6.影を纏う駿馬
朝の光が差し込む中、悠真はギルドへ向かうため宿を出た。スピカは鞄の中で小さく丸まり、まだ眠そうにしている。
「今日も薬草採取かな……あ、でも他の依頼も見てみたいな」
そんなことを考えながら石畳を歩いていると、前方で人々の悲鳴が上がった。
「きゃあっ、馬が暴れてる!」
「どけっ!」
荷を引いた大きな馬が通りを駆け抜けていた。目は血走り、綱を引く御者の声も届いていない。
「危ない!」悠真はとっさに飛び出し、暴れる馬の前に立ちはだかった。
手綱をつかみ、ぐっと力を込める。馬が嘶き、前脚を高く蹴り上げたが、悠真は落ち着いた声で語りかける。
「大丈夫、大丈夫だ……落ち着け……」
不思議なことに、その声に馬はしだいに呼吸を整え、暴れる動きを止めていった。悠真が優しく首筋を撫でると、馬は鼻を鳴らし、静かに彼の隣に立つ。
駆け寄ってきた御者が頭を下げた。
「た、助かりました! あのままだったら大事故になってました……!」
「いえいえ、なんとか落ち着いてくれてよかったです」悠真は安堵の笑みを浮かべ、馬の首筋をもう一度撫でた。
礼を言った御者は馬を引いて去っていった。
通りの人々がざわめき、悠真を見送る中、その光景を少し離れた場所から見ていた男が、ゆっくりと近づいてきた。
「……今の、見事なものだな」
中年のその男は感心したように口を開いた。
「うちにも手を焼いている暴れん坊がいてな。もしよければ、一度見てもらえないか?」
悠真は目を瞬かせた。
「俺でいいんですか?」
「ぜひ頼みたい。家はすぐ近くだ」
こうして悠真は、思いがけずその人物の家を訪ねることになった。
案内されてたどり着いた家は、街の端に建つ大きな屋敷だった。
庭は広く、そこには何頭もの馬が飼われていた。柵の中では数頭の馬が穏やかに草を食んでいたが――その中に、一際異質な存在がいた。
それは漆黒の霧を纏った、馬のような魔獣。形は馬に似ているが、その体は常にゆらめく影のように揺らぎ、目は深い蒼に光っている。
「……あれは、『影駿』と呼ばれる魔獣だ」
男が低く呟く。
「友人から譲り受けたんだが……まあ、見ての通りのじゃじゃ馬でね。人を傷つけることはないが、言うことをまったく聞かない。近づこうとすれば霧で威嚇してくるし……正直、持て余している」
悠真の目が、キラキラと輝いた。
「うわ……すごい……!」
懐からノートを取り出すと、すぐに筆を走らせ始める。
「特徴……全身黒い霧……体は普通の馬より一回り大きい……瞳は蒼く発光……」
「……また始まったわね」
鞄の中から顔を出したスピカが、呆れたように肩をすくめた。
「あなた、珍しいものを見るとすぐにメモを取り出すわよね」
「だって、気になるんだもん」悠真は真剣な顔でノートを書き込みながら、飼い主に振り向いた。
「あの、近づいても大丈夫ですか?」
「……あまりお勧めはしないが……もし危険を感じたらすぐに下がってくれ」
悠真はこくりと頷き、柵に近づいていった。
霧を纏ったその馬――エクリプスは、悠真の姿に気づくと、蒼い瞳を細めて一瞬静止した。
そして次の瞬間、地を蹴って駆け寄り、柵のそばまで迫る。
ぶるる、と低く鳴いて、長い顔を悠真の目前に寄せた。
普通ならば、その気配だけで恐怖に足をすくませてしまうはずだ。だが悠真は臆することなく、ゆっくりとその顔に手を伸ばす。
「……こんにちは」
そして、優しくその黒い額をひとなでした。
驚きに目を見開いたのは飼い主の男だった。
「な……っ、信じられん……!」
彼の声は震えていた。
「誰かが触れようとすれば、威嚇するか、あの濃い霧を吹きかけて拒絶するんだ。それが……」
エクリプスは抵抗するどころか、気持ちよさそうに目を細め、悠真の手に鼻先をすり寄せていた。
黒い霧がふわりと揺れ、威圧感よりもむしろ柔らかな温もりを感じさせる。
「……信じられん」
飼い主の男は呆然とその光景を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「お前さん……もしよければ、この子の世話をしてやってくれないか? わしじゃ手が負えなくてな。もちろん、謝礼は出すつもりだ」
突然の申し出に悠真は目を丸くする。
「俺でいいんですか? 馬を世話した経験もないですけど……」
「いや、わしじゃどうにも懐かんのに、あんたにはこんなに寄っていくんだ。世話を任せられるのは、もはやあんたしかいないだろう」
横でスピカが小声で呟く。
「また面倒ごとを引き寄せたわね……ほんと好きね、そういうの」
悠真は苦笑しつつ、少し考えてからうなずいた。
「じゃあ……依頼の合間でよければ」
「助かるよ!」男は心底安堵したように笑い、深々と頭を下げた。
その日はひととおりエクリプスの世話をして、様子を観察することにした。
しばらく馬房に寄り添っていると、黒い幻獣は穏やかに落ち着き、霧も次第に薄らいでいく。
「やっぱり……嫌われてるわけじゃないんだな」悠真はそう呟き、最後に軽く撫でてから柵を離れた。
――そして、ギルドへ向かう。
受付で薬草の件を尋ねると、受付嬢はにこやかに答えた。
「昨日お預かりした薬草ですが、査定が終わるのは明日の朝になります。それまでお待ちいただけますか?」
「はい、大丈夫です」
少し肩の力を抜いた悠真は、掲示板へと目をやる。討伐依頼が多くを占める中、彼の目に留まったのは小さな紙だった。
『迷い動物の捜索 報酬:銅貨3枚』
悠真はそれを指差す。
「これ、受けても大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありませんよ。迷い犬の捜索ですね。あまり人気のない依頼ですので街の人も助かるでしょう」
受付嬢が依頼票を手渡すと、悠真は微笑んでうなずいた。
「よし、じゃあ今日はこれをやってみます」
背後のカバンから、ひょこんとスピカの尻尾が揺れる。
「……ほんと、あんたらしい選び方ね」
───
街の路地裏を歩き回りながら、悠真は掲示板で受けた依頼票を見直した。
「迷い犬の捜索……名前は〈モモ〉。茶色の毛並みに、右耳だけ白い模様があるって書いてあるな」
だが、そう簡単には見つからない。広い街のあちこちを探してはみるものの、犬の姿はどこにも見えない。
「……うーん、やっぱり人混みは苦手だな」
カバンの中からスピカの声がした。
「仕方ないわね。ちょっと鼻を貸してあげる」
次の瞬間、カバンからひらりと飛び出したスピカが路地の石畳をぴょんぴょんと進んでいく。
「おいスピカ、勝手に走るなよ!」
「静かに。匂いがあるわ」
小さな獣の耳がぴくぴく動き、やがて古い木箱の陰に潜り込む。
「……いた!」
そこには依頼票に書かれていた特徴そのままの茶色い犬が、少し怯えた様子で座り込んでいた。
「モモだ……」
悠真がしゃがんで手を差し出すと、犬は一瞬ためらったが、すぐに尻尾を振りながら近寄ってきた。
「よしよし、いい子だ。怖かっただろう?」
犬を抱き上げ、依頼票に書かれていた住所へ向かうと、そこは街角にある雑貨屋だった。
「雑貨屋さんだったのか」
扉を開けると、すぐに中から小さな声がした。
「モモ!」
駆け寄ってきたのは十歳ほどの女の子。モモと呼ばれた犬は勢いよく飛び込み、女の子にしがみつくように抱きついた。
「よかったぁ……!」
その声を聞きつけて、店の奥から中年の男が現れた。
「おお、モモを……! 本当に助かったよ」
男は深々と頭を下げ、悠真に任務完了のサインを渡してくれた。
「せっかくだ、中に入っていってくれ」
促されて雑貨屋の中に入ると、棚には旅用品や小物がずらりと並んでいた。その中で、ひときわ悠真の目を引いたものがある。
「これは……」
手に取ったのは革製の小さな袋。見た目は普通の袋にしか見えないが、どこか不思議な気配を纏っている。
「お、それに目を付けるとはな。〈魔法袋〉だ」
店主が胸を張るように言った。
「見た目よりずっと多くのものを入れられる。旅をするなら必需品だぜ」
「へえ……!」悠真は目を輝かせる。
「で、おいくらなんですか?」
「金貨五枚だ」
「……」
悠真の表情が固まる。
「金貨五枚……!?」
そんな大金、到底手が届くはずもなかった。
店主は苦笑しながら肩をすくめる。
「まあ、そう簡単には手に入らないだろうな。けど今回は犬を見つけてくれた礼だ。買うときは少しくらいはまけてやるよ」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
悠真は心からの笑みを浮かべた。
――今は無理でも、必ず手に入れたい。
そう心に誓い、悠真は雑貨屋を後にした。
その後ギルドに立ち寄って依頼完了のサインを提出し処理を済ませた。受付嬢に「お疲れさまでした」と笑顔で言われると、ようやく今日一日の緊張が解けていくのを感じる。
その足で宿へ戻り、部屋に腰を落ち着けた。
「ふぅ……今日はよく歩いたな」
スピカがベッドの上で丸くなりながら「あんたにしてはよくやったんじゃない」と気の抜けた声を出す。
悠真は笑いながら、明日の予定を頭の中で整理した。
――朝一でギルドに行って、薬草の買取結果を受け取る。それから、エクリプスの世話だな。
そう考えながら、ふと窓際に目を向ける。光を受けて淡く輝く卵が、そこに静かに置かれていた。
「……そういえば」
伸ばした指で、卵の表面をそっとちょんと突いてみる。
その瞬間――。
「……え?」
ほんのわずかに、卵が揺れたように見えた。気のせいかもしれない。だが確かに、殻の奥から何かの鼓動が伝わってくるような気がした。
悠真はしばし言葉を失い、やがて小さく笑みを浮かべる。
「……まさか、本当に……?」
夜の帳が街を包み込む中、静かに脈打つ卵を見つめながら、悠真はゆっくりとまぶたを閉じた。
───
【観察記録・影駿】
分類:魔獣(馬型)
普通の馬より一回り大きい。
全身が黒い霧に覆われている。
霧は触れても冷たくなく、手を離すとすぐに散る。
瞳は深い蒼色に発光しており、暗がりでもよく見える。
高い知性を持つが、人間には滅多に懐かない。
威嚇時には霧を濃くし、相手を恐怖させる。
攻撃性は低く、無闇に傷つけることはない。
残念ながらほふほふはなし…




