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(株)ミクジョ。   作者: 青髭 理希
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第六話

 ランプの明かりだけが頼りの暗闇を抜け、オフィスらしき空間に入ると未来が電灯のスイッチを入れた。突如、暖色の蛍光灯で満たされたアットホームな雰囲気に変わる。先ほどの殺風景なロビーらしき場所とは雲泥の差だ。というより、オフィスというには少々失礼なほど家庭的な部屋だった。

「どうぞ。今は私の他に、宮代君っていう同い年の子がどこかにいるはずだから、来たらよろしく話していてください。今コーヒーを持ってきますね」

「ああ、お構いなく」

「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」

そう言われて「ああ」と弘は名乗っていないことを自覚した。

「気づかなくて、すみません。僕は一ノ谷といいます」

「一ノ谷さん、未来設計相談所へようこそ。よろしくお願いしますね」

未来はニコッとした顔でお辞儀をし、暗い廊下の方へ消えた。それが素なのか営業スマイルなのかは、未だ読み取ることが出来なかった。

どうぞと勧められた白い一人用ソファに腰掛ける。見た目通りの感触は起毛でふかふかしており、程よく沈み込んで弘の身体を覚えるようにフィットした。

 じっとしているだけは落ち着かないので、ひとまず周囲を見渡す。

地下にあるだけに窓はないが、綺麗な白い壁に木製の板が部屋を囲むように打ち付けてある。未来が選んだものなのか定かではないが、一つ一つのインテリアの配置といい一般家庭のリビングに近い、それもセンスがいい。入ってきたドアから見て右隅には本棚があるが、これが唯一、絞り出してやっと出てくるこの空間に調和できていない要素だろうか。本棚の中にはファイルと本屋がバラバラに並んでいるようだ。弘が座っているソファは、ドアの平行線上にテーブルと向き合うように二つが並んで置かれている。お客様専用の椅子だろうか。向い合うテーブルは明るい色の木製で3つ、T字になるように並べてある。一つは横に、二つは向かい合うように縦向きに。テーブルには綺麗にコード類を束ねるためのボックスと、そのコードが繋がれているノートパソコンが6台。つまり、この会社は6人ということだろう。他の部屋にまだパソコンがあるかもしれないが、通ってきた通路に他の扉は未来が向かった炊事場らしき空間へ続く扉が一つあるだけだった。

まあ、学生が起業して会社を設立するのも最近ではそう驚くことではないが、人数は多く集まらないだろうし、よくやっているなと感心する。その年齢でどのように営業戦略やら製品開発(サービス含む)を行っているのか見習ったほうがいい気がする。特にあの会社の幹部はこの高みを目指そうとする姿を見て勉強しなおせ、と声を大にして言いたい。

そんなことを考えていると、ドアの向こうから乱暴な足音が聞こえた。

社長が不機嫌なのだろうか?しかし、コーヒーを注ぎに行っただけのはずだ。

その疑問は、すぐに解決した。

バタン、とドアが乱暴に開けられる。勢い良く入ってきたのは、未来と同じブレザーを着た男の子だった。

「……」

入ってくるなり弘に視線を向け、しばし無言になる。

なんのつもりだ、弘は警戒した。やはり怪しい集団のアジトなのだろうか、という考えが頭をまたよぎる。

すると、少年の顔が小馬鹿にするような表情へと移り変わり、一つため息をつく。

その仕草に小生意気な性根を感じたが、まあこんなものだろうと弘は気にしなかった。

「あなたが、さっき柊さんから聞いた宮代君ですか?」

未来から聞いた名前を思い出し、確認の意図で質問する。初対面の人には年齢がある程度なら敬語を使え、という自身の信念は忘れない。

しかし、問いかけに少年は答えない。

「もしかして宮代さんではないのですか?それでしたら失礼しまし……」

そう言いかけた時、少年が初めて口を開いた。

「あんたが、依頼人か?」

何やら、弘を警戒しつつ、訝しげに質問を質問で返してくる。

見た目通りの口調と素性で、逆に安心した弘は、社会人スタイルの話し方をやめることにした。逆上こそしていないが、弘は人が話している最中にそれを切るように話しだす人間は嫌いだった。

「というより、為すがままここに来てしまった感じだけど。まだ何も詳しいことを聞いてないし、まず君は誰?」

弘は冷静に話を本筋に戻そうとした。

「……宮代睦明。さっき柊から聞いたと思うけど、俺はここの社員だ。あとあいつとは同級生だ!」

睦明は、なぜか「同級生」という言葉を妙に強調し、がるるると子供の狼のように唸る。

「なんだ、やっぱり宮代君か。『社員』って言ってたけど、いつもその態度でお客さんに接してるの?」

「う、うるせえ!社会人だからっていい気になるんじゃねえ!俺は――」

 あくまで反抗的な態度を取る睦明と、そろそろ呆れ始めた弘。そこへ、矢のような呼びかけが飛んできた。

「睦明!」

 そう言われた本人はびくりと身体をこわばらせ、首だけを回転させて未来の方を見る。それに合わせるように弘も未来に視点を変えると、そこには鬼の形相でお盆を持った未来が仁王立ちしていた。

「み、未来……」

「アンタ、お客様に失礼なことしないでってあれほど言ったよね?なんで?なんで繰り返しちゃうの?」

撤回。持っているのはお盆ではなく釘バットだ。それほどの怒気を感じる。弘を目の前にしても、未来は完全に「睦明」個人に対して話していた。

「いや、ち、違う、俺はこいつが敵なんじゃないかと思って」

「言い訳はいらない」

未来が睦明へ向かって一直線に猛進し、胸ぐらを掴む。中々の剣幕だ。

弘は少し後ずさり、その終始を温かい目で見届けることにした。未来はまず、睦明に対して身振り手振りを使った。

「この人は、悩んでここに来たの。わかる?私達はクロノス様の依頼でそういう人をいい方向へ導くのが役目って言われてるじゃない。この人がいい人でも悪い人でも関係ない。まずは話を聞くのが私達の使命じゃないの?」

「でも、この前みたいに未来が危ない目にあったらどうすんだよ!」

「全員が全員そういう人ばかりじゃないでしょ!頭固すぎ!」

戦いの火蓋が切って落とされると、弘はリングの向こうから行く末を眺めることしか出来なかった。激しいストレートの打ち合いは止むことを知らない。

「ああ!もうわかったよ!こいつに何されたって知らねーからな!」

 睦明が地団駄を踏み、勝敗は決した。未来の圧勝である。やはり、男子は女子に口では勝てないのは今の学生も変わらないらしい。まあ、これも青春なのだろうか。

「帰る!」

睦明はデスクに置いてある豚鼻のリュックを力任せに引き寄せると、背負いもせずズコズコとオフィスを去っていった。

「あ、ちょっと!」

未来が引きとめようと手を伸ばすが、睦明は振り向かず、暗い廊下に消えた。しばらくして金属質な入り口のドアの閉じる音だけが響いた。同時に、ここからは普通に出られることが判明した。弘は小さく息を吐いた。そして取り残され、呆然とする二人。

ここは大人のコミュニケーション能力を見せてやろうと弘が奮起するが、よくよく考えてみるとコミュニケーションが得意でないことを思い出し、心の中で涙目になった。

なんとか、なんとか話題を。その時、仲良しこよしのうんちくを思い出した。

「宮代君と柊さん、仲がいいんですね」

喧嘩するほど仲がいい法則に従い、弘は解を導き出すように言った。

「なっ!そ、そんなことありません!あんなわからず屋」

未来は、力の限り否定した。ふたりともあまのじゃくに否定することに、ほんの少し青春を感じる。

「そちらの事情はわからないし、詮索するつもりもありませんが、一つ聞かせてください」

「な、なんでしょうか?」

未来は平静になろうとするが、焦りは抜けていないようだ。

「宮代君と柊さんは同級生だと彼が言ってましたけど、2人はまだ高校生なんですか?」

弘はずっと気になっていたことを聞いてみる。すると、未来はさも当たり前のように答えた。

「はい。高校生で会社を?って、よく聞かれます」

やはり彼女らは学生であった。その歳で起業に踏み切れる度胸を見習いたいと素直に思った。しかも、なんとカテゴリ分けしたら良いかわからないような仕事でこの綺麗なオフィスを確保できるのだからさぞかしお金も入っているのだろう、と勝手に内部事情を妄想で補完した。

「やっぱり、2人はすごい人だ。あなた達なら信じてもいいかもしれません」

「そう言っていただけて光栄です。と言っても、会社を設立したのは私達じゃないんですけどね」

未来は舌をぺろっと出し、申し訳無さそうに首をかしげた。見た目の幼さもあってか、とても可愛く見える。

しかし、設立したのが自分たちでないということは、どこかに主要株主でもいるのだろうか。

「どなたかが出資してくれたんですか?」

「いえ、その辺はちょっと申し上げにくくて……詳しくは後々お話できると思います。これからもっと信じられないような話がばしばし出てきますから、心の準備をしておいて欲しいです」

「は、はぁ……」

ばしばしと言われても目にしたことのない現実の話をされてもピンと来ず、弘は困惑したが、先ほどの話から嘘は言っていないだろうと、素直に信じる。

それとは別に、ここまで未来と話していて、弘は少し違和感があった。

彼女が無理をして敬語を使っていないか、だ。聞いていると、どことなくぎこちない敬語で、慣れていないことが見受けられた。むしろ睦明の口調のほうが生意気だが歳相応で、聞いていて違和感はない。

「ちょっと唐突ですけど」

「?」

頭のなかで考えていたことを、そのまま口にする。

「社長とは言っていましたけど、無理して敬語使う必要ないと思いますよ。宮代君もはじめから僕にタメ口でしたし」

「!」

未来の表情が、二段仕込みで変化した。ぱぁっと明るくなる。

「ほ、ほんとにいいの?あなた、社会人でしょ?私の方が年下だよ?」

疑問形から既にタメ口になっていることに気づいた未来はわわっ、と両手で口元を塞いだ。

「雰囲気から察するに、あまり会社っぽい感じがしないのと、タメ口のほうが楽でしょ。それに何より」

「何より?」

「生意気な宮代君に敬語は使いたくないんでね」

「う……それについては、アイツの方から今度必ず謝らせる」

「よろしく頼むよ、柊さん」

笑みを向けると、未来はもじもじと落ち着かない様子で、弘から顔を逸らしながらも、チラチラと視線が弘の方に泳いでいた。

「どうしたの?」

「……た、タメ口で、いいん、だよね?」

「柊さんが嫌でなければ、タメ口で構わないよ?」

「い、嫌じゃないの!馴染みのない人とタメ口で話すの、久しぶりだから動揺しちゃった。ありがとう、あ、あはは」

落ち着かない様子で、未来はごまかすように笑った。もしかしたら気分を害したのかもしれない。弘は少し軽率だったかと考えたが、嫌なら断るタイプの子だろうし、嫌ではないのだろう、と思うことにした。

「そ、そういえば名前、聞いてなかったわね!」

気まずくなりかけた空気を先に破ったのは未来の方だった。どうやら杞憂だった、と弘はひと安心した。同時に、まだ名乗っていなかったことを思い出した。

「ああ、そうだっけ。僕は一ノ谷弘です。この近くの会社で働いてるよ」

「一ノ谷さんね。じゃあ、お悩みはその会社についてってこと?」

そういえば、本来の目的をすっかり忘れていた。自分は悪い輩に仕返しをすべく考えていて、気づいたらここに連れて来られていたのだ。

「ご名答。でもまだ確信がつかめなくて」

そう、仕返しの理由となる確証がつかめていないことが現時点での一番の問題だ。現状、弘に対する風当たりが強いことだけが事実で、それが父への憎悪の転換によるものなのかそれとも本当に何か自分でやらかしてしまったのかは知る範疇ではない。だから、弘は父への憎悪がまだ渦巻いているという憶測を事実にしたかった。

「詳しい話を聞きたいところだけど、出来るだけ多くのメンバーの前で話して欲しいの。明日、来れる?」

「多分、大丈夫。明日も定時退社だろうし」

「じゃあ決まりね。一応ここのシステムを前もって伝えておくと、うちは深層心理っていう、人が心の奥底で思っていることが実現できていない人をここに導いて、私達が良い方向に持っていくっていう仕事をしてるの」

「その、いい方向に持っていくってのは?」

「そこがミソなんだけどね。例えば、何か夢や目標を持ったことはある?」

夢、目標と聞かれて、弘は口を噤んだ。

人間誰しも何かになりたくて、それに突っ走って、つらい思いをして、乗り越えて。そんなことの繰り返しで人が強くなっていく、という原理が理解出来ていれば、この質問はそこまで難問ではなかったかもしれない。弘は、具体的に理想像を描いて人生を歩んだことがなかった。いわば、無気力なままここまで来てしまった。節目節目で友人や周りの人がかけてくれた、もしかしたら未来を左右したかもしれない一言に耳も傾けず、のらりくらりと過ごしてきた自分の姿が浮かんできた。こんなことを口走っては、この人を失望させてしまうかもしれない。つまらないプライドが、自分につまらない嘘をつかせてしまった。

「安定した暮らしがしたいと思ったことはあるかな」

迷いながら紡ぎだした言葉に、未来は少々戸惑い、首をかしげた。

「随分と現実的ね……。まあその夢を叶えたいけど、中々うまく行かないことってあるでしょ?」

「人生、山あり谷ありだからね」

さっきからずっと、わかったような口を聞いていると自覚しつつ、弘は会話を続けた。

「そうすると、本当の思いと現実が乖離していって、最終的に身体の中に深い闇を落とすらしいの。それが深層心理の崩壊」

「深層心理の崩壊かぁ……何やら現代人が誰しも抱えそうな問題だね」

「実はそれが世界で大きな問題になっていてね。私達は、深層心理の崩壊を止める役割を果たしているの。いわば、病院の精神科とか心療内科みたいなものね。しかも薬に頼らず具体的に、副作用無しで」

「深層心理が崩壊するとどうなるんだ?」

「現代の自殺の原因として極めて重要な、『うつ病』になるわ。まとめると、深層心理は精神疾患の要因を分析した結果ってやつかな」

わかった?と言いたげな未来はここまで説明した満足感からか、ふうっと息を吐いた。

「まだはっきりイメージできたわけじゃないけど、現代の科学はそこまで進歩していたのかってことは分かった。というか、それってすごいことじゃないの!?副作用無しで確実にうつ病を治すなんてノーベル賞もらえるレベルだよ」

「医療じゃないし、基本的にこのことは公にできないのよ。大体、未来を自由に変えますって科学の権威の面々が並んでいる前で話して、どれだけの人が信じると思う?」

「……多分誰も信じないだろうな。俺もまだ信じきれてない」

「でしょう?それでもあなたは割と柔軟に受け入れてくれてるみたいだから助かるわ」

本当だとしたら、この未来という少女が、将来的に危ない患者だけを確実に招き入れ、適切な治療を施して治す、ということを彼女はやってのけるというのだ。やはり只者ではない、と不思議な恐怖心が弘を襲った。

しかしながら、引っかかることがあった。重要課題の解決方法だ。医療でないなら、どうやって治すというのか。

「一つ気になる事があるんだけど、深層心理はどうやって修正するの?」

 弘は率直に疑問をぶつけた。

「それなんだけどね、私が治すわけじゃなくて、平たく言えば神頼みなの」

「えっ?」

全く予想していなかった返事に、弘は素っ頓狂な声を上げた。

「神頼み…神頼み?」

確認するように、2回繰り返すが、結果は変わらず、弘の頭を混乱させるばかりだった。

「そう、神頼み。しかも時間の神様よ」

「……まったくもって想像できないんだけど」

「明日来ればわかるわ。その時まで楽しみにしてて」

「お、おう……」

頭のモヤモヤは晴れることなく、明日の夜まで濃霧で覆われそうだ。

「一旦お開きってことで。明日、必ず来てね」

「ああ、今日はありがとう。一旦家に帰るよ」

「さよなら。私はもう少し残っていくから」

なんとこの少女は高校生にも関わらず、ブラック企業並みの労働時間を貫く所存らしい。こんなことが許されていいのだろうか。いや、ここが日本だからと言って許されてはならない。腕時計の針は22時を指している。社会人ですら、そろそろ「どうなってもいいやー」とトランス状態になる頃だ。

「意見するようで申し訳ないけど、社長とはいえ女性なのにこんな夜遅くに一人で帰ったら危ないし、無理して働くもんじゃない。もう帰ったほうがいい、駅まで送るから」

それは弘の心からの気配りだった。

「じょ、女性……い、いいよ。私、その…」

一瞬、「女性」という単語に照れ隠しをするが、その後少々間を置いて気まずそうに話し始める。それは、デートに誘われて断りづらい時の女性の表情に他ならない、自分はあまり見る機会のない姿だった。気さくな女の子だと思っていた弘にとっては、思いがけない反応だった。

「もしかして、嫌だった?」

また彼女の気分を害してしまったか、と弘は焦る気持ちで弁明する。

「そ、そうじゃないよ。ただ、あまり面識のない人と一緒に行動するのが、少し苦手なの。ごめんなさい、気持ちは嬉しいよ。心配、してくれたんだよね」

未来の表情はさみしげで、どこか守ってあげたくなるようなか弱いベールに包まれていた。それを見た弘は、自分がのどか以外の人物で久しぶりに会話が続く人ができたことの高揚感で、行き過ぎた優しさがただのお節介だということを省みた。

「なるほど……わかった。無理強いするつもりは無かったし、こちらこそ知らずに図々しくてごめん。明日また、会おう」

「そんなに気にしないで。私が悪いの……そろそろ前に進まなきゃ」

未来の声は段々としぼんでいき、最後は何を言っているのか聞き取れなかったので聞き出そうとしたが、言いたくないのだろうと察し、詮索するのを止めた。

「ここを出るときに、入ろうとする人とブッキングすることがあるから気をつけて。元々ここはバーが存在している場所にもう一つ、別の空間を作って存在している場所だから、もし一ノ谷さんが元の空間に戻った時に階段を降りてきた人と出くわしたら……」

未来はそこで口を動かすのをやめた。あとはわかるよね、と言いたいのだろう。答えは簡単だ。

「……俺がバーの扉も開けていないのに突然ワープしたかのように現れて、相手はこいつがどこから出てきたのかと怪しむな」

「さすが、察しがいいわね。だから出るときは、ドアを開ける前に外の様子が透けて見えるようになってるからそれを参考にして。バーの中から出てくる人は残念だけど、声しか聞こえないから注意して耳を済ましてね」

出て行く時の面倒な制約をひと通り説明され、弘はひとまず理解した。

「了解だ。できるだけ気をつけるよ」

「お願いね、ここの存在はできるだけここに入れる人だけ知っている状態にしておきたいから」

未来の今日最後の声を耳に受け取った弘は、コーヒーの飲み残しをデスクに置き、オフィスを後にした。


 内側、外側と、耳と目を使い分けて人が近づいていないことを確認し、暗闇の奥のドアを開けると、乙羽駅南口の深夜の喧騒が聞こえた。上を見上げるとまだ営業中の店の明かりが、乙羽市が眠らない街であることがわかる。弘は、初めてこれが現実だということを確信した。後ろを振り返ると、出てきたドアが確かにあった。ここに入れない人から見ると、ここはバーの入り口だという。1年半もこの駅を使用しているが、そのことはあまり記憶が無い。意識がないとまるで覚えていない人の記憶とはよく出来たものだ。

階段の下から見える満月は、東京にしては珍しく透き通った夜空に煌々と輝いていた。

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