【秋の文芸展2025】星になった友に、今日も返事を書く。
この街には、夜空へ手紙を流す文化がある。
名前は「星郵便」。ポストは星形の口をしていて、切手には穴があいている。投函すると、紙は光を吸ってふくらみ、夜風に乗って小さくなる。翌朝、宛名の星に届くという。
説明書には、ていねいな字でこうあった。
〈生者から死者へ――片方向〉。
片方向と書く時点で、世の中には回らない歯車がたくさんあるのだとわかる。
灯は、毎夜ポストへ通った。
宛先は、事故で亡くなった親友・湊。便箋は薄く、線は淡く、手は、慣れでよく動いた。
きょうは体育で転んだ。笑ってくれる君がいないから、痛みは静かだ。
帰りにラーメン屋の前を通った。メンマを一本だけ君の分、頼みそうになった。
あしたの天気は、どうでもいい。
それでも、君に知らせておく。
――灯
切手は「星一等・私信用」。店で買うと、店員は必ず「ご愁傷さまです」と言うが、顔は明るい。文化は、明るくないと続かない。
灯は一度も、返事をもらったことがない。そもそも片方向なのだ。だが、人は片道切符を持っていても、改札の先でふり返る。ふり返る先に誰もいないと、もう一度ふり返る。
ふり返る回数は、だれも数えない。
*
ある朝、家のポストに一通の封筒が入っていた。白くて、薄い。宛名は、灯。差出人は、湊。
灯は、封を切る前から手が震えた。紙が鳴った。
灯へ。
この手紙が届くころ、君は相変わらず“メンマを一本落とすふり”をしているだろう。拾う人がいないのは、君が落とすのが上手だからだ。
体操服の膝の砂は、なかなか落ちない。水で流すと余計に目立つ。
君の「どうでもいい」を、僕はどうでもよくない。
続けて書いてくれ。読むのに少し時間がかかるけれど、読めばたしかに「君」がいる。
――湊
灯は笑って、次に泣いた。
返事は来ないはずだ。説明書にはそうある。星郵便は、生者から死者へ――片方向。
灯は封筒をひっくり返した。裏には、星郵便局の赤いスタンプが押されている。
〈返照便〉
見慣れない字だ。
灯は制服のポケットから定期券を取り出し、急いで駅に向かった。電車の中で、誰も彼女の肩にぶつからない。これは偶然だ。偶然は、丁寧に並ぶと、ルールに見える。
星郵便総合窓口は、市役所の隣にある。ガラス張りの広いロビーに、夜の星座の写真が並ぶ。番号札を取ると、三秒で呼ばれた。
窓口の職員は、星の形のネクタイピンをしている。笑うのが上手い。
「返事が、届いたんです」
灯は封筒を置いた。職員は、封筒を電子台に載せた。
「確認いたします」
画面に、線と点が現れた。脈拍のような光が、横に流れた。職員は、明るい声で言った。
「返照便ですね」
「返照便?」
「はい。生者から死者への私信に、反射で返る一回限りの便です。星の側で、条件がそろうと開通します」
「……返ってくるのですか。片方向なのに」
「はい。片方向の、向こう側からの光の返りです」
灯は、首をかしげた。
「私が、書いたから?」
「書いたからです。そして、届いていたからです」
職員は、画面のテキストを指さした。透明な字だった。
受取人:灯
差出人:湊(生者)
配送経路:地上→星籍→地上(返照)
注意:返照便は受取人が死者の場合にのみ開通します。
灯は、笑い方を忘れた。
「差出人が、湊。生者」
「はい」
「受取人が、私。死者」
「システムは、そのように認識しています。星籍の登録が未完了のため、地上の住所にも配送されました」
職員は、ごく自然な調子で書類を差し出した。
「亡くなられた方の利用案内です。仮登録を本登録に切り替える手続きがございます。お名前と、ご逝去日を」
「待ってください。私は、生きています」
「生きていらっしゃると感じているのですね」
職員は、声を変えなかった。
「星郵便は、感じではなく、登録で動きます」
窓口の奥では、星の写真が静かに光っている。
灯は、椅子に座った。座ってから、立っていたことに気づく。
「事故の日……」
「はい」
「あの交差点で、私は、渡った」
「渡られました」
「車が来て、止まって、運転手が青い顔をして、誰かが救急車を呼んで、私は――」
その先の文は、口の中にあって、外に出てこない。
職員は、文の続きを持っているみたいだったが、言わなかった。
「星籍にお名前は入っております。未確定のままですが」
「だから、手紙が届く」
「届きます。生者から死者へは片方向。死者から生者へは原則不可。ただし、いまお手元にある返照便は、『受け取れる側がだれか』を示す、と解釈されています」
灯は、封筒を持った。手は新しい紙の匂いがした。
「死んだ君が、まだ私を励ましてくる」
昨日までの自分の言葉が、耳の奥で砕けた。
「死んでいたのは、私」
「そう受け取られる方が、多いです」
職員は、鉛筆で案内の一行をなぞった。
「返照便は一度だけ。死者側から生者へ短い返事が送れます。字数は、星の明るさ次第で、五十字以内」
「五十字」
「はい。句読点は字数に含みません。顔文字は、星の都合で正しく表示されないことがあります」
細かい。細かさは、世界の綻びを見えなくする。だが、今は、その細かさがありがたかった。
「送ります」
「承知しました。便箋はこちら。返照切手は光沢銀です。貼ったあと、息を一度吹きかけてください。温度が必要です」
灯は、机に向かった。便箋に、光沢がさざめく。
ペン先は、意外に落ち着いていた。五十字。
たくさん書くのは簡単だ。少しだけ書くのは、むずかしい。
灯は、二行でやめた。
大丈夫。
きょうも、行ってらっしゃい。
封をして、切手に息を吹きかけた。銀が淡く曇り、すぐに消えた。
職員は封筒を受け取って、目を細めた。
「いい文です。よく届きます」
「どうしてわかるんですか」
「五十字の文は、重心でわかります」
職員は、投函口の小さな星へ封筒を差し込んだ。光が、ほんの、ひと呼吸ぶん、強くなった。
「手続きについては、どうされますか」
「何の」
「星籍の本登録です。こちらで、仮から本へ。星郵便の受け取りは安定し、地上配達は停止します」
灯は、考えた。
「停止したら、湊からの手紙は、家のポストには届かない」
「はい。星のほうで受け取られます。確認は星閲覧室で可能です。予約制です」
「予約……」
灯は、封筒の匂いを嗅いだ。紙の匂いは、生きていても死んでいても同じだ。
「もう少しだけ、家で受け取りたい。湊の字が、廊下に光るのを見たい」
「承知しました。猶予期間を設定します。二週間。二週間の間は、地上配達を続け、それ以後に星配達へ切り替えます。よろしいですか」
「はい」
職員は、端末を操作した。
「二週間後に、メールでお知らせします。地上メールにしますか、星メールにしますか」
「地上で」
「承知しました」
職員は、最後に二枚の紙を差し出した。
「亡くなられた方の手帖と、残された方への手帖です。後者は、宛先が湊様になっています。お渡しされますか」
「渡せますか」
「地上にいるかぎり、どなたでも」
「では、渡します」
*
駅からの帰り道、灯は、歩道橋の上で立ち止まった。
見下ろすと、交差点がある。横断歩道は、白い帯が少し擦り切れている。
信号が青になり、人が渡る。灯も渡る。
車が来る。止まる。運転手は、緊張した顔だ。
渡りきる。
当たり前の一連の動作に、自分が含まれていないように見える瞬間がある。
それでも、足は動く。
文化は、足で続く。
家に戻ると、ポストに二通の手紙が入っていた。
一通は、市役所から。もう一通は、湊から。
湊の字は、ふだんの湊の字より、少し整っている。たぶん、何度も書き直している。手紙は、相手に届く前に、書いた人を整える。
灯へ。
返事が来た。五十字ぴったり。
「大丈夫。きょうも、行ってらっしゃい。」
これで二十四時間は、僕は大丈夫だ。
この一行の重さで、通勤電車に立てる。
何回も読み返す。行ってきます。
――湊
灯は、手紙を廊下の光に透かした。光は言葉を薄くし、意味を濃くする。
封筒に手を伸ばしながら、ふと思った。
私が書き続けていた手紙は、だれが読んでいたのだろう。
湊からすれば、反対側だ。彼は、生者。私は、死者。
星郵便は片方向。灯の片道は、反対に向いていた。
それでも、毎夜書いていた紙は、ポストへ消えていった。
星は、両側にある。
どちらの側にも、紙の匂いはある。
台所の戸棚を開けると、書きかけの便箋の山があった。薄い紙が、薄く息をしている。
灯は、便箋を一枚抜いた。
今夜も書く。
片方向に向けて。
片道は、帰り道のことまで含んでいる。
湊へ。
星郵便に行った。返照便の仕組みを教わった。
君が書いた返事を、私は受け取れる側だった。
変だと思うかもしれないが、私は、落ち着いている。
君の「行ってきます」が、毎日届く。
私はここで「行ってらっしゃい」を書く。
――灯
切手を貼って、息を吹きかける。星切手は、死者の息にも反応する。郵便は、差別しない。差別しないものは、ときどき、区別もできない。
その夜、灯は眠れなかった。
眠れないとき、人は、天井の亀裂に見取り図を探す。
天井は図面ではない。
星は図面でもあり、受付でもある。
*
翌朝、窓の外が明るくなった頃、玄関のチャイムが鳴った。
出ると、星郵便の配達員が立っていた。帽子に小さな星のバッジを付けている。
「お届けものです。残された方の手帖」
差出人は、灯。宛先は、湊。配達先は、灯の家。
「地上にお住まいの方が受け取りを希望されたため、仮配達です。お預かりして、宛先へお届けしておきますね」
「お願いします」
「サインを……あ、スタンプで結構です」
配達員は、灯の手に、星形のスタンプを押した。インクは冷たい。
「二週間後に、配達先が星に切り替わります。その際はメールで」
「地上で」
「承知しました」
配達員が去ると、ポストが軽くなった気がした。
灯は、椅子に座り、湊の手紙を読み返した。
読み返す回数は、だれも数えない。
数えないものは、増える。
*
二週間は、すぐだった。
毎夜の手紙のほかに、灯は、手帖を湊へ送った。
残された方の手帖には、手続きのこと、健康診断のこと、短い謝罪の仕方が載っている。
湊は、手帖を読み、返事をよこした。
灯へ。
「短い謝罪」の章、おもしろかった。
会社の上司に謝るのにも使えた。
君は、本当に、いいものを送ってくる。
――湊
灯は、もう一度、返照便が欲しいと思わなかった。
一度だけという決まりが、今回は、居心地がいい。
決まりは、逃げ道を閉じると同時に、向かう道を残す。
二週間が過ぎた夜、星郵便からメールが届いた。
〈本日をもって、配達先を星に切り替えます。地上配達は停止されます〉
灯は、玄関のポストを撫でた。
ありがとう、と小声で言った。ポストは返事をしない。返事をしないものは、信じられる。
*
翌朝、湊からの手紙は、家には来なかった。
灯は、予約していた星閲覧室へ行った。
閲覧室は、郵便局の上にある。白い部屋に、透明な台が並び、そこに「宛名ごとの光」が沈んでいる。
受付の人は、光を一つすくって、灯の前の台に置いた。
「湊様→灯様。昨日の便」
光は、紙の形になり、文字が現れた。
灯へ。
明け方に目が覚めた。
夢の中で、君が歩道橋を渡っていた。
僕は地上で、その橋を見上げた。
どちらからも、朝日が同じ角度で差していた。
行ってきます。
――湊
灯は、光の手紙を読み、静かに台に戻した。
閲覧室には、ほかにも人がいた。光を読んで、笑う人。光に触れて、泣く人。光を撫でて、何も言わない人。
星郵便は、誰に対しても、同じ速度で動く。
同じ速度は、慰めでもあり、残酷でもある。
帰りに、灯は、地上の売店に寄った。
星切手ではなく、普通の切手を買った。
宛先は、市役所の献血室。ただのハガキだ。
返事のいらない宛先に、短いメッセージを書く練習がしたかった。
練習は、うまくなるためではなく、続けるためにある。
*
季節は、二度、変わった。
灯は、毎夜の手紙を続けた。
湊の返事は、星閲覧室で読んだ。
湊は、短く書いた。
短い文は、長い意味を持つ。
灯の文も、短くなっていった。
きょうは、よく歩いた。
傘を忘れずに。
メンマは、落とさなくなった。
――灯
ある夕方、星郵便から封書が届いた。
宛名は、灯。差出人は、星郵便。
開くと、厚紙が入っていた。「亡くなられた方の星籍本登録完了のお知らせ」。
最後に、小さく一行。
ご登録ありがとうございます。これからも片方向で。
灯は、笑った。
片方向で、十分だ。
片方向であることは、裏切りでも、冷たさでもない。
片道には、行きと書いてあって、帰りは、言葉が引き受ける。
*
その週末、湊から、地上宛の封書が届いた。
灯宛ではない。宛先は、灯の家の郵便受け。差出人は、湊。
家族宛の挨拶状で、最後に一行、灯へ宛てた文があった。
灯へ。
君の「行ってらっしゃい」で、僕はまだ会社に行けている。
君の「大丈夫」で、僕はまだ大丈夫だ。
死んだ君が、まだ僕を励ましてくる。
――湊
灯は、その文を三度読んだ。
死んだ君が、まだ私を励ましてくる――そう思っていた頃の自分に、少しだけ笑った。
言葉は、時々、向きを変える。
向きが変わるとき、意味は変わらない。
夜、灯は、いつものように便箋に向かった。
五十字ではない。
長くても、短くても、どちらでもいい。
星切手を貼って、息を吹きかける。
光は、前と同じ速度で、ふくらんだ。
湊へ。
大丈夫。
きょうも、行ってらっしゃい。
――灯
ポストは、星の口を開いた。
紙は、光を吸って、小さくなった。
星は、返事をしない。
それでも、返事を書く。
片方向で。
これからも。




