をまわして、だいぶきつめに締め上げてくる少女のことで頭がいっぱいだった。
「リコ、ストップ。そんなに強く締められると苦しい」
「だだだだってユキさん! 馬ですよ!? 普通の人は乗っちゃいけないんですよぉ!」
鈴の音のような、よく通った声であたふたしているリコ嬢は、移動し始めてからずっとこの調子だ。
無理もない。
中世の平民からしてみれば〝馬は金持ちの乗り物だ〟という感覚だろう。現代で言うところの高級車だ。
高級車で突撃はしないけどな。
「この世界に居る以上、俺たちは普通の人間とは言えねぇな」
「そ、それはそうなんですが、その……ゆ、揺れてる! 怖いです!」
「このぐらいの速度ならそうそう落ちないって」
「本当ですか……?」
「出発してから一度も、落ちそうになっていないだろ?」
「…………掴まっていれば、大丈夫なんですか?」
「そうそう。大丈夫」
「わかりましたぁ」
ぎゅうぅぅぅぅぅ。
く、苦しい……。
十五分ほど前。
家族を思い出してひとしきり泣いたリコは、赤い目をこすりながらお礼を言ってきた。
俺に命を助けられた、という認識があるらしい。
おかげで俺は不審がられることもなく、彼女の知っていることを丁寧に教えてもらえた。
リコを含む少年十字軍は、リコの話によると、やはりマルセイユから船に乗ったらしい。
そして教科書にある通り、七隻のうちの二隻が沈没した。
リコたちの乗っている船が沈む前に、前を行く船が波にやられて砕けたらしい。
その破片を避けようと舵を切った瞬間に横殴りの風。
帆をたたんでいたとはいえ、船は船体に風を受け、そのまま転覆してしまったと。
リコはそれ以上の話を知らない。残った五隻がどうなったかは彼女の知るところじゃない。
俺は迷った。俺が君のいた世界の約800年後に生まれた未来人だと、伝えるべきかどうか。
それを話せば当然、残った船のことを聞かれるだろう。
彼女はイエス・キリストを心から信じている。
神の教えを信じ、神のために剣を取り、神のためにイェルサレムへ向かった子だ。
心を同じくした同志が、自分なき後にどうなったかは必ず知りたくなるだろう。
言えない。
それは言えない。
奴隷として全員、エジプトのアレクサンドリアで売り飛ばされてしまったなどとは。
800年後の俺たちが聞いても胸糞悪い話だ。彼女が聞いたら、どんな気持ちになるかなんて想像するまでもない。
俺のことはとりあえず名前だけ教えておいた。
親しいものからは〝ユキ〟と呼ばれている、と言ったら、
「呼び捨てにはできないので〝ユキさん〟って呼ばせてください!」
と笑顔で迫られてしまった。
いずれ聞かれることだろう。俺が何者なのかとか、どこから来た人物なのか、とか。
どうするかな……東の端っこのほうの国から来たとでも言っておくか?
嘘はついてねぇぞ。800年ほど時代がズレてるだけで。
そんなこんなで、俺はいろいろなことを考えつつ一通りの自己紹介を済ませた後、
彼女を馬に乗せてその場を早々と後にした。
というのも、移動しなければ時間がなかったからだ。
気付けば日が傾きかけていた。
今は西の空に浮かぶ太陽も、だいぶ赤みを増している。冬の寒空特有の、燃えるような茜色だ。
たぶんもうあと一時間もしないうちに日が落ちる。
日が落ちたら移動はできない。必然、あの場で野営することになる。
火もなく、壁もなく、暖どころか明かりすらもないあの場所で。
動いたからと言って都合のいい場所へたどり着けるとは限らないが、動かなかったらたどり着く可能性は0%だ。
動くしかなかった。
その際どちらの道へ進むべきか迷った。
リコに、
「この男たちは、どっちから来た?」
と聞いても、小さな首を申し訳なさそうに振りながら、わからないと言われてしまった。
仕方がないので馬の足跡から推測しようとしたが、薄すぎて見えなかった。
八方手詰まり。なるべくこの男たちが向かっていた方向とは反対方向へ行きたかったのだが。
その時だった。
ふと道を見ると、一匹のカラスが地面に降りていた。
否、それをカラスと呼ぶにはあまりも早計だろう。
全身が黒いのはカラスと同じ。
体長もよく見るカラスと同じ。
しかし、目が。
目が違う。
真っ赤で際限なく煌めいた、それこそルビーをはめ込んだような目をしていた。
あんな動物はこの世にいない。
現代でも、中世でも、日本でもヨーロッパでも。
この世の生き物ならざるものを見た俺は、今度こそ確信した。
――――そうか、ここは異世界か。なるほどやっと断定できる。
赤い目のカラスは一心不乱に地面をつついていて、もしかすると考えすぎかもしれないが、
〝邪魔するな〟
と言っているようにも見えた。
俺はカラスの降りている道へは行かず、太陽の方角、おそらく西の方向へ馬を歩かせた。
○
「寒いな…………」
口から昇った白い息が、ほわっと夕日に照らされる。
馬の背に揺られながら思わず呟いた一言を、リコは聞き逃さなかったらしい。
「ユキさん、リコはマントも羽織っているので、このコートはユキさんが着てください」
「いやいや、着ても大して変わらんからなぁ。リコがそうやってくっ付いてくれてるから、身体はあったかい。手が寒いだけ」
「あ、じゃあ……」
リコの手ではだいぶ先の余った、茶色いコートの袖。
それを、手綱を持つ俺の手にリコはそっとかぶせた。
「邪魔ではないですか?」
「おぉ、大丈夫だけど……それだと、怖くないか? あまり掴まれないだろ」
「ちょっと怖いですが、もう慣れてきましたよ! ユキさんの背中があるので大丈夫です!!」
リコの顔は見えないが、きっと溌剌とした笑顔で言ったのだろう。
元気な子だ。
守りたい、この笑顔。
「…………」
彼女の表情はあまりにも可憐でいじらしい。
外国人――――いや、フランス人らしいというべきか。
人形のような相貌だ。旅のせいで長らく身体を洗っていないからか、
金髪が少しくすんでいることと、体がちょっと汗臭いことを除くと、本当にフランス人形のような娘だ。
碧く、ガラス細工のように透き通った、それでいて妖艶さすらも思わせる垂れた双目。
これの威力がすさまじい。
きっと将来大きくなったら、傾国の美女と呼ばれるに違いない。そのレベルの可愛さだ。
おまけに言葉づかいが丁寧ときた。
俺の頭の中では「です・ます調」で理解できているが、たぶん現地の言葉だとそれなりの丁寧な言い回しとかを使っているのだろう。
〝目上の人にはていねいな言葉で話しなさい。っておばあちゃんによく言われました!〟
と彼女は自分で言っていた。
いいおばあちゃんだなぁ。長生きしてくれ。
「ユキさん! ユキさん? あれ、見てください」
「ん?」
俺の手に被せてくれている両手のうち、右手を伸ばして指さすその先は、進行方向から1時の方角だった。
たぶん人差し指を立てているのだろうけど、袖がだらりと垂れていてどこを指しているのかはわからない。
「何か建物がありませんか?」
「…………ほんとだな」
目を凝らせばあった。
小さな小屋だ。道から外れて五十メートルほどか。
中に誰かいるのか、それとも空き家かはわからない。
どちらにしても行くしかないだろう。
もうじき日が暮れる。
日が落ちると寒さに耐えられそうにない。
今よりさらに寒くなるのなら、何が何でもあの屋根の下に潜らせてもらわねばなるまい。
あと睡魔と疲労もやばい。
かれこれ四時間だ。向こうの世界で考えると午前二時ぐらいになる。
ベットに転がって夜更かしをしているのとはわけが違う。
動きまくった。しゃべりまくった。そうでなくても環境の変化が激しい。
一刻も早く休みたいと思いつつも、俺は警戒の神経を絶やすことはなく、馬を右の森へと進ませた。
○
結果からいこう。
もぬけの殻だ。
初めは俺が殺してしまったあの連中の事務所であることを警戒したのだが、杞憂に終わってくれたようだ。
俺たちは、誰も使っていないであろうほったて小屋にたどりついた。
「おじゃましまーす」
そーっと明けた扉の中は、土のにおいと埃のにおいを足して2で割らないような感じだった。
要するにちょっと古臭かった。
贅沢は言ってられないだろう。むしろ遭難1日目にして屋根付きの小屋へたどり着けたことが奇跡に近い。
ありがたやありがたや。
広さは学校の教室の4分の1くらいか。
二人で居候させてもらうには十分すぎる広さだな。
中はがらんとしていた。
家具や装飾品の類はなく、何年も前に打ち捨てられた廃屋らしい。
ガラスの割れた窓が一つだけ、壁に取り付けられている。
沈みかけの太陽の残滓が、その窓からオレンジ色を差していた。
今のうちに、食事を済ませたほうがいいだろう。
暗くなると何も見えなくなる。
「リコ、座ろう」
「はい!」
窓の下、冷たい風が首筋をそっとなめてくるが、ここが一番明るい。
二人並んで壁にもたれて、俺は黒いコンビニ袋からサンドイッチを取り出した。
「…………? それは、食べ物ですか?」
「サンドイッチって言う。うまいぞ」
ビニールのパックを明けて、ごみはコンビニ袋の中へ。
手が少々汚いが、洗えるような場所なんぞあるわけないので、かまわずそのままつかむ。
二切れ入っているのでちょうど二人で分けられる。
「いただきます」
「い、いただきます……」
俺がかぶりつくのを横目でちらちらと気にしたのち、リコは小さな口で、ほんの少し先っちょをかじった。
「~~~~~ッ!」
んなハムスターが齧ったぐらいの量でそこまで驚かんでも、と思ったが、
「こんなに柔らかいパンは初めて食べました! なんでこんなに柔らかいんですかっ!」
満面の笑みでこちらを向かれては何も言えない。
なんで柔らかいんだろうな。工場の愛かな。
「うまいか?」
「こ、これ、持ち帰ってお父さんとお母さんとおばあちゃんにも食べてもらっていいですか?」
「気持ちはわかるけど腐りやすい食べものなんだ。持って帰るのはやめとけ」
「うん…………だめ、ですか」
「だな。まぁその〝帰ったら〟の話も、今からしようと思っててなぁ」
俺はその後、この世界がリコのいた世界とは違う世界なんだということを、なるべく分かりやすく説明した。
帰れるかどうかわからない事。
帰れても何年後かわからない事。
そもそもこの世界で生き残れるかどうか、わからない事。
俺の話を聞くうちに、リコの顔から明るい色は消えてしまった。
不安、疑問、恐怖。
それらがない交ぜになった顔で、一言もしゃべらず、うつむいたまま最後の一口を食べ終えた。
話すタイミングを間違えたかもしれない。
「…………」
「…………」
俺は少し後悔した。
○
サンドイッチを食べ終えて、気まずい沈黙が流れた後、俺はふと思い立ってペットボトルを取り出した。
やや膨れたサイダーだ。
キャップを握りながらそっと力を加えていき、噴出しないようにゆっくりと開けていく。
プシッ!
というおなじみの音とともに、なんとか無事に開けられた。
音につられたのか、うなだれたままのリコが顔をあげて、暗い顔のまま不思議そうに首を傾げた。
「飲み物だ。一口でも飲んでおいたほうがいい」
「…………?」
サイダーを差し出す。怪訝そうな顔で見上げながらリコは、おずおずと両手で受け取ると、ゆっくり口につけて傾けた。
瞬間。
「ぶふッ!!」
霧状に前方へ拡散した甘く貴重な炭酸飲料は、埃っぽい土の地面をほんのちょっと濃い色にした。
「ゆ、ユキさん…………お口痛いです……なんでこんな……」
「あ、やっべ。炭酸初めてか」
「〝たんさん〟ってなんですかぁ……お口痛いぃぃぃ……」
リコはペットボトルを突き返すと、俺に背を向けてうずくまってしまった。
悪いことしたなぁ……。
「びっくりさせてスマン。サイダーっていう、ちょっとシュワシュワする飲み物なんだ」
「うぅ…………」
「っても、水分がこれしかないからなぁ」
俺のバカ。
なんで炭酸なんか買ったんだ。ちきしょう。
今さら後悔してもどうしょうもないことに頭を抱えていると、リコが身体をこちらに向けて、伏せ目がちに弱々しく口を開いた。
どこか言葉を選んでいるような様子で、
「……ユキさん、貴重なお水を、無駄にしてしまってごめんなさい。痛いのは我慢します。のどが、乾いてしまって……もう吐き出さないから、もう一口だけください」
リコは目にうっすらと涙をためながら、俺と目線を合わせようとはせず、それでいて遠慮がちに両手を差し出してきた。
チャンス、だろう。ここで飲んでもらえなければリコの水分補給はマズいことになる。
「ゆっくり飲んでな。ちょっとずつ口に入れて」
「はい」
受け取ったリコは俺の言う通り、飲み口からちびちびと、なめるように口の中へ含んでいった。
「…………あ、おいしい。甘い……お水、ですか?」
「そう、それがサイダー」
目にたまった涙を手の甲でグシグシとぬぐったと思うと、リコはサイダーをもう一口、今度は普通に傾けながら口へ含んだ。
「大丈夫なのか?」
「――――ぷは、これ、甘くて、シュワシュワしてて、すごくおいしいです!」
「おぉ……」
よかった。炭酸デビューを果たしたようだ。
これで水分補給は大丈夫だろう。よかったよかった。
○
太陽は西の森へ姿を消し。
薄紫色の淡い残滓が、散り散りの雲と広い空に横たわる。
夜が来る。あたりの気温は一層下がるようだった。
「ユキさん、マントを外しました。これを毛布代わりにしましょう」
「悪いなリコ。ちゃんとコートは着てるか?」
「はい! リコは十分あったかいので、マントはユキさんが使ってください!」
「いやいや、二人で使うぞ」
リコの鎧はなるべく外させた。
冷え込んで金属が凍ってしまうと、そこにもし触るようなことがあったら肉が引っ付いてはがれてしまう。
プレートはすでに冷え切っていた。このままつけていてはリコの体温どころか皮膚ごと持っていかれてしまうので、胴と腰、肩あてや手甲などの、肌に触れてかつ平たい面の多い鎧は外させた。
マントも着脱できたので、リコには俺のコートを着させた上から、このマントに二人くるまって暖を取ることにした。
窓ガラスが割れているとはいえ、屋根があるのとないのとでは雲泥の差だろう。
温かい、とまでは到底言えないが、凍死と添い寝するような環境は何とか避けることに成功した。
室内がほぼ真っ暗になる。
埃っぽい地面に俺もリコも座り込み、壁にもたれ掛かってお互いの身体を密着させる。
マントは存外に温かい。
このまま寝ると明日の朝には首を痛めてしまうかもしれないが、まぁ我慢だ、我慢。
土と埃まみれの地べたに寝転ぶ勇気はまだ湧いてこない。
「……ユキさん」
消え入りそうな声で、リコは俺を呼んだ。
その表情が読み取れないくらい、室内は闇に包まれつつあった。
「リコ、本当はすごく怖かったんです。男の人たちに襲われた時、リコは死ぬかもしれないって思いました」
返す言葉が見つからない。次の言葉を待つ。
「ユキさんが助けてくれた時、リコは、リコには、やっぱり神様が付いているんだと思いました。神様はリコのことを見てくれていて、ユキさんは――――その、神様のお使いの人に、見えました」
「ははは、俺が神の使い?」
「はい。でなきゃ、リコはあそこで死んでいました」
「…………まぁ、偶然がいいように重なった結果だ。俺は、リコの期待するような〝神の使い〟ではない」
「そう……でしょうか」
すこし残念そうな声だった。
「なぁリコ。もし、もしもだぞ」
「はい」
「神様が本当にいるんだとしたら、俺たちをこんな目には合わせないと思うんだ」
「…………?」
「リコの神様は、どこにいる?」
「それは………」
そのまま、リコは押し黙ってしまった。
どこに神がいるのか考えているのだろうか。
フランスのキリスト教徒なら、宗派は普通ローマ・カトリックだ。
その教えを真に受けるのだとしたら〝神は教会に居る〟が正解だろう。
リコはなんて答えるだろうか。
「…………リコは、神様は、きっとみんなの後ろに居ると思います」
「ひとりひとりの?」
「はい。だから、だからきっと、リコが海でおぼれそうになった時も、リコが男の人に殺されそうになった時も、神様が見ていてくださったから、いまリコは生きているんだと思います」
「…………それも、ありかもな」
俺の感覚ではわからない。
神様なんて信じちゃいないし。
場合によってはその〝神様〟を俺は殴るかもしれねぇ。
リコの言う〝神様〟はきっとキリストのことだ。
キリストはこの世界にはいないだろう。
この世界に居るのはきっと、俺らのことを面白半分で呼び出して、
今頃玉座かベッドで寝転びながら、寒さに震える俺たちを笑い半分に観察している奴だ。
ただそれをリコに言うのは忍びない。
「リコ」
「はい、なんでしょう」
「元の世界へ帰ったら、リコはイェルサレムへ向かうのか?」
「向かいます」
即答だった。
「リコは行かなければいけません。神様が待っています。リコには神様が付いていて、リコは神様と一緒に、神様の生まれ故郷を取り返しに行きます」
「…………」
「絶対に、絶対にです。必ず帰って、リコはイェルサレムへ行きます」
熱意と、決心と、覚悟と――――なにより盲信の色が見える言葉だった。
再び思う、俺には理解できないと。
俺の理解できる世界ではない。
宗教とはそういうものだ。
リコの、彼女の、いや…………下手をすれば彼女が生きる目的そのものが、この〝神様のため〟になりかねない。
俺はどうするべきなのだろうか。
どうにかできる事なのだろうか。
神を信じる心に、ともすれば命をも賭ける気でいるこの少女を。
俺はこの世界で守れるのだろうか。
三度思う、俺には理解できない。
できないからこそ、その信仰の外側から、この子を守れるかもしれない。
もし。
もし向こうの世界で死ぬために、この子が帰るというのなら――――。
「…………リコ、ありがとう。今日はもう寝よう」
「はい。…………おやすみなさい、ユキさん」
「おやすみ、リコ」
――。
――――。
闇と冷気の立ち込める中。
窓の外であの黒い鳥が鳴いているのを、俺はかすかに聞いた。