閑話.落ち人・篠原蓮の場合
とある別の落ち人の話です。
気づいたら森の中に突っ立っていた。
木々の匂いが濃い。地面は湿ってて、見慣れない草が生えている。最初は夢かと思ったが、違う。これは――異世界ってやつだ。
やば。ついに来ちまったか、俺のターン。
前世(?)の俺は剣道部のホープ。県大会ベスト8の実力は伊達じゃない。クラスでも「剣道馬鹿」とか言われてたけど……いや、剣に賭ける想いが違ったんだよ、俺は。
だからこうして異世界に呼ばれたのも、必然ってやつだろ。選ばれし者、篠原蓮。
と、そのときだった。がさり、と茂みが揺れた。
「おい、坊主……財布出せや」
現れたのは三人組の盗賊。腰にはボロボロの刃物。歯をむき出しにして、じりじりとにじり寄ってくる。
……ほう、来たか。さっそく洗礼ってわけだな。
普通ならビビるところだが、俺は違う。武器さえあれば、剣道仕込みの突きと面で余裕だろう。
目を走らせると、ちょうど一振りの剣が地面に落ちていた。盗賊がさっき投げ捨てたやつか? まるで俺を待っていたかのように、手の届く場所に転がっていた。
「よし……借りるぜ」
柄を握った瞬間、ぞくりとした。
重みは竹刀と違う。でも、悪くない。むしろ手に馴染む。
「はああっ!」
思い切り振り下ろす。
次の瞬間――。
――ゴォッ!
剣から炎が噴き出した。まるで火柱。盗賊どもは「ぎゃああっ!」と叫んで転げまわる。
俺は目を見開いた。……いや、やっぱりな。俺ならやれると思ってたぜ。
偶然? 違うだろ。これは選ばれた力。俺にしか扱えない炎の剣だ。
震える盗賊たちを見下ろしながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……っしゃあ!」
そのとき、後ろから声がした。
「た、助けてくださってありがとうございます!」
振り返ると、荷車のそばに縛られていた商人らしき人たちが、涙目で頭を下げている。
「いえいえ。困ったときはお互い様ですから」
……いやぁ、やっぱりヒーローはこうでなくちゃな。
感謝される。称賛される。俺の力を見せつける。最高じゃないか。
俺は炎の剣を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「この世界でも……俺の剣が通用するってことだな」
胸が高鳴る。これから先、どんな敵が出てこようと――俺なら勝てる。そう確信していた。
その夜、俺は焚き火の前で、手に入れた炎の剣を撫でていた。
赤い光が刃に揺らめく。武器がある。力がある。食糧だって、商人に分けてもらった。完璧だ。
……いや、そう思いたかった。
眠りについてすぐ。耳元で「カサ……」と音がした。
目を開けると、光る虫が群れを成していた。青白く透けた羽、花の蜜に集まる蛍のようなやつら。
きれいだな、と一瞬思った――次の瞬間、焚き火の火が消えた。
虫たちが一斉に群がり、火を喰ったのだ。
残ったのは闇。俺の吐息さえ冷たく感じるほどの、底冷えする暗さ。
⸻
翌朝、森を抜けようとしたときだった。
川に出た。透きとおる水、白い霧。だが川底には、魚ではなく無数の白い腕のようなものが揺れていた。
人の骨に、皮膚のような膜が張りついた……そんな「何か」が、音もなく流れを遡っている。
足を滑らせかけ、慌てて踏みとどまった。水面に映った自分の顔がやけに青ざめて見える。
……おかしい。俺は剣を持ってる。力だってある。なのに、手のひらが汗でびっしょりだ。
⸻
さらに奥へ進んだ時。
木々の間から、不意に影が落ちた。
巨大な獣だった。狼のようでいて、皮膚はひび割れ、目は赤く濁っている。背には何本も棘が突き出し、歩くたびに地面が震える。
そいつが口を開けると、焦げた肉の匂いが吐息に混じった。
俺は炎の剣を抜いた。震える手で、それでも構えた。
「来いよ……俺には、この力がある!」
――ゴッ。炎が迸る。
だが、獣は怯まなかった。
炎に包まれても進んでくる。毛皮が焦げ、肉が焼けてもなお、止まらない。
剣道の間合いも何も、通じない。
ただの一撃で、俺の体は宙に舞い、木に叩きつけられた。肺から空気が抜け、呼吸ができない。
視界が滲む中、俺はようやく理解した。
――この世界は、俺が思っていたものと違う。
甘くなんかない。人を試し、選び、簡単に飲み込む。
力がある? 才能がある?
笑わせる。そんなものは、ただの火遊びにすぎなかった。
───
隙を見て必死に逃げた。走って走って、枝に顔を切り、足はもつれ、息が苦しくても止まれなかった。
あの赤い瞳に飲み込まれる前に。
気がつくと森は深くなり、空はほとんど見えなくなっていた。
暗い。なのに不思議な光に包まれた空間があった。
そこに――いた。
銀色の毛並みに、透きとおるような角を持つ獣。
月の光をそのまま形にしたような、神秘そのものの姿だった。
俺は惹かれるように近づき、手を伸ばした。
「……すげぇ。お前、俺の相棒に――」
次の瞬間、そいつはわずかに身を引いた。
冷たい瞳で俺を見下ろし、静かに首を振るようにして、森の奥へ消えていった。
胸に穴が開いたような感覚。
まるで「お前に興味はない」と言われたみたいで。
……だが、俺はそれを追った。逃がすものか、と。
⸻
辿り着いた先で、俺は別の存在と出会った。
ゴブリン。
緑色の小鬼のような姿。だが一匹だけなら問題ない。
炎の剣を振るえば、あっけなく焼け落ちた。
「ほら見ろ! 俺はやっぱり強ぇ!」
高揚感が胸に広がる。
――だが、それも束の間だった。
木陰から、草むらから、次々と現れる影。
ひとつ、ふたつ、みっつ……気づけば四方を取り囲まれていた。
「……は?」
叫ぶ間もなく、奴らが一斉に飛びかかってきた。
剣を振る。だが腕を掴まれ、足を噛まれ、背中にのしかかられる。
炎が走っても、数が多すぎた。
痛い。熱い。肉を裂かれる感覚が鮮明に伝わる。
悲鳴を上げた。俺の声かどうかすら分からなかった。
「やめろ……やめろッ!」
噛み千切られ、食われていく。
まだ生きているのに。まだ意識があるのに。
最後に見えたのは――顔いっぱいに唾液を垂らし、血で濡れた醜いゴブリンの口。
そして、その向こう。
遠く、木々の影から、さっきの幻獣がこちらを見ていた。
美しい瞳。けれど、そこに哀れみはなかった。
ただ、冷たく世界の理を告げるように――「ここは、そういう場所だ」と。
俺の視界は闇に閉ざされた。
誰かにとってそこは、ただ綺麗なだけの異世界ではないようです。




