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(株)ミクジョ。   作者: 青髭 理希
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第三話

 やっと昼休みになり、弘は軽く伸びをした。アンケート結果の確認はまだ1割も進んでおらず、今日いっぱいまでかかりそうだ。最近はめっきり仕事も減り、職場ニートも同然なので逆に気持ちは楽だった。何もせず一日をす昼飯時が始まろうとしていたころ、弘のもう一つの希望がこつこつと忙しない足音を立ててやってきた。

「一ノ谷くーん、おまたせ~。遅くなってごめん!」

 失意の世界に咲いた一輪の花、薬袋みないのどか。

 弘の同期で、社内で唯一の「味方」と呼べる存在。入社以来、弘が社内いじめを受けるようになってからもなぜか献身的な態度で弘と話をしてくれる、言うなれば天使のような人だ。外堀だけ聞けば怪しい人で、スパイではないかと疑いたくなるような話だが、天使補正で相殺されている。と言うより、この人だけは信じたい、味方を一人でも作れればという弘の本能がそうさせているのだ。そんな荒んだ日常のオアシスに一男子が癒しを得られないはずはなく、もはや友人以上の感情を抱く相手に他ならなかった。ましてや、近場ではまともに会話する機会のある女性が彼女しかいないのだから当然と言える。無人島に男と女が一人だけいたら、アダムとイブのように結ばれるだろう。それと同じである。

 容姿は職場のマドンナ、とまでは行かないものの、少なからず確実に存在するニーズを捉えた、マシュマロのようなふんわりとした雰囲気。えくぼのある笑顔に、オリーブ色の髪は肩の少し下まで伸びていて、内巻きボブになっている。見ているだけで、聖母の腕に抱かれた赤子のような心持ちになる。実際、聖母のそれではないが、「むちむち」という言葉が似合う程度に二の腕や太ももの肉付きが良い。

 服装も書店でよく見るファッション誌に載っているような流行を、違和感なく切り取っているお洒落さんといった印象だ。今日はベージュのスカートスーツをその身に纏い、たいへん無防備なことにインナーから谷間が見え隠れしている。出るところがしっかり出ている彼女が着ると胸は勿論のこと、ヒップラインがまた、弘にとってはもはや歩く精力剤である。これ以上意識すると忘れかけていた性衝動に駆られそうなので、弘はのどかの御身を上から下まで脳内で舐めまわすと、きょとんとしているのどかの顔に目を戻した。はじめの呼びかけからだいぶ反応が無いため、少々困惑させてしまったようだ。

「だ、大丈夫だよ、いま来たところだから。今日はクライアントと打ち合わせ?」

 当たり障りのない話題を慎重に選びながらのどかに問いかける。この時も、噛んでないか、顔が綻んでいないか、しょうもないことを意識していた。

「うん。クライアントの役員さんが先輩を随分気に入ったみたいで、すっかり話し込んじゃって」

 のどかは反応が返ってきたことに安心した様子で、春のそよ風のように柔らかく、心の砂漠を満たす潤沢な声色を耳に刻む。

 自分が彼女の全てに余すところなく心酔していることを再確認した。

「それで終わるまで待ってたのか。納得」

 恥ずかしくて顔をつい逸らしてしまう。

「休憩時間短いし、そろそろ行こ?」

「だね。何食べる?」

 弘はあまり食に関心がなく、のどかに選択権を譲渡する。

「ん~」

 右手の人差し指を顎にあてるという今はあまり見られない女子特有の仕草をちらつかせ、十秒ほど長考した末。

「ラーメンがいい!」と答えたのだった。 

 弘の勤務する「株式会社ミヤビシステムソリューションズ」は、創業六十年の歴史を誇る業界最大手のIT企業「ミヤビ」の子会社だ。主に親会社で製造された電子機器、特にパソコンなどの基板(機械の心臓となる部分)を中心に、開発業とそれに関係する営業を行っている。基本、親会社の下請けというイメージが強く、過酷な労働環境に不平を漏らすものも少なくないが、生産ラインの大部分をこの子会社に任せている親会社が綺麗事を並べて宥めつつなんとかやっている状況だ。昔は沢山の協力会社から派遣社員が来ていたらしいが、最近になって上層部の理想と現場の折り合いがつかず、みるみるうちにやめていった。弘も以前、左斜め向かいに座っていた協力会社の人が待遇の件で上司と衝突し、逃げていったのを目の当たりにしている。経歴こそ察するものがある弘でも残業100時間は禁忌なレベルで、50時間すら超えたことはないし、休暇も適度に取っている。ここでは、そもそも期待されていないなんて可能性は考えないでおく。

 対して、第2営業部に属する薬袋のどかといえば弘が属する企画系の部署よりも更にヌルく、自分で案件をとりに行くようなことは殆ど無い。親の下請け事業が中心だからである。従って、営業部が動くときは親会社がここに案件を持ちかけるときくらいだ。それ以外は何をしているかというと遊んでいるわけではなく、なんとか自分たちで新しい事業をできないか模索中だそうだ。

 今日の打ち合わせも、営業部隊が独自に掲げている新事業を宣伝し代理店を獲得するため、売り込みメールに返事がきた会社まで出向いたのだそうだ。


「ほんと疲れたー。朝からお客さまと打ち合わせなんて初めてだったよ」

 足が床まで届かないラーメン屋の椅子で、ため息混じりにのどかが呟いた。足を小さくぱたぱたさせている様子はぶりっ子のそれだが、彼女に限っては素の行動だろう。だから余計にたちが悪く、女性に免疫のない弘は可愛い以外の感想が出てこない。こんなところで語彙力の低さが露呈したことに、弘は自分を呪った。

 それはともかく、相も変わらず足パタを止めないのどかとの会話に興じる。

「薬袋さんは立ってるだけだったの?」

「うん、私は先輩の補佐みたいな感じ?だから全然発言の機会ないんだ。先輩が修羅場を何度もくぐり抜けてきたような猛者だからむしろ私がお荷物な感じもしてるし」

「それじゃ居心地も悪いよなぁ」

「そうなのー!お客さんとお話できるようにとりあえず知識つけようと思って専門資格取ったりしてるんだけどね、いざという時にお客さんの興味を引くようなことなんて言えないというか、経験で埋めていくしかないのかなって…」

「まだ2年目なんだし、って言っててあっという間に3年目だもんな……でも仕事の要領は経験がものを言うし、難しいね」

弘がしょうがないという様子で答えると、のどかはいかにも不満そうに「う~」と唸って水を一気に喉へ流した。

 のどかとはこんな風に、弘とご飯を食べては仕事の悩みを互いに打ち明けたりする。至って普通の同期らしい関係だ。話し手は専らのどかで、弘は聞き手に徹している。もちろんその先も、という思いはあるのだが、弘が意識しすぎて攻めに転じることができない部分と、のほほんとしていて、温和な性格からは想像もつかない程、自分への好意に敏感で鉄壁だということだ。

何故そんなことを知っているのかを説明するには少々長くなるのだが、同期同士でディズニーリゾートへ行った時に別の同期がのどかを引き連れて輪から離れていたのに気づき、探していたらイタリア街で告白の一部始終を覗いてしまったことからだ。罪悪感よりも、のどかの気持ちが知りたいという衝動に駆られた弘は隅で立ち尽くし、そのやりとりを見届けてしまったのだった。真顔で「私はあなたを好きになることはないから~」と言われた時のそいつの凍りついたような顔は忘れられない。それ以来、のどかと恋愛沙汰になってはいけない、彼女は極寒の地で刃をかざす女騎士のように冷徹で付け入る隙は全くない、という認識が同期の間で定着してしまった。


「ネギとんこつとミニとんこつ、お待ち」

 昔の記憶に浸っていると、ラーメン屋の店主が威勢のいい声でどんぶりを目の前においてくれた。流れるような動きですぐさま調理場に置いてあるのどかのラーメンも手に取り、彼女の目の前にやってきた。店主は強面に似合わず静かに丼を置く。きっと、麺だけでなく道具にも愛着があるのだろう。少々店は古臭いが、自分の城の全てを大事にする店主の心構えが、弘はとても気に入っていた。

 さて、待ちわびたメインディッシュを啜る。ここのお店はとんこつラーメンが一番の売りで、他の種類のスープは出していない。麺の硬さも幅広く、柔らかめから粉落としまで多様にあり、トッピングもメインのメニューより多いため、毎度毎度違う組み合わせができるので飽きが来ない。

「う~ん、疲れた時はやっぱりこれだぁ~」

 運動後にポカリスエットを飲んだような顔で、のどかが安堵の声を漏らす。こうして普段の姿を見ている分には彼女はとても魅力的で、冷酷な側面をうっかり忘れると好意が露骨に出てしまう。いや、女騎士は馬を気分で乗り変えることはしないので(多分)、むしろプラスポイントなのだが、氷の刃に突き刺された同期のようになりたくはない。切り札はきたるべき時がくるまで取っておこうと決めてある。


 弘はしばしの間、のどかとの何気ない会話で午後への活力を養った。

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