雨乞い町の検査日 ——陽性は神意、陰性は無礼
雨乞い町の検査日
—陽性は神意、陰性は無礼—
一
除湿機の唸りが、判定窓の沈黙を撫でていた。
三浦は検査紙を指でつまみ、蛍光灯に透かす。濡れた白が乾ききらない。薄い紙のなかで滲んだ線が、まだ現れ切らずに眠っている。
「ここは湿気ますから」
背後で凪沙が笑った。廊下のしめ縄がわずかに揺れ、雨の匂いが入ってくる。診療所の古い木枠の窓は、はめ込まれた擦りガラスのふちから、細かい水の粒をほんの少しずつ吸っているように見えた。
「乾かないのは湿度のせいじゃないです」
三浦は言いかけて、言葉を飲み込む。赴任一日目の地方外郭団体の調査員が、地元の非常勤保健師に意地を張るのは賢い選択ではない。彼女の名は凪沙。都会で看護師をやっていたが、体調を崩して故郷に戻ったという。
「手順は、読み上げたほうがいいですよ」
凪沙が言う。検査台には、ビニールでコーティングされたカードが立て掛けられていた。「採取のまえに」「採取のあとに」「判定をまつあいだ」「読み上げ」——手順が箇条書きで並ぶ。どの行にも小さく、ひらがなのふりがなが施されている。なぜだろう、と三浦は思う。誰でも読めるように。あるいは、誰でも唱えられるように。
「唱える?」
「ここでは、そう言います」
凪沙は微笑んだ。彼女の声は雨よりも柔らかい。
「それから、これ」
彼女が指差したのは検査キットの箱の裏に貼られた小さな紙片だった。白地に薄い墨色で、見慣れない符のようなものが印刷されている。古びた冷蔵庫の扉にも同じ紙が磁石で留められていた。冷蔵庫は検査試薬の保管に使われている。扉の上のところに、しめ縄が掛かっているのを三浦はもう何度も見ていた。
「医療と祭祀のミックスってやつか」
「合理化の名で覆った祝詞、って感じです」
凪沙が肩をすくめた。軽い動作なのに、そこに溜められた年月の重さがわずかに鳴る。
雨乞い町。地図では正式な町名ではないが、地元はそう呼ぶ。山に囲まれた小さな盆地で、毎年、梅雨入り前に「検査日」を設ける。自治体から配布される感染マーカーの検査を、住民全員が、同じ一日で受けるのだ。奇妙なのは、その日だけ異常な陽性率を叩き出すことだった。県の担当者は、過誤か手順の問題だろう、と言っていた。だが過去三年、同じパターンが続いている。
「なにより不自然なのは、翌日に雨が降ることだ」
三浦は手帳にメモしながら、声に出して言った。声に出すと、言葉が自分の耳にも跳ね返ってくる。ここでは、それが妙に効いた。
「読み上げ、お願いしますね」
凪沙はカードを指で押さえ、ゆっくり読み始める。採取のまえに、手を清める。採取のあとに、手を合わせる。判定をまつあいだ、息をひそめる。読み上げは、静かに。
三浦は不覚にも、背筋がこそばゆくなるのを感じた。命令ではない。お願いでもない。これは共同のリズムの提示だ。
「昼には町会の人が来ます。検査の“読み上げ”の時間を決めたいって」
「読み上げの時間?」
「結果を読む時間です。時間で濃さが変わるって、皆さん信じてますから」
馬鹿げている、と言い切るには、まだこの町の空気を吸い足りない。
三浦は濡れた紙を見つめた。乾かないのは湿度じゃない、と喉の奥で繰り返しながら。
二
昼前、浜野と名乗る農協上がりの町会の顔が来た。肩口まで濡れた合羽を脱いで、白シャツの袖をきっちりまくる。
「今年もお願いしますよ、検査のこと」
「こちらこそ、手順の確認がしたいのですが」
三浦は丁寧に笑って、カードを示した。浜野の視線が一瞬、冷蔵庫のしめ縄と札に滑る。すぐに元の表情に戻り、「読み上げ」の項を指で叩いた。
「これを、地区ごとに時間をずらしてやるんです。上の段の家は十時、下の段の家は十時半、外縁の畑のほうは十一時。去年はそれでうまくいきました」
「うまくいった、とは?」
「線が濃く出た。雨がよく降った」
浜野の声は平板だが、奥に揺るぎがない。三浦はペン先を止める。揺るぎのない声ほど、調査員には危険だ。検証よりも記憶を選ぼうとする意志の音が混じるからだ。
「結果の濃さと、降雨の相関はデータで見ても——」
「データで見ても、相関はあるんじゃないですか」
浜野は笑った。数字が嫌いなわけではない笑いだった。数字を自分たちの側に置く術を知っている人間の笑いだ。
「去年、一昨年、その前の年。検査の読み上げが終わった翌朝に、必ず雨が来た。しとしとでいい。何日かに分けて、田が泣き止むくらいに降る。昔は違った。昔はね、誰かを山にやってた」
誰かを山にやる——言葉の角が、ぬかるみに沈む。凪沙がほんのわずか息を呑んだ。
「今は、誰もやらない。それで、助かってる」
「検査で、助かってる?」
「昔のやり方じゃない。今のやり方で。死人は出ない」
浜野は「死人は出ない」を二回言った。重ねて言う言葉は、町の自信でもあり、恐れでもある。何度も確認したいことは、何度も言われる。自分たちのやり方が、人を殺さないという確認を、彼らは毎年しているのだ。
午後、地区診療所には住民が列を作り始めた。膝の悪い老人、泥のついたズボンの若者、麦わら帽子の女性。順番に凪沙が誘導し、手順カードを一緒に読み上げる。採取のまえに、手を清める。採取のあとに、手を合わせる。判定をまつあいだ、息をひそめる。読み上げは、静かに。三浦は最初、心のなかで「声に出せばリスクコミュニケーションが円滑になる」と合理的な解釈を纏わせていた。だが、三人、五人、十人と繰り返すうちに、別のリズムが耳に残り始める。祝詞のような、呼吸のような、雨だれのような。
判定は、読み上げの時間に合わせて行われる。紙が乾く速度は人により違う。けれども、時間になれば、濃い薄いに関係なく、読み上げる。百合江という古参の看護師が、古びたベルを鳴らしながら、名を呼ぶ。
「田中さん、陽性。佐伯さん、陽性。向井さん、陰性」
陰性のときだけ、わずかなざわめきが起きる。陰性はよいことだと都会で育った耳は言う。ここでは違う。陰性は、「雨の供え」に加われない印だ。目に見えない共同の机に、皿が一枚欠ける。翌日、読み上げられるのは陽性者の名だけだ。
「陰性の人には、何が起きる?」
三浦は凪沙に尋ねる。彼女は視線を落とし、手元のアルコール綿を丁寧に畳んだ。
「すぐには、何も。配送が遅れたり、共同作業に呼ばれなかったり。ささいなことがたくさん」
「それは罰だ」
「皆さんは、罰とは言いません」
凪沙の声は少し硬くなる。
「“まだ同意が整っていないだけ”って言います」
同意。ここでその言葉を聞きたくなかった、と三浦は思う。同意は彼の専門であり、弱点だ。都会の大病院で、同意書が形骸化していることを徹底的に嫌い、研修医時代から何度も噛みついてきた。読まれない同意、署名だけの同意。署名は濡れても乾く。だが、ここでは、乾かない。
三
夕刻、古い冷蔵庫のモーターが唸り、室内の空気が一段重くなった。百合江が扉を開ける。扉の裏側にも、あの札が貼ってある。薄墨の記号は、水に触れると濃くなる紙に印刷されているらしく、すこし波打って見えた。
「紙、濡らしてませんか」
三浦は何気なく聞いたつもりだった。百合江は「濡らすのは悪いことかね」と問い返す。
「悪いとかではなく、手順に含まれていないので」
「手順は、言葉でできた手だよ」
百合江は札に触れ、軽く撫でた。撫でる仕草は、看護師が患者の肩に置く手と似ている。触れることで鎮まるものと、触れたら濃くなるものが、ここには混ざっている。
「紙は湿っているほうが、素直だ」
「反応が過敏になる」
「そうだね。過敏なら、見落とさないだろ」
見落とさないために過敏にする。医療現場でもしばしばある発想だ。そして、過敏はしばしば偽陽性を増やす。偽陽性が増えれば、陽性者が増える。陽性者が増えれば——翌日の読み上げの名前が増える。
「うちの町ではね、みんな“陽性”になりたがるのさ」
百合江は静かに言った。
「陰性は、無礼だから」
三浦は、カードの「採取のあとに、手を合わせる」を思い返す。祈りの手つきだ。検査のあとに手を合わせるのは、手順の一部であると同時に、同意の仕草でもある。そこに参加することで、町の机に自分の皿を置く。皿に載せるのは、名前だけ。血や肉ではない。だが、名前は、社会における肉の別名だ。
夜、凪沙と診療所を出ると、薄く冷たい霧雨が降り始めていた。街灯が少ない町道に、虫の音が濃い。遠くで犬が吠える。雨は、まだ本降りではない。
「明日は“読み上げ”の焚き場に行きます」
凪沙が言う。彼女の傘の布は薄く、雨粒が上に溜まるのが目に見えた。
「参加するのか」
「同行です。参加はしません」
「どう違う?」
「参加は、名前を置くこと。同行は、見に行くこと」
曖昧さの上に橋を掛けるような定義だ、と三浦は思う。ここでは曖昧さに名前をつける。曖昧さに名前がつくと、曖昧さは曖昧さのまま保存される。保存された曖昧さは、共同体を長持ちさせる。
「三浦さん、明日、ご自身の検査も出します?」
凪沙は歩きながら言った。彼女はわずかに早口になる。慎重に触れるべき場所に差し掛かったのだろう。
「もちろん。調査員の中立性を示すためにも」
「そうですか」
凪沙は傘の骨を少し握り直した。その音は、小さな鈴のようだった。
四
翌朝、曇天。焚き場は町の外れ、川に近い小さな広場にある。丸く組まれた石の内側に灰が溜まり、中心に錆びた金属の皿が置かれている。皿の上に、昨夜からの雨で湿った灰が薄く貼り付いている。誰かが柄杓で水をかけたらしい痕も見えた。
大崎宮司が到着する。彼は雨乞い社の神職で、穏やかな口ぶりが耳に気持ちよく残る人だった。祭服ではない、普段着に近い羽織を着ている。浜野と百合江が挨拶し、三人で短く言葉を交わす。彼らの会話は、見られることに慣れている。見られてもいいところだけが、滑らかに動く。
「それでは」
大崎が皿の横に立ち、紙束を持ち上げる。昨夜、診療所で読み上げられ、陽性と判定された者の名が一枚ずつ書かれている。紙は薄いが、水をよく吸い、燃えるときに白い煙を出す。大崎は、淡々と、名前を読む。読まれた紙は、皿の上に置かれ、火をつけられる。火は、小さく、濡れた木綿のように燃え、白い煙を上げる。煙は、空に吸い込まれる。薄い雲の色は変わらない。
「煙が呼ぶのです」
大崎は誰にともなく言った。
「煙は、名前のかたちです」
「人身御供の変形ですね」
三浦はわざと冷たい言い方をした。彼は自分の冷たさを、時々使う。相手がどこまで温度を下げられるかを確かめるためだ。大崎は首を傾げる。
「昔は、山にやっていた。今は、名前を空にやる」
「同意は、ありますか」
「誰の?」
「名前の持ち主の」
大崎は少し笑った。その笑いは、雨粒が葉に当たって跳ねる瞬間のように短かった。
「ありますよ。昨夜の検査で」
「検査は、同意ではない」
「ここでは、同意です」
そのやり取りを、浜野と百合江、凪沙が聞いている。誰も割って入らない。町は、町の代表する言葉に誤りがないかを、内部で検閲しているのだろう。間違えないように、言葉は簡素だ。簡素な言葉は、勘違いを含む余地を減らし、しかし意味の厚みを保つ。
読み上げは終わり、皿の灰は温かいだけになった。空は変わらない。だが、誰も焦らない。焦りは神を急かすことだ。急かすのは無礼だ。町は無礼を嫌う。陰性と同じくらい。
「あなたのは、どうでした」
凪沙が小声で尋ねる。三浦は昨日の自分の検査紙を思い出す。判定窓は曖昧だった。線が、出るか出ないかのところで、乾きに負けた。
「曖昧。無効判定にした」
「そうですか」
凪沙の顔に、影が一瞬走る。無効は、ここでは陰性よりも扱いが悪い。「まだ同意が整っていない」にも含まれない。机の脚そのものを否定する行為に近いからだ。
「もう一度、受けてください」
凪沙は言い、こちらを見ないまま、歩き出した。
五
午後、診療所の空気は昨日より濃かった。湿度の数字は変わらないのに、紙が重い。三浦は自分の検査を、凪沙に採ってもらう。手順カードを、お互いに読み上げる。採取のまえに、手を清める。採取のあとに、手を合わせる。判定をまつあいだ、息をひそめる。読み上げは、静かに。
声に出すたびに、言葉が体内のどこかに引っかかって、しおりのように挟まっていく。言葉は、手の代わりになる。言葉で触れる。触れたところに、痕が残る。
「ちょっと失礼」
百合江が近寄ってきて、三浦の検査紙を覗き込む。紙の端に、何かが滲む。濡れている。三浦は眉をひそめる。
「紙、濡れてますか」
「濡らしたのは、わたしじゃないよ」
百合江は言い、冷蔵庫の扉を軽く叩いた。扉の札が、微かに揺れる。揺れると、札のうえの薄墨が、光の角度で濃く見える。水ではなく、光で濃くなるという錯覚。光もまた、濡れの一種だ。
判定の読み上げの時間が来る。ベルが鳴る。名が呼ばれる。三浦の名は、本来は呼ばれない。調査員は対象外だ。だが、百合江は紙束の最後に、もう一枚の紙を挟んでいた。大崎が、何も言わずに受け取る。
「三浦真、陽性」
その瞬間、室内の空気の密度が変わった。誰も驚かない。誰も笑わない。誰も拍手しない。空気だけが、安堵した。安堵は、共同の深呼吸だ。深呼吸は、雨の前触れに似ている。
「待ってください。これは手技の問題です。紙に水が——」
三浦は言いかけて、凪沙の視線にぶつかった。凪沙はほんの少し、首を振る。その動きは「ここでは言うな」という意味でもあり、「わたしはあなたに恥をかかせない」という意味でもある。二つの意味が一緒に届くと、言葉は遅れる。
「明日の読み上げに、あなたの名前も出ます」
凪沙がそっと言った。良かった、と彼女は言わない。良かった、はここでは禁句だ。雨乞いは、喜びの手前で止まる儀式だ。喜びは、神の領分だ。人が先に言ってはならない。
六
夜、町の空は低く、静かだった。風がない。遠雷もない。音のない期待が、水平に広がる。三浦は宿に戻らず、川沿いを歩いた。川の水は少ない。岩が露出し、苔が乾いている。ここに雨が落ちるときの音を、彼は想像しようとする。音を先に想像してしまえば、雨が来ないときの静けさが余計に堪える。
スマートフォンの画面に、県庁の人間からのメッセージがいくつか溜まっている。「陽性率について」「メディア対応」「手順の逸脱があれば是正を」。三浦は返信しない。返信は言葉だ。今、彼は言葉を使いすぎた。今日の読み上げで、自分の名前が紙になったとき、言葉は手から離れた。紙は燃える。燃えた紙は煙になる。煙は雨雲の腹に触れる。腹に触れたものは、下に落ちる。そんな図式が、自分の思考の奥で勝手に組み上がっていく。
足音が後ろから近づく。凪沙だ。
「怒ってます?」
「なにに」
「わたしに」
「怒ってない」
嘘ではない。怒りは、誰かが故意に自分を損なったときに生まれる。ここでは、故意という言葉が意味を失う。町は、誰か一人の故意では動かない。
「紙、濡らしました?」
「濡らしてません」
凪沙は、川面を見た。水は黒い。黒い水は空の色を飲んでいる。
「じゃあ、誰が」
「手順です」
彼女の言い方は奇妙だった。誰が、の問に、何が、で答える。
「採取のまえに、手を清める。採取のあとに、手を合わせる。判定をまつあいだ、息をひそめる。読み上げは、静かに。——これ、何回、言いました?」
「数えてない」
「十五回です。三浦さんは、十五人分の手順を、いっしょに読みました。言葉は、手の代わりです。言葉で、紙に触れたんです」
彼女は立ち止まる。三浦も止まる。川の向こうに、暗い田が広がる。田は、空を見上げるために地面にはりついている鏡だ。鏡は乾いている。
「言葉が署名になった」
「そういうことに、ここではなってる。あなたの“合理”では、違うでしょうけど」
「違う。でも、違うと言い切る根拠が、今、手から滑っていく」
三浦は笑った。自嘲の笑いではない。自分の中の道具箱にない形のネジを見たときの、職人の笑いだ。うまく回せない。けれど、それはネジだ。回れば、何かが締まる。
「明日、雨が降ったら、あなたはどうします」
凪沙が問う。問うというより、つぶやきの輪郭を与える。
「報告書に“降った”と書く」
「それで、終わりですか」
「終わらない。始まる」
彼は、自分でも意外な言葉を口にしていた。始まるのは、報告書と町の言葉の行き来だ。言葉は行き来のなかで変形する。変形した言葉は、別の町へ運ばれる。儀礼は広がらない。伝染病のようには。だが、考え方は、風のように渡る。
七
翌朝、雨は降った。夜明けと同時に、静かに、ためらうように、しかし迷いはなく。屋根を打つ音が柔らかく、土を叩く音が低い。川はゆっくり太り、田は瞬く間に鏡に戻る。鏡の上に、空が増える。増えた空を、鳥が横切る。
焚き場では、読み上げが続いていた。昨日、陽性とされた名が、紙になり、火になり、煙になる。大崎は、淡々と読む。浜野は、紙を渡す。百合江は、火を加減する。凪沙は、三浦の隣に立つ。誰も多くは語らない。雨の日は、言葉が短くなる。長い言葉は、雨に溶けて形を失う。
「三浦真」
大崎が読む。紙は皿に置かれ、火がつけられる。燃えた紙は、白い煙を立てた。煙は、すぐに雨に揉み消され、見えなくなる。見えなくなったものは、なかったことになるのか。ここでは、ならない。見えなくなっても、あったことのほうに、町は身体を寄せる。
「これで、あなたも町の皿に名前を置いた」
凪沙が言う。彼女の声は、雨の膜に包まれて、少し鈍くなっている。
「置いた覚えはない」
「置いた覚えがない同意は、同意じゃない。都会ではそうでしょう。でも、ここでは、違う」
「違いを、どうやって架ける」
三浦は雨を見上げた。雨粒が睫毛に触れ、目の前の景色がリセットされる。毎秒、新しい世界が配られてくる。そのたびに、世界は少しずつ、濡れていく。
「手順を、翻訳する」
彼は言った。自分が何を言っているのか、半分しかわからない。半分わからない言葉のほうが、ときに遠くへ届く。
「翻訳?」
「採取のまえに手を清める、は、同意の前に説明を尽くす。採取のあとに手を合わせる、は、同意のあとに共同で確認する。判定をまつあいだ息をひそめる、は、判断の時間を尊重する。読み上げは静かに、は、結果の伝達を非公開とする。——そう訳せる」
凪沙は、少し笑った。その笑いは、救いでもあり、起点でもある。
「訳したら、雨は降りますか」
「降らないかもしれない。降るかもしれない。——でも、降っても降らなくても、誰も山にやらない」
「わたしたちは、もう山にやらない」
凪沙の言葉は、町の中心から外へ向かう矢印のように、しっかりしている。
その日、雨は夕方まで降り続けた。川は、際まで来たが、溢れなかった。田は満ち、畦は黒く光る。町は、いつものように、静かに動いた。陰性だった者は、配送を待った。陽性だった者は、焚き場の灰を片付けた。誰も、誰にも、ありがとうと言わない。ありがとうは、雨の領分だ。
夜、宿に戻ると、スマートフォンが震えた。県の担当者から、会議の日程。メディア対応の依頼。陽性率の異常についての資料要求。三浦は机に紙を広げ、ペンを取る。言葉を、手に戻す時間だ。手順を翻訳する。翻訳は、儀礼を壊すためでなく、儀礼の芯を別の言葉で守るために。
「乾かない紙」
彼は書いた。導入の小見出しだ。紙が乾かないのは、湿度のせいではない。紙が乾かないのは、誰かが濡らしたからでもない。紙が乾かないのは、言葉が濡れているからだ。言葉が濡れている町では、検査は同意になる。同意は、雨になる。雨は、倫理を濡らす。濡れた倫理は、形を変え、別の町へ流れていく。
窓の外で、雨が止んだ。止む音はない。止まったあとに残るのは、滴りの音だけだ。滴りは、世界の末端から落ちる。末端は、始まりでもある。
翌朝、晴れた。空は洗われたように薄い。町は、何事もなかったように見えた。何事もなかった、は、何事かがあった、の別名だ。三浦は診療所へ向かった。凪沙が、入り口に立っていた。彼女は紙袋を差し出す。紙袋のなかには、昨夜の焚き場の灰が少し入っている。
「持っていってください。報告書に、灰は要りませんけど」
「灰は、どこに置けばいい」
「好きなところへ。机の引き出しでも、ゴミ箱でも。そこが、あなたの町です」
彼女はそう言って、背を向けた。背中は、小さく、強かった。
三浦は紙袋を受け取り、診療所の古い冷蔵庫を見た。扉のしめ縄と札。札は、雨で少し波打っている。彼は扉を開け、中の試薬を確認し、扉を閉める。札が、微かに揺れる。揺れは、合図のようで、合図ではない。
町を出る前に、雨乞い社に寄った。鳥居は低く、苔が厚い。拝殿の前に立ち、手を合わせるかどうか、ほんの一秒迷った。迷いの一秒は、手順のどこにも書かれていない。書かれていないものは、たいてい大事だ。彼は、手を合わせなかった。合わせない手は、無礼かもしれない。だが、自分の町に持ち帰るべき手は、今は閉じておきたかった。
車に乗り、山道を下る。ラジオは天気を告げる。広い地域にわたり、恵みの雨が降った、と。恵み、という言葉は、誰のものでもない。だから、誰のものにもできる。町は、恵みの言葉を、毎年、湿らせては乾かしている。
ふと、助手席の紙袋から、灰の匂いが立つ。灰の匂いは、雨の匂いに似ている。いや、雨の匂いが、灰の匂いに似ているのかもしれない。順番は、どちらでもいい。順番に意味を与えるのは、読み上げる声だ。
「読み上げは、静かに」
三浦は小さく口の中で言って、アクセルを踏んだ。舌の上で言葉が濡れ、喉の奥へ滑り、胸のどこかに仕舞われる。仕舞われた言葉は、いつか、別の町で、別の紙を濡らすだろう。乾かない紙は、どこにでもある。乾かない紙が、世界を少しずつ繋いでいく。
——終——




