第五話
バスで揺られること十分、会社の最寄り駅である乙羽駅に到着した。
駅前のロータリーから伸びる一本道に、窮屈に立ち並ぶビル街と碁盤状に広がる華やかな商店街が際立つ、人口15万人ほどの中都市、乙羽市は東京の都心から電車で20分ほどの典型的なベッドタウンだ。その例に漏れず、中心部は栄えているが、少し外れると閑静な住宅街と市民の憩いの場として親しまれている森林公園がある、非常に住みやすい街だと評判らしい。
弘も、この街と人々が放つエネルギッシュな雰囲気は嫌いではないが、いかんせん楽しそうな街は充実した若者たちが蔓延る事のできる聖域でもある。一度街中を歩けば、夜はカップルが堂々と右往左往できるほど、この街は平和のようだ。全くもって面白くない、と弘は複雑な思いを抱いていた。
いつものように夕飯処を探す旅が始まった。まずは、駅前をぐるりと一周する。それでピンとくる店が見つからなければ、気の向くままに入りたい通りに入る。通りの中には勿論、以前行った店とそうでない店があるが、どちらを選ぶかはコイントスで決める。それでも入りたいと思う店が見つからなければファストフード、という流れで旅程を組んでいる。
今日は駅前1周で見つからず、南口の狭い通りを選んだ。
ビル街のある北口とは対照的に、南口の通りは不規則で道幅も決まっているわけではない。飲食店の多い、細い路地を抜ければ大きなデパートのある大通りがある。その向こう側は飲み屋街のため、散策したことはないが、全体的に見れば北と南で二分されており、整っていない南のほうが治安が悪い。
例によって、今日も南口すぐの細い路地には住処のない浮浪者や派手な化粧に露出の多い服装の若い女性、更にはキャバクラの客引きなど、たちの悪そうな面々が勢揃い。
のろのろしていると声をかけられてしまう。弘は足早に、大通りに向かって歩き出そうとした。
なんだろうか、足もとにペラペラしたものが当たっていることに気づく。
弘が視線を下ろすと、やはり紙きれ一枚が吹いた風を受けて、離れたくないとでも訴えかけるように弘の足に張りついているのがわかった。よく見るとチラシのようで、黒い文字がプリントされている。
近くの客引きが配っているものではないか、と周囲を見渡したが、それらしきものを配っている人は見受けられなかった。
特に話しかけられる心配もないと判断し、手にとって広げる。
『あなたの未来を変えてみませんか 株式会社 未来設計相談所』
地面でのたうちまわっていたであろうにも関わらず、ホコリ一つついていない綺麗なA4サイズの白い紙には、デカデカとその文字だけが明朝体でプリントされていた。
犯行予告のはり絵ではないが、見てくれは非常に気味が悪い。更に、それを持っているのは自分だけという事実がますます恐怖を募らせる。
捨てようと手を放そうとした。が、脳がそれを何故か許してくれない。
「未来を変える」という、できるはずのない夢物語のようなキャッチコピーから目を離せずにいた。
自分がこれから計画しようとしていたことを確実に遂行するためには、未来が、未来さえわかれば安心できることこの上ない。
しかしながら、よくCMで見かけれるような社名ではなく、キャッチコピーから放たれる胡散臭さは並大抵のものではない。そもそも、内容が内容なのだからなおさらであった。
「流石にあり得ない……よな」
こんなうまい話、あるわけがない。大体、未来を変えるなんて芸当ができるなら、それを生み出した人間は人類の滅亡まで語り継がれる地球上でもっとも記憶に残る偉人として拝められるだろう。
こんなものに気を取られている暇があったら家でじっくり計画を練ったほうが得策だと思い、弘が紙をたたもうとした時だった。
周囲に、異様な空気が訪れる。その正体は、目の前の建物が発生源だと察知した。
地下に向かって伸びる階段に、弘の意識が吸い込まれていく。その瞬間から、自分の身体が制御できない感覚が襲ってくる。
「なんで……俺は……帰ろうとしているのに……」
必死に抵抗するが、身体はあの扉の向こう側の何かを欲していた。自分のやろうとしていることはここにあるんじゃないか、という男の勘と好奇心とミックスされて、自制心を超えてしまったようだ。にしても、自分はこんなに誘惑に弱かったのかと疑ってしまう。何か特別な力が働いているのではないか、と夢見がちなことも頭をよぎる。
腑に落ちないまま為す術なく近づいてみると、階段は十段ほどで終わっており、下には白っぽい灯りに照らされて冷色に見えるレンガをあしらった壁に、鉄でできているドアだけがあった。
こんなドア、元からあっただろうかと言うことをまるで考えもせず、弘は催眠術にでもかけられたかのように階段を一段、また一段と降りて行く。
自分の意識を何者かに奪われたような感覚のまま、ドアの前まで辿り着いてしまった。
近くで見ると、黒い鉄の冷たい質感が冷気を放つかのように伝わってくる。その威圧感に、一瞬たじろいでしまう。
ここまで来たら、この先に行かないという選択肢はないだろう。ドアを開けて、変な集団の集会所だったらすぐドアを閉めて帰ろう。やーさんの事務所だったら全力でごめんなさいしよう。
弘は、いよいよドアノブを手にかけた。霜月のひんやりとした風に曝されたドアとは違う材質のドアノブは、少々冷たかったが触るのをためらうほどではない。引いてみると見た目通りの重さで、少々腕に力を入れ、思い切り引く。
音もなく開いたドアと同時に、その先から強い風が襲ってきた。
「っ!?」
弘は思わず怯み、尻もちをつく。
その勢いは止まらず、奥から紙やらが飛んでくるのではないかと目をやるが、暗闇しか見えない。しばらくドアを抑えていると、やがてドアの向こうから吹いてくる豪風は収束した。また強くなるということはなさそうだ。弘は立ち上がり、乱れに乱れた髪型と崩れたスーツをぴしっと直す。
お色直しを終えた頃には、扉の向こう側が見えるようになっていた。どうやら元から暗かったらしく、奥に雰囲気のいい仄かな光を湛えたランプが唯一の明かりのようだった。雰囲気だけ見ればおどろおどろしく、とても中に入るのを許して貰えそうにない、入ったら出られなさそうな禍々しさだ。
「お客様ですかー?」
そこへ、小さな声が奥の空間で反響した。コツ、コツとこちらへ向かってくる早足な靴の音も聞こえる。この暗闇の館にはちゃんと人がいるらしい。それも、女性の声だ。
弘は一応冷静さを保った心持ちで声の主のお出迎えを待つ。5秒ほどドアの前で立っていると、段々と奥が明るくなっていった。やってきた女性は置かれているランプとは別のランプを持っているようだ。そして地下から階段を登ってきたわけではなく、同じ階の別の部屋から歩いてきたように見えた。次第に中の構造も露わになる。
パッと出てきた感想は、「アジト」であった。
ランプ以外は何も目につくものがなく、褐色の床と白い壁が支配する世界。ランプの光が少しだけ、その光景に温かみを加えている。
弘が観察に夢中になっていると、先程の声の主が目の前まで来ていた。明かりで色は判別できないが暗色の髪が肩より下に伸びており、弘の鼻の頭ほどの背丈で、大きなつり目が特徴の少女だった。制服を着ていることから中高生、恐らく見覚えがあることから近所の高校だということはわかるが、格好で年齢を決めつけてはいけないので、ここはとりあえず会釈する。
「あの、ここは一体?」
そう問いかけると、少女は途端に顔を緩ませて嬉しそうに答えるた。
「よくぞ聞いてくれました!」
待ってましたと言わんばかりに、テンション高く右腕を振り上げる。
「株式会社未来設計相談所へようこそ。街で白いチラシを見たでしょ?」
白いチラシ。それに聞き覚えのある会社名。
まさしく、階段を降りる前に拾ったチラシのことだ。
「このビルの前に落ちていたのを拾いましたけど、白い紙に黒い文字だけは怪しそうだったので止めようと思ったら操られるかのようにここへ来てしまったんです」
弘は洗いざらい経緯を話すと、残念そうに、少女が俯いた。
「あ、怪しいって……これでも頑張ったのよ!チラシ作り!確かに、イロがないとは言われたけど」
先ほどまで敬語だった口調が、憤慨とともにタメ口に変わった。ここは会社ではないのだろうか?一応、弘はお客様でこの少女は高校の制服を着ているが、社員なのだろう。お客様には敬語で接しろと教わらなかったのだろうか。しかし、今は少女の怒りを納めるのが先と判断した弘は、慰めの一言をかけようとするが、話をそらす方向に走る。
「まあ、チラシは個性が大事といいますし……。それよりも!未来設計事務所ってなんなんです?さっきも言ったように、行く気がないのにまるで連れて来られたような感覚なんですが」
「むう……それって褒めてるの?まあいいけど……」
少女は腑に落ちないという感じで、頬をふくらませつつも納得してくれたようだ。それにしてもこの子、初対面にも関わらず非常に慣れ慣れしい。個人の主観でしか話していないように見える故、社員にはとても見えない。更に少女は、態度を改めて続けた。
「コホン。失礼しました。連れて来られたんですよね。おそらく、惹かれたのだと思います」
「惹かれる?」
未来は一呼吸置いて、おかしなことを口にする。はて、あの扉になんのフェティシズムも感じなかったが、一体どのように自分をブラックホールのように吸い寄せたのだろうか。純粋に気になった。
「ここは、普通の人には見えないようになっているんです。端的に説明すると、心の奥底で無意識に考えていることが実現できず悩んでいる人、という条件でこの会社の入り口が目で認識できるようになっていて、そういう人を確実に招き入れるため、あのチラシには時の神様からかけてもらった魔法のようなものがかけられていて…」
「ちょっと、ちょっと待ってください。特別な人だけが見えるだの、時の神様だの話が全然理解できないんですけど」
摩訶不思議な単語の連続に弘は困惑し、何を言っているのか全く理解できなかった。
「すみません。自然では考えられないことだから、理解できないのも無理は無いと思います。今すぐ信じろとは言いません。ですが、ここに来てしまったということは、何かおっきな悩みがあるんじゃないですか?」
この少女はエスパーか何かだろうか。言われてみると、確かに弘は自分を陥れようとしている人間に仕返しする方法を考えるべく頭を悩ませていたことに間違いはない。
「確かにあります……チラシに『未来を変えてみませんか』とあったので、嘘でも惹かれてしまったかもしれない」
「なるほど。では詳しい話を伺いますから、まず中に入りましょう。ちなみに私は社長の柊未来です。今後、よろしくお願いしますね」
そう言って、社長の未来さんはニコっと微笑んだ。幼くても、社長という肩書きによる安心感があり、この人に任せてみようという気になる。もはや、この中に入ったら二度と出てこれないなどという恐怖心は消えていた。
それにしても、この子が社長なら、他の社員も学生なのだろうか。もしやとんでもない人たちなんじゃなかろうか。色々な疑問が沸き起こるが、まずは彼女に従おう。弘は招く手に導かれるまま、外開きのドアを閉めた。