第一話 「買い物って大事だよな」
視界の七割が茶色、二割が緑、あとの一割が青い空。
細々と光の筋が垂れていて、こげ茶色の地面をまばらに照らしている。
地面はふかふかと柔らかく、しかし表面の落ち葉の数は少ない。
どこをどうみても森の中。誰がどう見ても森の中。
…………意味が、分からない。
努めて冷静に周囲を見渡しても、目に入るのは茶色い地面と背の高い木だけ。
アスファルトも、駐車場も、コンクリ壁も、家も、電柱も、車も――――トラックも。
何もかもが消えて、茶色い感じが満載の森だけが横たわっていた。
「なんじゃ、こりゃ」
苦し紛れに声を出す。
自分の意志で声を出す。
夢ではないか?
いや、ないだろう。
夢の中で思うように声が出たためしがない。
じゃあ、あれか? 死後の世界?
たしかにあのトラックはやばかった。
ヘッドライトは確実に俺のほうを照らしていた。
でも、俺は轢かれていない。
見た所外傷なんてこれっぽっちもないし、俺のこの茶色いコートには、汚れが一つもついていない。
泥臭い色をしていても、泥は一つも付いていない。
ってことは轢かれてはいないだろう。少なくともあの瞬間は。
「…………なんなんだ」
混乱している。
状況が呑み込めない。
何があったかさっぱりわからない。
――――いや。いやいや。そうじゃない。
わからないのは当然だ。まだ何も考えていないから。
考えよう、整理しよう。
今、俺の身に何が起きている?
コンビニから出た。何を買った?
板チョコ三枚とレタスサンド一パック。ペットボトルサイダー一本とエロ本一冊。
買ったものはここにある。
コンビニから出る時には左手に持っていたし、今も左手に持っている。
ここまでの記憶がちゃんとある。トラックがこっちへ向かっていたのも覚えている。
で。
まぶしくて目を閉じて、十秒ぐらい瞑ってて、目を明けたらこの場所だ。
何の脈絡も前触れもなく、目を明けたらいきなり森の中。
しかも時間すら変わっていて、夜の十時はどこへやら。
木々の葉っぱの合間に見える、青い空模様はどう考えても昼だった。
ただ一つ共通点は、
「さ、寒い…………」
そう、寒い。かなり寒い。
たぶんコンビニを出た時よりも寒い。
「えぇー、今夜の外気温は2度だったか? それより寒いから……」
氷点下いくらの世界だろう。ジャケットとコートを着ているからよかったものの、セーターだけだったら凍死していた。
しかしそれでも暖かいのは胴体だけ。
手と、顔は容赦なく冷える。たまらずコートのポケットに手を忍ばせて、襟に口元をうずくめる。
なるほど大体読めてきた。
頭の中が落ち着きとともにスーっと冷めていく感覚がある。
いつものまともな脳みそが戻ってきた。
「…………ふむ」
周囲は森。
寒さは一級。
俺の持ち物は変わっておらず、着ているもの、頭の記憶にも一切の変化がみられない。
考えられる可能性は三つだろう。
一つ、どこか北のほうの森へぶっ飛ばされた。
日本なのかそうでないのかすらもわからない。何らかの力でそうなった。
神? 幽霊? もしかしたら妖怪の仕業かも。
一つ、タイムスリップした。
未来か過去かはわからない。とにかくあの時代とはいろいろと違う所へ来てしまった。
一つ、異世界転移。
小説やアニメでよくあるやつだ。神様とか、魔術師とか、モンスターとかが出てくるやつ。
最悪魔王とかドラゴンとか邪神とかが出てきて世界を滅ぼしにコンチワするやつ。
さぁてどれかな? どれなのかな??
……。
…………。
………………。
「――――ふざけんなよ」
震える声が喉の奥から漏れ出した。
腹の底が熱くなるのを、自分でも感じ取ることができた。
抑えがたい怒りに奥歯を思わず噛みしめる。
ふざけるな。どういうつもりだ。
こんなことが起きたってことは〝誰かが〟〝何かを〟したからこうなっている。
よりにもよって。
センター試験前日に。
俺がこの一年間をどれだけ頑張って過ごしてきたと思っている。
どれだけしんどい思いをして、ひたすら勉強したと思っている。
何のために勉強したと思っている。
明日のためだ。試験のためだ。
もっと言うなら大学へ行くためだ。
こんな!
見ず知らずの!!
クソファッキンフォレストに!!!
「――――俺の苦労を奪われたのかあぁぁぁぁぁッッ!!!!」
はー……はー……。
久しぶりに大声出した……。
すっきりした……はー…………。
まったく、それでも、怒りは収まらないけどな。
俺の身に起きていることが〝瞬間移動〟なのか〝タイムスリップ〟なのか〝異世界転移〟なのかはわからない。
でも。
でも、ぜったいに。
俺は現世に帰ってやる。
帰って試験を受けてやる。俺の苦労を無かったことになんてされてたまるか。
ついでに元凶を見つけたらぶん殴る。
たとえ神だろうが勇者だろうが魔術師だろうが魔王だろうが王様だろうが、
一発殴らにゃ気が済まねぇ。
……さすがに可愛いロリっ子魔術師のミスとかだったらゲンコツ一発に抑えてやる。
何年かかっても帰ってやる。
元凶を見つけ出して、ぶん殴ってやる。
殴るまで許さねぇ。帰るまであきらめねぇ。
「…………誓う。俺自身に誓おう。絶対にあきらめない」
コートの襟にうずめた口から、くぐもった声で俺は唱えた。
○
それは、さておいても。
帰るためにはとにかく生き延びなければならない。
死んでしまっては元も子もないとはまさにこのことだ。
たぶん、おそらくきっとだが、状況から考えるに摂取カロリーは何とかなる。
板チョコは高カロリーだ。それが三枚もあるのだから、サバイバルの難易度としてはまだマシなほうだろう。
サイダーが500ml。レタスサンドが一パック。エロ本が一冊。
切り詰めて切り詰めて頑張れば一週間持つんじゃないか?
サバイバル知識なんて都合のいいものは俺の頭には入っていないが、極力無駄づかいをしなければ何とかなるかもしれない。
不幸中の幸いか今は気温が低いしな。
この気温が続いてくれて、汗をかくようなことがなければ、水分も何とかなるだろう。
でも、何があるかはわからない。
ここが、実は地球とは似ても似つかないような超過酷な惑星で、一日ごとに外気温の差が30度ぐらいあるかもしれない。
そうなるとほぼ詰みだが、完全に詰むまで俺はあきらめねぇぞ。
「とりあえず、動くか」
木の根元をちょっと足でほじっておく。
万が一同じところをぐるぐるしてしまったらこれでわかるからな。
あぁ、あと、そうだ。
スマホ、スマホ……あったあった。
「よし、ナイス俺。よくやった」
スマホの左上は圏外表示。
なれど右上は98パーセント。夕方に充電してから全然使っていない。
今はまだ、こいつがどれだけ役立ってくれるかはわからないが、充電ほぼマックスは頼もしい。
外気温が低いから消耗は激しいが、なるべく冷やさないように気を付けよう。
唯一の相棒だ。役立ってくれることを祈る。
「よし…………」
ひとまずはストップウォッチを起動。
スタートボタンを押して、画面の数字が進んでいく。
これで俺がこの世界、この場所へ来てからどれくらい時間がたったかが一目でわかる。
食事の時間もこれで等間隔にすれば、無駄な消費も抑えられるだろう。
不安はある。恐ろしい。
むしろ絶望しか感じない。
こんな寒い中わずかの食糧で、草も生えない森の中に放り出されているんだから。
でもだからってあきらめる理由には全くならない。
足のあるうちは前へ進むし。
手のあるうちは這って進むし。
胴のあるうちは〝のたうって〟でも進んでやる。
あきらめるもんか。俺の努力はそんなに安くねぇ。
○
どれくらい歩いただろうか。
スマホの画面に目を落とすと、俺がこの世界に来てから二時間が経過したことを示していた。
画面から目を離しつつ、木の根元を靴で掘っていく。
少し体がだるい。
それもそうだ。元の世界で考えると深夜0時ということになる。
この世界がいま何時なのかはわからないが、俺の身体は疲労がたまっている状態だ。
でも。
いまだ道を見ず。
いわんや人をや。
さっきから景色が変わらない。
上空ではカァカァと一匹のカラスっぽい鳥が鳴いているが、それ以外に生物らしきものは今のところ遭遇していない。
もちろん人は影も形もない。
「まぁ熊とか狼とか魔物とか、そういうのが出てくるよりはマシだけどなぁ」
森は危険でいっぱいだ。
獣や虫、そういう生き物は喜々として俺を襲うだろう。
ここが地球ならの話だが、ファンタジーなら言わずもがなだ。
いま襲われたって逃げられる自信はないが、時間が経てば経つほど俺の体力は無くなっていく。
当たり前の話、生存率も下がるだろう。
早めにどこかで休まねぇとな。
でも寒い……せめて屋根のあるところで休みたい……。
もしかしたら寒いから寝ちゃダメとかあるかもしれないが、雪山ほど寒いわけじゃないからな。
屋根のある場所さえ見つけられればなんとかなる。
とにかく歩こう。
日が傾きだしたらどうしょうもない。その時は休む。
うれしいことに二時間たっても太陽が傾く気配はなし。今のところは大丈夫だろう。
「…………」
……。
…………。
いや、まぁ、なんだろうな。
それにしてもなぁ。
せっかくの異常事態なのだ。
ポジティブな考え方をすれば〝非日常の真っ只中〟ってことになる。
ここは、そうだ。ひとつ楽しい妄想でもしながら森の中を歩いてもいいじゃないか。
そうしよう。そうでもしなきゃ、やってらんねぇわこんな苦行。
たとえばだ。ここが地球ではない、どこか異世界だったとしよう。
魔法があって、モンスターが居て、なんならエルフとかドワーフとかのいわゆる〝ファンタジー〟な世界だったとしよう。
「やたらワクワクするよな」
心が躍ってくるじゃないか。
俺はそういうのが大好きだ。
勉強の合間、もしゲームをする時間の代わりにネットで小説を読むとしたら、俺は〝異世界転生〟か〝異世界転移〟とタグの打たれた話を読む。
この一年間は何度かそんな自由時間を過ごしてきた。
なぜ好きなのかはわからない。
なんとなく好き……いや、この際だ。せっかくなので〝どうして俺は異世界ファンタジーが好きなのか〟を考えよう。
時間はたっぷりある。
っと、その前に木の根元を掘って……よし。
「なんでだろうな……世界史が好きだから?」
レンガ造りの街並みとか、騎士とか、軍馬とか、戦争とか。
あの世界史独特の何とも言えないかっこよさか?
あれがいいのだろうか。
いいのだろう。なぜか惹きこまれる雰囲気があるもんな。
そして、たしかに。ファンタジーと言えば中世ヨーロッパだ。
その世界観が合致しているのは言うまでもない。
俺が世界史を好きになったのは、確かやっていたゲームの時代背景が中世ヨーロッパだったからだ。
画面の中の風景と、教科書の中の解説が入れ子格子のように俺の頭に入っていった。
そりゃ好きになるわな。ゲームの延長みてぇなもんだし。
中国史とかイスラム世界とかもあったけど、あれはあれでいい刺激になった。
三国○双買っちゃうぐらいには中国史も好きになった。
おっと……木の根元を、掘り掘りしてっと。
だからだろうな。俺は戦略ゲームとか戦争ゲームが好きで、その延長に世界史があって、んで世界観まるかぶりのファンタジー小説がある。
だから俺は好きなんだ。たぶんそうだろう。
「……でも、世界観が好きなだけじゃ、小説は読まねぇよな」
それもそうだ。世界観が好きなだけなら、小説じゃなくてアニメや漫画でもよかったわけだ。
じゃあほかにも俺が〝異世界ファンタジー小説〟が好きな理由があるだろうか?
「…………あ」
んん、そうか。これはすぐにわかったぞ。
主人公に感情移入しやすいからだ。
大体の主人公は、生前に引きこもりだったとか。クラスの誰かにいじめられていたとか。
社畜だとかボッチだとか無職だとか。
何かしら闇を抱えているもんな。
俺は別にいじめられてはいなかったが、引きこもりとは酷似していると思う。
日がな一日部屋にこもり。
会話をするのは家族だけ。その家族とも、飯を食う時の限定付き。
四畳半の狭い空間だけが俺のキングダムであり、俺の生活空間だ。めったに外なんて出なかったもんな。
一般的な引きこもりよりシャーペンを握る時間が長いだけで、あとの生活はほぼ一緒。
そりゃあ共感も覚えるだろう。
だからこそ妄想もするだろう。
〝ここではないどこかで〟
〝自分だけが使える特別な力を手にしたら〟
――――ってな。ワクワクするじゃないか。妄想がぽんぽんと膨らむだろう。
だからこそ異世界にあこがれる。
そこで勇者になって世界を救う。
「…………はぁ」
ため息が漏れる。
小説の中の主人公はあんなにも輝いていたのにな。
俺の現状を考えてもみろ。
実際、日常から切り離されたらどんなに恐ろしいものだったか。
〝遭難なう☆〟とかってSNSに流すこともできん。
「実際問題、今までの生活がバッサリ切れる人間なんて、そうそういるもんじゃないってことよ」
大事な約束があるかもしれない。
大事なテストがあるかもしれない。
無職の引きこもりだって、楽しみにしているゲームのイベントがあるだろう。
それらすべてを打ち捨てて。
仮に〝チートな能力〟を授かって。
見ず知らずの土地に召喚されたら。
「…………俺は、それでも帰りたいと思うだろうな」
まして今はこんな状況だ。
右も左もわからない。異世界なのか現実なのかもわからない。
チュートリアルもアナウンスも女神も魔王も現れない。
当然、自分にチート能力があるかもわからない。
ない、ない、わからない尽くし。
こんな現状に適応できる主人公は、やっぱり主人公なのだろう。
カッケェよなぁ。
「あーあ……生きてぇなぁ」
白い息を吐きながら、俺は上空を飛ぶ一匹の鳥を、なんとなく見上げてみた。
○
スマホのタイマーが三時間の経過を示したとき。
「うん…………?」
ふと、自分が落ち葉を踏みしめる足音とは別に、何かが聞こえたような気がした。
その場に立ち止まって息をひそめる。
「…………」
まただ。
何か音がする。しかも落ち葉と腐葉土を踏む音じゃない。
複数に重なる謎の音。自然に発生するものではない。
不規則なリズムで聞こえてくるそれは、木々への反響があって聞き取りにくいが。
「人……?」
心臓が高鳴る。ここに来てやっと、空を飛ぶカラスっぽい生き物以外の生命体に会えるかもしれない。
怒声とも罵声とも聞こえるそれが、きっと人の声であると願って、俺は音のする方角へ駆け出した。