表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

消えた女

掲載日:2010/05/15

 ある日突然、北久保と同居していた恋人がいなくなった。

 ゴールデンウィークの気持ち良く晴れた朝であった。朝、目が覚めると、隣で寝ているはずの恋人の姿がなかった。ワンルームマンションだから彼女が部屋から外に行ったことはすぐに分かった。

 トイレ兼用シャワールームの扉は大きく開いていたし、寝る前に閉めたはずの玄関の鍵は外れていた。散歩にでも行ったのかも知れない。同居して二ヶ月間、早起きなどしたことの無い女だったけれど、今日のこのすばらしいお天気に誘われて、ふらっと出かけたのだろうか。帰ってきたら、どんなところを歩いてきたのか、話を聞いてみようと思った。とにかく、話の面白い女だ。どんな題材でもすべて楽しく興味深く話すのであった。

 ところが、女は帰ってこなかった。

 三日経って、北久保はようやくそのことを理解できた。女は出て行ったらしいと。部屋の中から、女の持ち物が全て消えていたのだ。そして、自分の物もいくつか消えていた。

「今日、会社休みます……。熱っぽいんです。咳が出ますので、今から病院に行ってきます」

 ゴールデンウィークあけの木曜日。北久保は会社を休んでしまった。彼女を失ったショックで生きる意欲がなくなっていた。

 金曜も引き続き休んでしまい、結局会社に出たのは月曜日だった。二十年間、有給休暇さえ一日も使わずの皆勤賞が砕け散った。職場の仲間は北久保が病気をすることが楽しいらしく、大げさにからかわれたりしたが、北久保は彼女のことが忘れられず、気分はすぐれなかった。


 そして、彼女が消えてから、十日後さらなる不幸が北久保を襲う。

 今日はシリーズ物のゲームソフトが発売される日だった。会社の帰りに店によって買おうと思った。お気に入りのゲームをやって、彼女の消えた憂さを晴らそうと考えたのだ。

 ところがキャッシュカードが見当たらなかった。北久保は焦った。普段キャッシュカードは持ち歩いていない。財布の現金が少なくなってきたら、家から持ち出して会社の近くのATMに行く。急な失費に備えて、財布にキャッシュカードとクレジットカードを携帯すると言う概念は十九年前に捨てた。

 会社でも社外でも交遊は希薄だった。

「ひとみ」と名のる女は、北久保が四十二年間生きてきて初めてできた恋人だった。ひとみは二十九歳だと言った。北久保のことを落ち着いた大人の男性と言い、渋いところが素敵だと言っていた。

 キャッシュカードは机の一番上の引き出しに入れていた。鍵などはついていない。北久保は真っ赤な顔をして引き出しを漁った。引き出しの中の物を次々と畳の上に放り出していく。電卓、はさみ、レターナイフ、クリップ、のり、ボールペン数十本、ホッチキス、鼻毛カッター、セロテープ……。そして、貯金通帳が三冊。北久保は貯金通帳をわなわなと震える手で掴むと、ページをめくってみる。何も挟まっていない。もう一度、今度は反対側から、ページをめくってみる。やはり何も挟まっていない。気の毒なことに三冊とも見事に何も挟まっていない。北久保は通帳も畳に放り投げると、引き出しを机から抜ききって逆さまにした。埃や小さなゴミがパラパラとこぼれるのみであった。

 北久保はその引き出しを頭上に高々と持ち上げると天に向かって叫んだ。

「ない!」

 その昂ぶりの声量は屋根で昼寝をしていたネコを一メートルも飛び上がらせ、雨樋に並んでいたスズメたち三十三羽を、空へと羽ばたかせた。


「冗談じゃねえぞう」

 北久保は喉の奥で唸りながら、三冊の通帳を持って駅前の銀行に走った。そして、ATMコーナーが開くのを待って、ようやく北久保が記帳したときには、三冊の残高は全てゼロになっていた。引き出された日にちは、ひとみが消えた日だった。

「やられた……」

 ATMの前でしゃがみこむ北久保を三人のガードマンが恐る恐る取り囲んだ。

「あの、お客さん」

 年長のガードマンが声をかける。

 北久保は首を左右に激しく振りながら、立ち上がった。

「やられた……」

 尋常でない様子と白目を剥いた北久保に三人のガードマンが思わず、たじろぐ。その間を北久保はよろけながらすり抜けて、店外へと流れ出た。


 その日、北久保は入社以来初めての無断欠勤をした。二十年間、節約を続け、ためにためた貯金を悪い女に欺されたのだ。

 北久保の利用する駅から二つ離れた駅は大きな駅になっている。都心からは離れているものの乗換駅ということもあり、駅前には一日中人が溢れかえり、デパート、駅の中、バスロータリーへと、人の群れは大移動している。

 駅前から伸びる大通りに沿ってどこまでもビル群が並んでいる。そのビル群の裏側に細い道がある。ビル群の裏になるため、日ざしが遮られ、やや、陰気な雰囲気を放っている。

 その裏道に店を構える一件のバーがあった。通りに面してガラス張りの店内は明かりが少なく、客席に人がいるのだか、カウンターにはいくつ席があるのかさえ、見通しがきかぬありさまである。

 そのカウンターの左端に北久保が座っていた。飲み慣れぬ酒を飲み、耳まで赤くしている。

「殺してやる……」

 北久保は時々、口の中でそう呟いていた。

 終電近い店内には客は少なかった。カウンターの右端に女がひとり。テーブル席に、カップルが一組だけである。カウンターのマスターは北久保をチラチラと盗み見てはいたが、平静を保っていた。長いこと、カウンターに入っていて、変わった客もずいぶんたくさん見てきたのだ。

「殺してやる……」

 北久保の呟きが、マスターの耳に届いて、さすがにマスターがギョッとする。

「……お客さん? 大丈夫ですか」

 ひきつり笑いで声をかけた。北久保は座った目をマスターに向け口元を歪める。

「ふふふふ」

 北久保の不敵な笑いにマスターはたまらず後ずさった。カウンターの反対側の方へと移動して、恐々と北久保を窺った。北久保は目を半分閉じており、何だか満足げに、二度三度と肯いていた。

 ふいに店内に泣き声が響き渡った。北久保の反対側に座っていた女が、わめくように泣き出したのだ。マスターが困惑の表情を浮かべる。

 マスターは深い皺の顔で悪い方へさいの目が出たことを悔いていた。女のひとり客は、良客と悪客と極端に分かれる。ホステスのいないシンプルさだけが売りのこのバーのような場合、女の客は普通にしていてくれればそれだけで店に華やかさを添えてくれる、ありがたいものである。ところが、ごくまれに不吉な場合も起こりえる。つまり、今回のように、問題のある行動をする場合である。男の問題客も、対応に苦労するが、女の場合は最悪である。多くの場合、手のつけようがない。なだめようが、叱りつけようが、まずこちらの思うとおりには運ばない。

「死にたいのよ~」

 女は天に向かいそう叫ぶと、カウンターにうつ伏せた。

 店に静けさが戻った。

 マスターはひとときの安泰を得て、ホッと息をついて北久保を見た。北久保もさすがに驚いた目で、女を凝視していた。

 マスターは腕時計をちらりと見た。その目に希望の光が戻った。

「そろそろ、お時間になります。今日はありがとうございました」

 マスターは閉店の時がきたことを店内に涼しい声で告げた。

 少し間を置いて、テーブルのカップルが手をつないで店を後にした。

 マスターがテーブル席をあわただしく片付けているのにカウンターの二人は一向に席を立とうとしない。

 北久保がジャケットの内ポケットに手を入れ何かを探る。そこにしのばせてる何かを確認しているようだ。

「そろそろ、りに行くか」

 北久保はそう呟きながら、ポケットから何かをちらりと取り出しかけた。サバイバルナイフ。北久保はそれを一度ぎゅっと強く握ったあと、再び内ポケットの奥へ戻した。手に汗がにじんでくる。脇のポケットから真っ黄色のハンカチを取り出して手をこすりつける。ハンカチの四つのコーナーには、一匹づつテントウムシのイラストが描かれている。

 うつぶしていた女が、顔を上げ、ハンドバッグから、何かを取り出した。

「これで、さよならね~」

 女はそう大声で叫んだ。右手には薬瓶がしっかりと握られていた。

 マスターがそれを見つけ、慌てて、駆け寄って瓶を取りあげる。

「ダメですよ! こんな物飲んだら!」

「いや、返してよ!」

「お客さん、死ぬなんてつまらないよ!」

「好きにさせてよ!」

 激しく叫び合う、マスターと女を尻目に、北久保は再び口元を緩め、楽しげにひとり呟く。

「殺してやる……」

 広い額に浮かび上がる玉のような汗を、テントウムシのハンカチでぬぐった。

 結局、マスターが女をなだめ、店から追い出したのは一時間近くたっていた。マスターは疲れ果て、テーブル席の椅子にがっくりと腰を下ろした。

「もう、疲れた。女は嫌い! 愚図ではっきりしなくて。もう、疲れたわ」

 と、なぜかオカマ口調になっていた。しばらくの間、マスターは俯いて床に目をやっていたが、突然思いだして顔を上げた。カウンターの端に目をやる。北久保と目が合う。

「お客さん、まだいたの! もう閉店なんですから……。勘弁して下さいよ」

「ちょっと、マスター、人を探しててね」

 北久保の不気味な笑顔に、マスターが恐々と対応する。

「興信所がいいんじゃないですか?」

「見つけたら、殺そうと思うんだ」

 マスターが頭を抱え込む。大きなひとりごとをつぶやく。

「まただ。どうして今夜は悪い客ばかりなんだ……」

「マスター、大丈夫?」

 北久保が心配してこれをかけると、マスターは右手をスッと挙げて大丈夫の挨拶をした。そして、その掌を改めて北久保に向け、「ちょっと待って」の合図をした。

 マスターは一旦カウンターの奥に消えると、一枚の名刺を持って戻ってきた。北久保の真正面に名刺を置く。

『なんでもや 浜川安次郎』と書かれている。

「この人ね。すごい人だから。どんな相談にものってくれる。どんな難しい問題も必ず解決してくれる。三ヶ月しゃっくりが止まらず苦しんでた人を、一発で治したこともあるし。映画の撮影とプライベートのデートが重なってしまった映画俳優のかわりを勤めたこともあるんですよ、しかもばれなかったらしい」

「撮影に行ったのですか? デートに行ったのですか?」

 北久保の当然の質問に、マスターは微笑んだ。

「直接、浜川さんにお訊ね下さい」


 北久保は浜川の事務所を目指した。マスターから聞いた道は簡単だった。店の前の道を駅とは逆方向に真っ直ぐ進む。十分くらい歩くと土手の前でT字路になる。その右側にある農家風の一軒家が『なんでもや 浜川安次郎』らしい。

 こんな夜中に行っても大丈夫なのかとマスターに問うと、夜中の一時まで受け付けているから平気だと答えた。

 細道を駅に向かう酔客の流れに逆らうので、深夜といえども苦労して歩いた。

 一瞬、その対向する流れの中に知った顔を見たような気がした。でも、一瞬のことだし、薄暗いし、判別はできなかった。

 土手に近づくにつれ、人影も少なくなっていった。北久保は先ほどのすれ違った人が誰なのか、思い当たった。あれは、バーのカウンターに座っていた女によく似ていた。あの、死にたいとわめいていた女だ。しかし、あの女だとしたら一体、店を出て何をしているのだろう。死に場所を探して、歩きまわっているのか。そう思うと北久保は鳥肌がたった。

 土手が見えてきた。道の右側には、確かに農家風の家がたんぼの中にぽつんとあった。近づいていって表札を確認する。玄関扉のすぐ左上にかまぼこ板にマジックで書いたような『浜川安次郎』の文字があった。

 インターホンを押して、出てきた男はツルリとした顔の男だった。

「いらっしゃい、マスターから聞いてますよ」

 どことなく、寒々とした声である。男とも女ともつかぬ中性的な声とでも言おうか。

 北久保はソファのある部屋に通された。

「ブランデーにしますか? お茶がいいですか?」

 北久保が意外な質問に戸惑っていると、

「ブランデーにしましょうよ」

 と、浜川は勝手にブランデーをついで二つのグラスを持ってきた。

 浜川に促されて、北久保は用件を告げた。

 浜川は、話を聞きながらものすごい速いペースでブランデーを飲んでいた。テーブルの上にボトルを置いて、手酌でドボドボとグラスに注ぐとストレートでグイグイと飲み干していく。

「なるほど。北久保さん。あなたの悔しさ良くわかりました」

 北久保が事のいきさつを話し終えるまでに、ボトルを完全に開けてしまった浜川だったが、少しも酔った様子が無かった。

「ひとみという女、悪い女ですな。そいつは間違いなく、あなたをだますために近づいてきたんですよ。愛? そんなものあるわけ無いですよ。二ヶ月間? それは何というか、雨宿りみたいなものですね。あなたは単なるひさしくらいにしか思われていません」

 北久保は少し腹が立って、ブランデーを思い切って口の中に放りこんだ。

「それで、彼女を捜してくれるんですか。いつまでに探してくれますか。費用はどのくらいかかりますか」

 矢継ぎ早の質問でこちらの腹立ちを示したつもりだった。

 浜川は人差し指を上に向けて差した。

「ずばり、言いましょう。あなた、このままいくと、また別な女にだまされますよ。死ぬまで女にだまされます。つけこまれやすい性格なんですよ。自分で、分かりますか?」

「いえ……。でもなんとなくなら、分かりますが」

 浜川は掌を北久保に差し向けた。

「本当にあなたのためを思うなら……いい方法があります」

「なんですか」

「……」

 浜川は北久保を真っ直ぐに見つめたまま口をつぐんでいる。

「どんな方法があるんですか?」

「……信じられないかも知れませんが……」

「どうぞ、おっしゃって下さい」

「……月に行くという方法があります」

「……月?」

 北久保はそうくり返しながら、口元が緩んだ。冗談だと思ったのだ。しかし、浜川は真剣に話を続けた。

「本当なんですよ。月に行けるんです。あなたが望みさえすれば、月の世界で幸せに暮らすことができます」

「だって、月には空気も少ないし、水もない。気温だって地球とは違うし、仮にシャトルかなにかで月に行けたとしても生活は成り立たないでしょう」

「それは心配要りません。月の地中に人工の環境が作り上げられていますから。既に、多くの人がそこで幸せな毎日をおくっています」

「そんな、バカな……」

 浜川は笑顔で大きく肯くと、席を立った。壁際の食器棚から新しいブランデーを一本掴んで戻ってきた。グラスにドボドボとブランデーを注ぐ。ゴクゴクと飲む。

「うまい……。ブランデーは最高だ。ところで北久保さん。あなたが月の世界を信じられないというのなら、それは仕方がありません。事情があって月世界の証拠をお見せするわけにはいかないんです。でも、あの女を殺して、刑務所に入ってもつまんないと思いますよ」

 北久保は、ちょっと考えた。結局、おかしな話を持ち出して人殺しを止められたのだろうか、と思った。

 浜川宅を後にするとき、

「また、いつでもどうぞ」

 と、浜川は言った。


 テレビのニュースにひとみの写真が映しだされた。女詐欺師だという。男をだまし、金を盗み逃げる生活をしていたと。分かっているだけで、十二人の男が被害に遭っているという……。

 そのニュースが放送された夜、北久保は再び浜川宅へ足を向けた。

 南の空に満月がのぼっていた。

 浜川宅に近づくと、人影があらわれ、北久保は足を止めた。浜川宅から出てきた人影は二つあった。

 土手をのぼってゆく。どうやら河原に入っていくようだ。北久保は足音をしのばせ、早歩きで追った。

 土手の下りの斜面で距離が縮まった。二人が誰か判明した。浜川と、あともう一人は、あのバーにいた女である。

 河原へ降り立った二人の前に丸い球体の物体があった。軽自動車がすっぽりおさまるくらいの大きさのそれは、つるつるとした完全な球体で、月の光を反射させていた。

 浜川と女は、その球体に近づくと吸いこまれるように消えた。

 北久保は草むらに身を隠し、球体をみつめた。

 次の瞬間、球体は音もなく浮上し、斜め上方に高速で飛んだ。その球体の進む先には満月があった。

 球体はあっという間に小さくなり、すぐに見えなくなった。

 先ほど河原の球体のあったあたりに目をやって、北久保は目を見ひらいたまま動けなくなった。

 そこには浜川が、一人だけ立っていた。


             (お わ り)





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 現実感に満ちた物語展開の中にSF的な要素がマッチしていてとてもおもしろかったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ