第四話
絶望的とも言える書類の修正箇所の多さに、弘は早くも出鼻をくじかれた。
昼前に提出したばかりのできたてホヤホヤな書類だが、良くも悪くも、主観だけで人の提出物を良くあれだけ批判できるものだと、逆に感心する。ざっくり見ても30箇所はありそうだ。その殆どが、「言葉遣いを修正せよ」だの「自分の意見になっている。客観的に書け」だの、個人の主観を軸にした独りよがりのものばかり。よくもまぁこれだけ添削する暇があるものだ、とぼやきたくもなる。
とはいえ、仕事は仕事だ。部下は時に上司へ楯突くことも重要だが、波風を立てたくなければ金魚のフンのように後を付いて行くしかない。
弘は渋々机に戻り、篠原のしたり顔を思い浮かべながら、キーボードを少しばかり乱暴に叩き始めた。それを遠目で眺める篠原の顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
作業に飽き、弘は行きつけの休憩所へ足を運んだ。
弘の勤務する会社は、中心の中庭を囲むようにして建てられた長方形の屋舎で、中庭には芝生と中心に向かって下っていく階段があり、昼食にはもってこいなのだが、昼食後の清掃が面倒なのか何故か開放されていない。したがって社員は建屋のガラス窓からその様相を眺めるのみとなっている。休憩所というのは、この中庭がすっきり見渡せる2階の吹き抜け、渡り廊下のベンチのことで、大窓が壁となっていて気分転換にはもってこいの場所であった。決してサボっているわけではなく、あくまで気分転換である。
本日二本目の缶コーヒーだけを持って目的地へ辿り着くと、既に先客がベンチの右側にこじんまりと足を組んで座っていた。
「おーっす」
弘がそう呼びかけると、唯一無二の大天使であられるのどか様は浮かない顔を声の主に向けた。
「あ、弘くん」
「隣、座っていい?」
「ああ、どうぞ」
元々最小限のスペースしか使っていなかったのどかは自分の体型を考慮してなのか、更に右へ寄ろうとするのでまずそれを止めさせ、弘は左端に腰掛けた。別にそこまで気にする程太ってないよ、と言いたかったがその気遣いは女性にとってタブーであり、禁則事項だ。
お互い端に寄って座っているため、真ん中にはまだ一人入れるほどのスペースがあった。
「昼の元気はどこ行った?」
元気がなさそうなのを見兼ねて、弘が口を開く。
「う~だってぇ……」
対してのどかはいかにも機嫌が悪いという風で唸り声を上げる。会話に「だって」を用いるのはビジネスではご法度、つまりのどかはビジネスではない会話をしようとしていることが伺えた。
「課長が『最近太った?太った?』ってしつっこいの!しかも皆に聞こえる声で……これってセクハラだよね?弘くんもそう思うでしょ?思うよね?お願い、思って……」
「思う」の三段活用の後、怒りに満ち溢れていたのどかの声はしぼむ風船のように弱々しくなり、最後は自身ががっくりと項垂れた。
のどかは最近、上司からの間接的なセクハラに悩まされているのだという。確かに堪らない肉付きではあるがそれは茶化すようなものではなく、のどかのチャームポイントとして扱うべき点ではないかと弘は考えている。その上司の発言は一般的な女性に口にしてはならないものだということもわかる。
かと言ってぽっちゃり具合を褒めていいものかもわからず、弘は苦悩していた。頭の中からのどかを傷つける可能性の少ない単語をかき集め、なんとか発言できそうな一文を構成した。
「ま、まぁ直接言うのはひどいよな」
「そうだよ……女の子に体重のこと聞いちゃダメってお母さんから教わらなかったのかな」
「もうお母さんって年じゃないだろ……」
「それはそうなんだけど、あの頻度は流石にバカにされてるとしか思えない!訴える!」
「うーん……」
精一杯頑張ったつもりだが、頭ごなしに否定することくらいしか、かける言葉が見つからない。こんな事を話したいわけじゃないのに。のどかに見えないようにして、弘は苦い表情を浮かべた。これで好きでもなんでもない人が相手なら気にすることないよ、そのままのほうが合ってる、なんてくさい褒め言葉もかけられるのだろうが、嫌われたくないという条件が入るだけでこうも不自由になるものなのかと弘はうなだれた。
「……もしかして、最近この話ばかりで嫌だった?」
いつの間にか、顔を覗きこんでいたのどかが怪訝な表情で問いかけた。自らのパーソナル・スペースはそれなりに許容範囲が広く、今も極端に距離が近いわけでもなかったが、目の前の相手がのどかでは別の話だ。こんなにもすべすべできめ細やかな白い肌や大きめの垂れ目、控えめな口紅が塗られた物欲しそうにも見える唇に気づいた時には、弘の心臓は動悸でも起こったかのように激しく鼓動を始めていた。
「いやいやいやいや!んなことない!ただ、冗談とはいえ毎日のように言われるのも辛いだろうし、何か対策を講じたほうがいいんじゃないかと思って」
波乱混乱大氾濫の頭のなかで、無意識に出た言葉は意外と対応力に溢れていた。弘は自分で自分を讃えた。
「そっか……そう、なんだ。よかった……」
心底安心したように、のどかは胸を撫で下ろした。素っ気ない返事で嫌な思いをさせたのだと思ったが、どうやら違うようだった。しかし、そこでのどかは黙ってしまい、しばしの間が訪れる。
「薬袋さん?」
「あ!そうだ、対策の話だったよね!」
会話が切れることを嫌った弘が先に口を開くと、のどかも思い出したかのように我に返り、いつもの様子に戻っていた。
「そう、その話だ」
さっきの悲しそうな表情はなんの意味があったのだろうか。気が付くと今度はそのことばかり考えていた。時計を見ると、既に十五時を過ぎていた。かなり長く話し込んでいたらしいが、のどかのハエが止まって見えるほどののんびりとしたマシンガントークは冷めやらなかった。これは、絶対上司に何かしら言われるパターンだ。
結局この話は最後まで纏まることなく、世間話の後にお開きとなった。
今日のノルマを何とか定時内に終わらせ、最後の書類に印刷をかけて篠原に提出した。
たいそう残念そうな顔で「もう帰っちゃうのか~気をつけて帰れよ」と、どこの口がしゃべっているのか問い詰めたい一言を浴びたが、どこ吹く風と「お先に失礼します」の一言でそそくさと自席に戻る。どうせ提出したところで書類は正当に評価されないので、篠原にお願いしますと言う気にもなれなかった。
篠原が握りこぶしを机に振り下ろす音がすぐ後ろで聞こえたが、早いところ自宅に帰ることしか頭にない弘の耳には届かない。自席に戻ったのは、「一応」所属しているプロジェクトのチームの面々に挨拶するためだった。ブリーフケースを手に取り、周囲を見渡す。
「お疲れ様です」
普通の職場なら何気ない挨拶だが、返事は全く返ってこない。何かの宗教のように同じタイミングで弘の顔をちらと一瞥するだけ。すぐパソコンのディスプレイに視線を戻す。この会社が、もっと限れば弘を取り巻く環境だけが異常であることを何より物語っていた。慣れたはずのこの光景も、人の冷たい視線が不安を増幅させるものであることに変わりはない。
居心地が悪くなった弘は目をそらし、出口の扉へ向かった。
オフィスの建屋から外に出ると、想像していたよりも冷たい風が弘をかわすように吹き抜けた。気づけばもう10月も終わろうとしている。1年半という月日をここで過ごした事実は確かにあるのだ。
できれば、問題が解決した後もここで働きたい。弘はそう考えていた。
別に転職の難しさを自覚しているわけではなく、職場からの迫害がなかった頃の仕事が好きだったという単純な理由だ。特に起業などして自分のやりたいことがあるわけではない自分にとっては会社に留まるのは最良の選択肢だと思っている。
しかしながら、今計画していることは一歩間違えば露頭に迷うか実家に戻らざるを得なくなる。人間関係にも少なからず影響があるだろう。のどかとも、もう会えなくなるかもしれない。最悪、殺される可能性すらある。
次第に頭のなかがどす黒いもので覆われていく気がした。自分はとんでもないことをやろうとしているのでは、という恐怖から来ているのだろう。気が付くと、弘は体を震わせていた。
「いけない。いけない」
恐怖を振り払おうと、呪文のように同じ言葉を並べる。だが、それも晩秋の冷たい風が遠くへ運んでいってしまうようだった。手のひらで顔を何度も擦り、荒い呼吸をなんとか抑える。
いつもより更に重たい足取りでバス停につくと、既にバスが信号前まで迫っていた。待ち列に並ぶと、弘の後ろにも続々と人が長蛇を作り上げる。
ああ今日も満員だな、と周りに聞こえないよう小さく呟いた。