35.空の彼方、古の囁き
朝の光が海面にきらめき、波の音が街の喧騒にまじって聞こえてくる。ヴォルクの港は今日も活気にあふれ、漁師たちが網を干し、行商人が船へと荷を運び込んでいた。
その喧騒の少し外れた高台で、悠真たちは出発の準備を整えていた。ノクスの黒い毛並みが潮風を受けて揺れ、アズールが羽を小さく震わせている。スピカは背の宝石をきらきらと輝かせながら、海を見下ろしていた。
「もう行くのね」
スピカの声はどこか名残惜しげだった。
「あぁ、王都まで少し距離があるし、途中で寄るところもあるかもしれない」
悠真は背の荷を軽く叩いて笑った。
ノクスの背に乗り、アズールが先導するように空へと舞い上がる。潮の香りが遠ざかり、街の喧騒が小さくなる。眼下には、青く広がる海と、白い波を受け止める岩肌。空気は澄み、どこまでも見渡せそうだった。
『主、気持ちのいい風だな』
ノクスの声が頭に響く。
「うん、やっぱり空の旅はいいな」
そうしてどれほど飛んだだろう。緑の森を抜け、丘を越えた先に、奇妙な光景が見えてきた。森の中に、石造りの柱が林立している。陽を受けて鈍く光るその姿は、まるで時間に取り残された記憶の断片のようだった。
「あれ……遺跡?」
悠真が目を細めると、アズールが甲高く鳴いて輪を描くようにその上を飛ぶ。
「どうする?」とスピカが尋ねる。
「ちょっと見てみよう。休憩も兼ねて」
ノクスがゆっくりと高度を下げ、草に覆われた遺跡の中庭へと降り立つ。風の音が静まり、そこには、かすかに光る紋様が刻まれた石の扉が佇んでいた。
――新たな発見の予感が、悠真の胸に静かに広がっていった。
───
遺跡の中は、思ったよりも静かだった。
崩れた柱の間を風が抜け、どこからともなく水滴の音が響く。苔に覆われた床を踏むたび、湿った音が小さく返ってきた。
「古いわね……。でも、まだ生きてる」
悠真が壁に触れると、淡い光がその指先から波紋のように広がった。
壁の模様が一瞬だけ明滅し、まるで応えるように紋様が輝く。
「これ、魔力反応か?」
『主、奥からも同じ気配を感じる』
ノクスが耳をぴくりと動かし、黒い尾をゆらす。
悠真たちは慎重に進んだ。
天井は低く、ところどころで崩れた岩が道を塞いでいる。アズールは肩の高さで羽を休めながら、時おり前方を照らすように光を放った。
奥へ進むと、小さな空間が開けていた。中央には円形の台座があり、その上に透明な鉱石が静かに浮かんでいる。薄い水色の光が部屋を照らし、幻想的な雰囲気を作り出していた。
「きれい……!」
スピカが思わず目を輝かせる。
悠真は慎重に台座へ近づき、観察を始めた。
遺跡の奥は、息をひそめたように静まり返っていた。
石壁に刻まれた模様は長い年月を経て摩耗していたが、そのひとつひとつが淡く光を帯び、まるで誰かの記憶を宿しているかのようだった。
悠真は足を止め、指先でその文様をなぞる。
星々が線を描くように広がった文様は、やがてひとつの“樹”の形を浮かび上がらせた。
「……これは、世界樹の図?」
スピカの声が、かすかに反響する。
『まるで祈りの記録みたいだな』
ノクスが呟いたその時、悠真の手のひらから光が吸い込まれていった。
瞬間、視界が白に染まる。
――光の中で、世界が反転した。
広大な空を、無数の幻獣が舞っていた。
風に乗る羽音、きらめく鱗、轟く咆哮――それらのすべてが音楽のように響き合い、地上では人々がその光景を見上げて祈っていた。
その中央に、一人の“人”が立っている。
白衣をまとい、胸元にはスピカとよく似た宝石が輝いていた。
その人物は静かに口を開いた。
――〈共鳴者とは、心の律を持つ者。幻獣と世界の間を繋ぐ“調律者”なり〉
その声が悠真の胸の奥で反響し、光が身体の内へ流れ込んでいく。
暖かく、それでいて、懐かしい。
まるで遠い昔、自分もそこにいたような錯覚に包まれる。
やがて光は薄れ、足元に現実が戻ってきた。
スピカが心配そうに顔を覗かせる。
「悠真?……いま、何か見えたの?」
「……ああ。幻だったのかもしれないけど、“共鳴者”の記憶を見た気がする」
そう言いながら見上げると、崩れかけた天井の中央に円環の文様が刻まれていた。
世界樹を囲むように、人と幻獣が輪になっている――それは確かに、“共鳴”の象徴だった。
悠真が呟く。
「この遺跡、昔の共鳴者たちの拠点だったのかもしれない……」
スピカが静かに頷く。
「あなたがここに導かれた理由、少しわかった気がするわ」
その瞬間、中央の台座に置かれた透明な鉱石がふわりと浮かび上がった。
淡い光がスピカの額の宝石と共鳴し、ひとつに溶け合う。
光が消えると、空気が澄み渡ったように感じた。
どこかで風が囁く――“また会おう”と。
悠真は深く息を吐き、静かに呟いた。
「……やっぱり、この世界はまだ、俺の知らないことだらけだな」
遺跡を出ると、空はすでに夕暮れ色に染まっていた。
西の空で沈みゆく太陽が、雲を黄金に染め上げ、遠くの海面までも赤く輝かせている。
スピカがその光を受けて、毛並みをきらきらと揺らした。
「……綺麗ね」
「ああ。こんなに空が赤く見えるのは久しぶりだ」
悠真は目を細め、遺跡を振り返る。
崩れかけた石壁の中で、まだ淡く光が脈打っていた。
まるで“また来い”と呼びかけるように。
『主、行こう。風が穏やかだ。飛ぶには良い夜になる』
ノクスが首をふり、翼を広げる。
その背に悠真とスピカが乗り込むと、ノクスはゆっくりと助走をつけて跳び上がった。
風を切る音。
夕暮れの空気が頬を撫で、遠ざかる地上が淡い影になっていく。
「ねぇ、悠真」
スピカが小さく声をかけた。
「この空、あなたの世界の空と似てる?」
「……そうだな。似てるけど、違う気もする」
「違う?」
「うん。俺のいた世界の空は、ただの景色だった。でもこっちの空は……生きてるように感じる」
そう言うと、スピカは嬉しそうに尻尾をふる。
「それはきっと、この空が“幻獣と人が見上げた空”だからね」
ノクスが静かに翼を傾けると、眼下に広がるのは大地を縫うように走る街道と、点々と続く灯の列だった。
あれが王都へと続く道。
そしてその先、夜の闇の中にぼんやりと浮かぶ光の海――王都の城壁が見えた。
『……あれが王都か』
「うん。思ってたよりもずっと大きいな」
高くそびえる塔、環状に広がる街区、その外縁には無数の魔導灯が並び、まるで星座のように輝いている。
アストリア――王国の心臓とも呼ばれる都。
悠真は息をのんだ。
ついにたどり着いた。
ここから、自分たちの新しい物語が始まるのだと。
スピカが小さく呟く。
「……ようやくね」
風が夜の空を流れ、三人を包み込む。
その風はどこか優しく、まるで遺跡で出会った“古代の声”が彼らを導いているかのようだった。




