4.蒼き露に宿る縁
翌朝、宿の窓から差し込む光で悠真は目を覚ました。
木の窓枠の隙間から射し込む朝日が、室内の埃を金色に照らす。地球では見慣れたはずの光景なのに、どこか異国的な香りを帯びていた。
「ふぁぁ……」
体を伸ばしつつ寝返りを打つと、隣の布団ではスピカが小さく丸まっていた。額の宝石が朝の光を受けて淡く輝いている。
「おーい、起きろスピカ」
「……んにゃ……もうちょっと……」
布団の中からくぐもった声。悠真は苦笑しつつ支度を整えた。
宿の食堂で簡単な朝食を済ませ、外に出れば街はすでに活気に満ちていた。
石畳の通りには露店が並び、焼きたてのパンの香りや、鉄鍋で揚げられる油の音が耳と鼻を刺激する。
行商人たちの威勢のいい呼び声に混じって、子どもたちが駆け回り、荷馬車が軋みを立てて進んでいく。
「……ほんと、異世界って感じだな」
悠真はきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。
スピカはというと、すでに悠真の鞄にすっぽり収まっており、しっぽだけがゆらゆらと揺れていた。
「人混みは嫌いだって言ったでしょ。早く用事を済ませなさいよ」
「はいはい……」
やがて、目の前にひときわ大きな建物が現れた。
他の木造の家屋に比べ、しっかりとした石造りで二階建て。入口には剣と盾を模した看板が掲げられ、出入りする人々の姿も目立つ。鎧や武器を身につけた者が多く、雰囲気は少し物々しい。
「ここが……冒険者ギルドか」
思わずつぶやいた悠真の胸に、ほんの少しの緊張と高揚が入り混じる。
スピカが鞄の中から小声で言った。
「ふふん、田舎者が大都会に来たみたいな顔して」
「いや、実際そうだからな」
深呼吸をひとつして、悠真は大きな扉へと手をかけた。
悠真が重厚な扉を押し開けると、途端にざわめきが耳を打った。
中は広いホールになっていて、木の梁と石壁が組み合わさった造りはどこか酒場のような雰囲気を漂わせている。
長机に座って談笑する冒険者たち、壁一面に貼られた依頼書、奥には酒や食事を出すカウンターまである。
視線が一斉に集まった。
見慣れぬ服装の悠真に、ちらちらと好奇心や探るような色が混じった視線が注がれる。
「……なんか、目立ってるな」
小声でぼやけば、鞄の中からスピカがくすっと笑った。
「当たり前よ。落ち人なんてすぐバレるわ」
少し居心地の悪さを覚えつつも、悠真は受付カウンターへ向かう。
そこには整った制服姿の若い女性が座っており、にこやかに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルド・トリネシア支部へようこそ。本日はどのようなご用件でしょう?」
言葉遣いは丁寧だが、その目は悠真の服装をさっと一瞥して、事情を察しているようだった。
「あー……俺、その……落ち人ってやつ、です。神殿の人にギルドに行けって言われて」
「なるほど。でしたら新規登録ですね」
女性はにこりと微笑み、手元の帳簿を取り出した。
「まずはお名前をお願いします」
「えっと、悠真。えーと、苗字も言ったほうが?」
「いえ、この国では名前だけで登録できますので」
すらすらと筆を走らせる受付嬢。
「では次に、登録料が必要となります。銅貨一枚です」
悠真は思わず固まった。
(あ、そういえば……お金あんまりなかったんだった!)
悠真はポケットから、神父に渡された革袋を取り出した。
中身を手のひらにざらりとあけると、銅貨が一枚だけ転がり出る。
「……あ、あぶねぇ……」
思わず声が漏れた。
昨日の宿代と、さっき露天でパンを買うのに使ってしまっていたのだ。まさか一枚残っているとは、まさにギリギリの幸運だった。
「もしなかったら、登録できなかったんじゃ……?」
冷や汗をかく悠真を、鞄の中のスピカが呆れ声で小さく囁く。
「ほんと、あなたって無計画ね」
受付嬢は事情を察した様子もなく、にこやかにその銅貨を受け取り、淡々と処理を進めていった。
悠真は胸を撫で下ろしつつ、心の中で「これで残りゼロじゃん……やば」と苦笑するしかなかった。
「確認いたしました。それでは……」
机の下から取り出されたのは、小さな金属製のプレート。片面にギルドの紋章が刻まれており、もう片面には名前を彫り込むための空欄とEと言う文字があった。
「これが冒険者証です。今からこちらに刻印を行いますね」
受付嬢が不思議な光を帯びた印章を押し当てると、空欄に「ユウマ」という文字が浮かび上がった。
「おぉ……」
思わず声を漏らす悠真に、鞄の中からスピカが小声で茶々を入れる。
「ふふ、魔法の刻印よ。珍しいでしょ」
受付嬢が説明を続ける。
「この証を提示すれば、街の外での活動や依頼の受注が可能になります。ランクは初期登録ですので一番下のEですが、依頼をこなせば昇格していきます」
「は、はい……」
悠真は少し緊張しながらも頷いた。
「えっと、じゃあさっそく……初心者向けの依頼って、ありますか?」
受付嬢はにこやかに頷き、横にある大きな掲示板を指し示した。そこには無数の羊皮紙が貼られており、討伐や護衛、採取に至るまでさまざまな依頼が並んでいる。
「依頼はこの掲示板に掲示されます。討伐や護衛が多いですが、初心者の方なら採取や荷運びがおすすめですよ」
悠真は掲示板を眺め、眉をひそめた。大半を占めるのは「○○の討伐」や「魔獣の巣の駆除」といった物騒な依頼ばかりだ。
「できれば……戦いたくないんですけど」
その一言に受付嬢は小さく笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙を差し出す。
「でしたら、この薬草採取はいかがでしょう。森の浅いところで手に入るもので、危険は少なめです」
「薬草……」悠真は依頼書を受け取り、首をかしげた。「見たことないけど、俺にできるかな」
「特徴をお教えしますね」
受付嬢は机の上に小さな図解を広げ、薬草の見分け方を丁寧に説明し始めた。葉の形や色、群生する場所――。
悠真は鞄から大学時代から愛用しているノートを取り出し、真剣にペンを走らせる。カリカリと紙を擦る音が、妙に静かな空間に響いた。
――と、その鞄の中から、ぼそりと小さな声が漏れた。
「……そのノート、本当に役に立ってるのかしら」
受付嬢は気づかないふりをしてくれているが、悠真は慌てて咳払いしながら答える。
「もちろん! ちゃんと書いておけば後で見返せるし、絶対便利なんだ」
鞄の中のスピカは「ふん」と鼻を鳴らした。けれど、その声色には微かに安心の響きが混じっていた。
説明を一通り聞き終えると、悠真は依頼書を胸に抱え込み、顔を明るくした。
「よし、じゃあ森へ行ってみよう!」
その瞬間、鞄が小さく揺れて、中から呟きが漏れる。
「……また面倒ごとに首を突っ込みそうな予感しかしないわ」
街を出るまで、彼女は大人しく鞄の中にいるつもりらしい。
街の門を抜けると、石畳は途切れ、土の道が遠くまで続いていた。
両脇には草原が広がり、ところどころ小さな林が点在している。悠真は深呼吸をし、胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。
「やっぱり街の中より空気がきれいだな……」
鞄の中がもぞりと揺れる。
「ふん、ようやく出られるわね。人混みは落ち着かなくて嫌いよ」
次の瞬間、スピカはするりと鞄から抜け出した。どう見ても小さな鞄には収まりきらないはずなのに、まるでそこが彼女のための隠れ家であるかのように、ぴたりと収まっていたのだ。悠真は不思議そうに鞄を見つめる。
「……やっぱりどう考えても、物理的に無理あるよな。どんな仕組みなんだ?」
「気にするだけ無駄よ。私が入れるってことが事実なんだから、それでいいじゃない」
スピカはつんと顔をそむけ、陽光を浴びる草原を軽やかに跳ねていく。額の宝石がきらりと光り、まるで道案内をしているかのようだ。
やがて道は森の入口に差しかかった。鬱蒼とした木々が生い茂り、街道から少し外れるだけで薄暗くなる。鳥のさえずりや虫の声が響き、さっきまでの明るい草原とは空気が一変している。
「……うわ、本格的に森って感じだな」
悠真は鞄からノートを取り出し、薬草の特徴が書かれたページを見返す。
「えーっと、葉っぱが細長くて、縁が少しギザギザしてて……群生して生えるんだよな」
「ふふ、ちゃんと覚えてるじゃない。少しは役に立つみたいね、そのノート」
「お、珍しく褒められた!」
「褒めたんじゃないわ。事実を言っただけ」
口では冷たく言いながらも、スピカのしっぽがゆらゆらと楽しげに揺れていた。
「よし、じゃあ薬草探し、スタート!」
悠真は気楽にそう宣言すると、まだ見ぬ森の奥へと一歩を踏み出した。
森に一歩踏み入れると、木々の枝葉が頭上を覆い、涼やかな木陰が広がった。
湿った土の匂い、草の擦れる音、小さな虫の羽音――森は生きていると実感させられる空気に満ちていた。
「えーっと、この辺りに生えてるはずなんだけど……」
悠真は腰をかがめ、地面を注意深く探る。葉の形や色をノートと照らし合わせ、ひとつひとつ確認していく。
「違うな……これも違う……」
そんな悠真の横で、スピカは木の根元にちょこんと座り、しっぽをゆらゆらさせながら見守っていた。
「ほら、少し左。群れて生えているのが見えるでしょう?」
「おお、ほんとだ! ありがとうスピカ!」
悠真は教えられた場所に近づき、薬草を一株丁寧に抜き取った。根が傷まないように土を払う手つきは、ぎこちないながらも慎重だった。
「……意外とやるじゃない」
「ふふん、伊達に生物観察ノートつけてないからな!」
「その得意げな顔、何度見ても腹立つわね」
軽口を交わしながら、二人は森の奥へ進んでいく。やがて、木々の隙間からきらめく光が差し込み、耳に水のせせらぎが届いた。
「川だ……」
悠真は小走りに進み、木々を抜けた。そこには清らかな川が流れており、水面に反射した光が森の緑を柔らかく照らし出している。
「きれいだな……」
感嘆する悠真の視線の先、川辺の茂みの近くに、何かが動いた。
小柄な生き物。透き通るような薄青の羽を背に持ち、白い毛並みを揺らして水辺に口をつけている。
「……幻獣?」
悠真が思わず声を漏らす。
その瞬間、生き物はぴくりと耳を立て、ゆっくりと振り向いた。宝石のように澄んだ瞳が、まっすぐこちらを見つめる。
――静かな森の中、互いの視線が交差した。




