56.静穏の終わり
辺りの空気はまだ震えていた。
世界樹の幹に触れたあの瞬間、確かに何かが重なった。
風と樹と、そしてアズールの奥底に眠っていたものが。
しばらく誰も何も言わなかった。
新たな姿となったアズールは、ゆっくりと羽を畳み、悠真の方へ歩み寄る。
一歩一歩が重いはずなのに、不思議と地面を踏み荒らさない。
その巨体がすり、と擦り寄った。
「……」
悠真は反射的に、その胸元の羽毛に手を埋める。
柔らかい。
以前より分厚く、けれどふわりと温かい。
「……大きくなったなぁ」
なんとなく、そう呟いた。
すると。
『うん。いっぱい、力が満ちてる』
「おー、そうかそうか。よかったな」
『うん。パパのおかげ』
「……うん?」
『パパ?』
悠真の手が止まる。
「……あれ?」
『どうしたの?』
「……え?」
数秒、静まり返る。
「アズールが……喋ってる……?」
『うん? ずっと喋ってるよ?』
「いやいやいやいや今初めて聞いたけど!?!?」
アズールは首を傾げた。
巨大な成鳥がそんな仕草をすると、可愛いより先に神々しい。
『パパ、変だよ?』
「パパ!?」
二度目の衝撃。
「ちょっと待て、なんでパパ!?」
『だって、卵から出たとき一番最初にいたのパパだし、ごはんくれたのもパパだし、守ってくれたのもパパだよ?』
真顔で言う。
否定材料が、ない。
「いや……まぁ……それは……そうだけど……」
頬を掻く悠真の様子を、少し離れた場所からスピカが冷めた目で見ていた。
「何を今さら騒いでいるのよ」
「いやいや!喋ってるぞ!?アズールが!?」
スピカは鼻を鳴らす。
「世界樹に触れて共鳴した神獣が、喋れないはずないでしょ?」
当たり前、と言わんばかりの声音。
「共鳴ってそんな万能ワードなの!?」
「あなた、本当に自覚がないのね」
スピカはゆっくりと近づき、アズールを見上げる。
「力が整っただけよ。元々あったものが、形になっただけ」
アズールは嬉しそうに羽をふるわせた。
その瞬間、空間を渡る風がざわりと鳴る。
意図していないのに、風が呼応している。
悠真はその様子を見上げて、ぽつりと呟いた。
「……これ、ほんとに王都連れて歩けない」
神々しい成鳥。
天候すら揺らす風。
しかも「パパ」と呼んでくる。
森の奥から、黒竜の低い声が響く。
悠真は天を仰いだ。
「……普通の生活、どこ行った?」
スピカが小さく笑う。
「最初からなかったわよ、そんなもの」
本来風のない室内を、蒼い風がゆっくりと巡っていた。
余韻はまだ、消えない。
────
世界樹の幹の前で、簡単な方針を決めた。
アズールはこの場に残る。
黒竜もいる。
ノクスはその“付き添い”だ。
「お前、完全に保護者ポジションだな……」
悠真が苦笑すると、ノクスは静かに鼻を鳴らした。
『任せろ』
頼もしすぎる。
アズールは少し不満そうに羽を揺らしたが、
『パパ、すぐ戻る?』
「戻るよ。ただ、部屋には大きさ的に全員を入れられないから、ここにいてくれるか?」
『うん…じゃあ待ってる』
その声は、もう完全に落ち着いた成鳥の響きだった。
黒竜は既に、自身の寝床作りを進めていた。
────
放心状態のケインの前で、悠真は軽く手を振った。
「……ケインさん?」
「………………」
「ケインさん?」
「……はっ」
ようやく現実に戻った顔。
「い、今のは……夢では……」
「残念ながら現実です」
ケインは額を押さえた。
「報告書が……追いつきません……」
スピカが小さく鼻で笑う。
「人間は書類が好きね」
「好きでやってるわけじゃないと思うけどな……」
とりあえず、詳細は後日ということで切り上げる。
今はもう、情報量が多すぎる。
◇
部屋に戻る前に、自然と足はお世話室へ向いた。
扉を開けると、柔らかな魔力の気配。
カーバンクルの幼獣は、ちょこんと丸まっていた。
悠真の姿を見ると、小さな鳴き声を上げる。
「……癒し……」
今日一番、心から漏れた声だった。
ブラッシングをしてやると、気持ちよさそうに目を細める。
小さな体。
温かい毛並み。
規格外の神獣たちとは違う、等身大の命の重さ。
「こういうのがさ……ちょうどいいんだよ……」
スピカが横で尻尾を揺らす。
「あなた、刺激が強すぎると処理落ちするものね」
「否定できない……」
餌を整え、水を替え、軽く遊んでやる。
幼獣はころんと転がり、そのまま悠真の指を抱え込むようにして眠った。
静かな寝息。
悠真の肩の力が、ようやく抜ける。
「……よし。今日はこれでいい」
世界樹。
神獣。
共鳴。
成鳥化。
王城。
情報が渋滞しすぎている。
でも――
小さな命を撫でるこの時間だけは、変わらない。
スピカがふと、柔らかい声で言う。
「あなたは、これが好きなのよ」
「……うん」
それは即答だった。
力でも、地位でもなく。
守ること。
世話をすること。
それが、自分の立ち位置なのだと、少しだけはっきりした気がした。
「……さて、部屋戻るか」
嵐のような一日が終わる。
たぶん、またすぐ呼ばれる。
でも今はいい。
悠真は最後にもう一度、カーバンクルを撫でてから、お世話室を後にした。
───
翌朝。
食堂で簡単な朝食を終え、森へ向かおうと席を立った瞬間だった。
「ユウマさん」
落ち着いた声。
振り向けばケインが立っている。昨日よりは顔色が戻っているが、目の奥に緊張が残っていた。
「少しお時間をいただけますか。大事なお話です」
嫌な予感しかしない。
◇
通されたのは、最初に説明を受けたあの応接室。
落ち着いた照明と木目を基調とした、柔らかな空間。
初日に座った椅子に、再び腰を下ろす。
そして向かいに座っていたのは――
副所長、バストル。
初日に会っている、あの穏やかそうでいて底の読めない人物だ。
「久しぶりだね、ユウマ君」
静かだが、よく通る声。
悠真は姿勢を正した。
「昨日の件で駆けつけた。世界樹の幹、神獣の成長、皇子との接触……どれも本来ならば国家機密級だ」
さらりと言われ、悠真の胃がきゅっと縮む。
だがバストルは続けた。
「安心しなさい。神獣と幻獣の問題に、人間が首を突っ込みすぎるのは良くない。我々は“管理者”ではあっても、“支配者”ではない」
その言葉に、悠真ははっきりと安堵した。
「今回の件は、大事にはしない。外にはほとんど出さない」
「……ありがとうございます」
正直、それだけで十分だった。
だが。
ケインが小さく息を吸う。
「本題は、ここからです」
来た。
バストルが指を組む。
「皇族より正式な招待が届いた」
悠真、固まる。
「まずは陛下への謁見。その後、内々の食事会だ」
「……は?」
思わず間抜けな声が出た。
「正式、って……断れるやつですか?」
「形式上は可能だ」
バストルは穏やかに微笑む。
「だが、勧めはしない」
やっぱりそうだよね。
「王子殿下が君を“友人”と紹介した。さらに神獣が自ら名を出した。陛下が興味を持たぬはずがない」
スピカが横で小さくあくびをする。
(ほらね)
と言いたげな目。
悠真は額を押さえた。
「俺、一般人なんですけど……」
「神獣に“パパ”と呼ばれる一般人は、なかなかいないね」
バストル、さらっと爆弾を落とす。
「その件も含め、陛下は君を直接見ておきたいのだろう」
悠真は天井を仰ぐ。
乗り気かと言われれば、まったく乗り気ではない。
だが。
逃げられる立場でもない。
スピカが静かに言う。
「行ってきなさい。嫌なら途中で帰ればいい」
「帰れるわけないだろ」
小声で反論。
バストルはそんなやり取りを見て、目を細めた。
「心配はいらない。君を政治に巻き込むつもりはない。あくまで顔合わせだ」
――本当にそれだけで済むのか?
悠真は深く息を吐いた。
森にいるアズールたちの顔が浮かぶ。
静かな日常は、また一歩遠ざかる。
「……日時は?」
覚悟を決めるしかない。
ケインが答える。
「三日後、正午。王城にて」
三日。
短い。
「礼儀作法は最低限でいい。こちらで簡単に教える」
バストルは穏やかなままだが、その目は真剣だ。
「ユウマ君。これは“試練”ではない。“確認”だ」
「確認?」
「君が、何者なのか」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
悠真は苦笑した。
「俺が一番知りたいですよ、それ」
スピカが横で尻尾を揺らす。
「知らないのはあなただけよ」
――三日後、王城。
平穏は、また少し遠のいた。




