8.新たな旅の始まり
朝の光が街の石畳を淡く照らしていた。
悠真は肩にとまるアズールを撫でながら、街の端の屋敷へと向かう。
門を抜けると、霧を纏った黒き馬――エクリプスが柵の中で待っていた。
その姿は夜を切り取ったかのようで、陽光の下にあってなお影の気配を漂わせている。
「……来てくれたか」
飼い主の男が姿を現す。
「昨日は一晩中、落ち着かない様子でな。まるで、お前を待っているかのようだった」
悠真は微笑んで頷いた。
柵の扉を開けると、エクリプスは迷いなく駆け寄り、鼻先を悠真の胸元へ押し当てた。
「よしよし……今日から、一緒に旅をしような」
その声に応えるように、エクリプスは低く鳴き、霧を揺らした。
男は馬具一式を差し出した。
「エクリプスをよろしくたのむ」
悠真は一瞬ためらったが、深く頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます。必ず、大事にします」
スピカはカバンの隙間から覗き見て、ぽつりと呟いた。
「……ますます賑やかになってきたわね」
だがその声には、不思議と柔らかな響きが混じっていた。
悠真は黒い霧を纏うその馬の鼻先をなでながら、そっと口を開いた。
「これからは“ノクス”って呼ぶことにしよう。夜を意味する名前だ。君にぴったりだと思う」
その言葉に応えるように、ノクスは低く喉を鳴らし、鼻息を荒く吹いた。霧がふわりと揺れて、どこか誇らしげに見える。
鞍と馬具をつけ終えると、悠真は飼い主に深く頭を下げた。
「今までお世話になりました。大切にします」
「……ああ、頼む。ノクスを、よろしく頼むよ」
そうして屋敷をあとにした。
数日を過ごした街を背に、悠真は振り返る。にぎやかな往来、屋台の声、宿屋の灯り。そのひとつひとつに短いながらの思い出が宿っていて、名残惜しさが胸に広がる。
だが同時に、新たな旅の始まりに心は躍っていた。
ギルドの前に到着すると、悠真はノクスの首をぽんと叩いた。
「ここで待っててくれるか?」
ノクスは短くいななき、霧を揺らして静かに立ち止まる。
悠真はギルドの扉を押し開け、受付へ向かった。
「実は……この街を出て、別の街へ向かおうと思っているんです。その場合、ギルドに何か手続きは必要ですか?」
受付嬢はにこやかに首を振る。
「特別な手続きはありませんよ。冒険者は旅をしながら各地の依頼をこなすのが普通ですから。依頼によっては、出発地ではなく到着地のギルドで報告しても構いません」
「なるほど……」悠真は素直に頷く。
悠真は受付嬢に向き直り、少し考え込んだあと尋ねた。
「ところで……この街から一番近い街は、どこになるんですか?」
受付嬢は地図を広げて指で示す。
「ここからなら、東に進んだ先にあるラグリスが最寄りです。川を利用した交易が盛んで、この街よりも大きな商業都市ですよ」
「ラグリス……」悠真はその響きを反芻した。
スピカが肩で尻尾を揺らしながら囁く。
「物資も揃うでしょうし、旅を続けるにはちょうどいいかもしれないわね」
「そうですね……。では、そのラグリスまで行きたいんですが、そこへ向かう途中でできそうな依頼はありますか?」
受付嬢は依頼票を何枚か取り出しながら頷く。
「護衛任務が多いですが……危険が伴うこともあります。あとは、荷物の輸送依頼ですね。ラグリスは商業の街ですから、こちらから運び込む荷も多いんです」
悠真は即座に答えた。
「護衛は……俺には無理そうです。できれば輸送で」
受付嬢は笑みを浮かべる。
「ちょうどいい依頼があります。荷物の量は多いですが、次の街に運ぶだけ。……ただ、人の背では無理かもしれません」
「大丈夫です。馬がいますから」悠真は胸を張って言った。
受付嬢は一瞬驚き、すぐに納得したように微笑む。
「それなら問題ありませんね。荷車はこちらで貸し出しますので、馬に繋いでいただければ十分運べます。……その馬、とても頼もしそうですから」
悠真は依頼票を受け取り、ほっと息をつく。
「よし……次はラグリスだ」
ノクスの黒い瞳が、外で待ちながらこちらを見ている。
その視線に応えるように、悠真は静かに頷いた。
ギルドで依頼を受け終えた悠真は、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
「……よし、このまま出発しよう」
まだ日は高い。街を出るには十分の時間がある。
外に出ると、ノクスの周りに小さな人だかりができていた。
真っ黒な霧を纏った馬など、普通の人々にとっては珍しい存在なのだろう。
人々のざわめきを分けて進み、悠真はノクスの首筋を軽く撫でた。
「待たせてごめんな」
ノクスは鼻を鳴らし、まるで「気にするな」と言わんばかりに首を振った。
ギルドから借りた荷車を繋げながら、「大丈夫か?」と問いかけると、力強くひと声。
その反応に、悠真は自然と笑みをこぼす。
依頼主のもとに向かうと、家の前で待っていた商人らしき男がこちらに気づき、軽く頭を下げてきた。
「ギルドから来てくれた方ですね。さっそく荷をお願いします」
そう言って運び出されたのは、大きな木箱や麻袋の山。
ノクスの荷車に載せられていき、最後に分厚い布が掛けられた。
荷車はずっしりと重みを増したはずだが、ノクスはまったく動じない。軽く蹄を鳴らすと、まだ余裕があると示すように首を振った。
「やっぱり魔獣だからか、普通の馬とは違うんだな……」
感心したように呟きながら、悠真はノクスの背に跨がった。
肩には、孵化したばかりの白い小鳥・アズールがちょこんと乗っている。
その様子にスピカが「あら、すっかり親子ね」と笑いながら、いつの間にか荷車の上に移動していた。
悠真が気づくと、スピカはしれっとした顔で尻尾を揺らす。
「だって歩くの大変なんだもの」
「はいはい……」
苦笑しながらも、心は不思議と軽い。
こうして――悠真は仲間たちと共に、商業都市ラグリスを目指して街を後にした。




