33.潮の呼び声
翌朝。
港町ヴァルクの朝は、潮の香りと船の軋む音から始まる。
海鳥たちの鳴き声が空を渡り、漁師たちが網を担いで通りを行き交っていた。
悠真はその喧騒を横目に、街の中央にあるギルドへと向かっていた。
建物は白と青を基調にした石造りで、正面には波を模した紋章。森の中で見てきたギルドとはまるで違う。
「ここがヴァルクのギルドか……」
人の多さに少し驚きながらも、悠真は一歩中に入る。
――その前に。
スピカが鞄の縁からひょこっと顔を出した。
「ねぇ、入る前に言っておくけど、人が多いところは苦手だから、今日はここで大人しくしてるわ」
「了解。無理はしなくていいよ」
スピカは「助かる」と言って、もふりと鞄の奥へ潜り込んだ。
扉を押し開けると、中は朝から大賑わいだった。
潮焼けした冒険者たちが大声で笑い、酒ではなく塩水入りの水筒を掲げている。壁一面に貼られた依頼書の数も圧巻で、港町らしい活気が満ちていた。
悠真は足を止め、依頼掲示板を静かに眺めた。
貼られた紙の多くが、海にまつわるものばかりだった。
――「沈没船の調査」
――「港近くに出た海魔の討伐」
――「潮騒洞窟での真珠採取」
――「沖の孤島に光る花の採取」
(やっぱり、内陸とは全然違うな)
悠真は心の中でつぶやきながら、一枚の依頼書に目を留めた。
──『干潮時限定・海底洞窟での特殊鉱石採取』。
説明文にはこうある。
満潮のときには完全に海中に沈む洞窟「蒼晶洞」。干潮のときだけ姿を現し、その奥では“潮光鉱”という珍しい鉱石が採れるという。
悠真は依頼書を手に取り、ぼそりと呟いた。
「潮光鉱……海の中でしか採れない鉱石か。面白そうだな」
鞄の中から、スピカの小さな声がした。
「また観察記録が増えるわね。海の鉱石なんて、滅多に見られないわよ」
「ああ、せっかくだし記録しておきたい」
受付カウンターに依頼書を持っていくと、明るい髪色の受付嬢が笑顔で対応してくれた。
「蒼晶洞の採取ですね? 今朝から潮が引いてますから、いいタイミングですよ。ただ、潮が満ちると完全に閉じ込められますので、お気をつけて」
「了解です」
悠真は礼を言ってギルドをあとにした。
外に出ると、ノクスとアズールが待っていた。
ノクスは鼻を鳴らし、潮風を吸い込んでいる。
「依頼は決まった。海の下の洞窟で鉱石採取だ」
アズールは短く鳴き、翼を広げて海の方を見た。
「よし、行こうか」
悠真は小さく伸びをしながら言った。
海の光がまぶしく、空気には塩の香りが満ちている。
――海辺の洞窟。干潮のあいだだけ現れる、潮光鉱の眠る場所へ。
潮が引いた浜辺に、波の名残が銀の縁を描く。
風が塩を運び、陽光が岩の隙間に沈んでいくように揺れた。
「ここが“蒼晶洞”か……」
悠真は浅瀬を渡り、波打ち際の裂け目をのぞき込む。
青い光が中からゆらゆらとこぼれ、洞窟の奥を幻想的に照らしていた。
鞄の中からスピカが顔を出し、光の揺らめきを見て感嘆の息をもらす。
「潮光鉱ね。海の魔素を吸って光る鉱石よ。干潮のときしか掘れないわ」
「なるほど、だから時間指定の依頼なんだ」
岩肌にはところどころ光の筋が走り、壁全体が静かに呼吸しているようだった。
ノクスは足元の潮だまりを覗き込み、尾を小さく振る。
そこには、小魚のような小さな幻獣が泳いでいる。身体の輪郭は透き通り、光の粒が尾にまとわりついていた。
『主、この光る子ら……小さき潮の精か?』
「かもな。海の幻獣も綺麗だな」
「海幻獣の幼体なんて滅多に見られないわよ」
悠真は頷き、濡れた手でノートを開き、ページに光が映り込む。
波音と筆の音が重なり、洞窟全体が静かな鼓動を刻んでいた。
潮光鉱を数個採取し終えると、スピカが海の方へ視線を向けた。
「……そろそろ潮が満ちてくるわ。引き上げましょう」
「了解」
悠真は袋を肩に掛け、洞窟の外へと歩み出る。
海風が頬をなで、遠くの水平線が金色に光った。
「潮光鉱の採取、完了。記録に――」
そう言いかけたとき、スピカが耳を動かし、表情を曇らせた。
「今の、聞こえた?」
風に混じって、かすかな叫びと木の軋む音。
悠真が顔を上げると、沖合いに小さな帆船が見えた。
船体が大きく傾き、甲板の上では人影が慌ただしく動いている。
そのすぐ横――海面の下に、不穏な影が蠢いていた。
次の瞬間、轟音とともに水柱が立ち上がる。
海を割って姿を現したのは、青黒い鱗をもつ巨大な蛇のような影。
「シーサーペントね」スピカが呟く。
陽光を浴びたその体は金属のように光を反射し、うねるたびに波が荒れ狂う。
悠真の喉が鳴った。
「あの船……襲われてる!」
『主、助けに行くのだな』
「ああ。放っておけない」
スピカはため息をつきながらも微笑む。
「やっぱりそう言うと思った」
悠真はノクスの背に飛び乗り、スピカを抱えた。
「行こう、ノクス!」
『了解だ、主!』
黒い翼が風を裂き、砂を巻き上げる。
波打ち際から宙へと舞い上がると、潮風が顔を叩いた。
荒れる海、沈みかけた船、暴れる海蛇。
悠真たちは青い空を切り裂いて、その渦中へと飛び込んでいった。
ノクスの背に乗って海へ向かう途中、青い閃光が視界の端を走った。
「アズール!」
空の高みで旋回していたアズールが、悠真たちに気づいて翼を傾ける。
蒼い鱗が陽光を反射し、海風を裂くように滑空してくると、悠真たちの横を並走した。
「……それにしても、なんだか様子がおかしい」
沖合いの船は確かに危機にあった。
しかし――近づくにつれ、違和感がはっきりしていく。
シーサーペントは船を襲ってはいなかった。
巨大な体をくねらせ、海面をぐるぐると回り、海そのものをねじるように渦を作っている。
渦が船を包み込み、外へ逃がさない。まるで、逃げ道を塞ぐ檻のように。
「攻撃していない……? なんで……?」
悠真が呟くと、スピカが眉をひそめた。
「ただの暴走には見えないわ。何か“理由”がある」
その瞬間――
『──かえして!!』
声が、確かに聞こえた。
風でも、波音でもない。胸の奥を直接叩くような、悲痛な叫び。
悠真は思わず周囲を見回す。
「今の……聞こえたか!?」
『……ああ、主。女の子の声のようだった』
スピカが頷く。
「これは……心声ね」
悠真の喉が詰まる。
――かえして。
その言葉が何度も脳裏にこだまする。
見下ろす海の中、渦の中心で、何かが光っていた。
揺らめく光の塊――まるで、閉じ込められた魂のように。
「スピカ、ノクス。アズールも。渦の中心に行くぞ!」
悠真に応えるようやなノクスが翼を大きく広げ、潮風を切る。
海面を走る白い飛沫が、陽光の中できらめいた。
波の怒号と悲痛な声が混じり合う中、悠真たちは、渦の中心――その“叫び”のもとへ向かって突き進んだ。
その声は、悠真の胸の奥を震わせた。
けれど、アズールはきょとんと首を傾げている。
『主……今の声、また聞こえた』
「やっぱりノクスにも?」
『ああ、でもアズールは聞こえていないようだ』
「それはつまり――」
スピカが静かに言葉を継ぐ。
「共鳴している私たちだけに届いているのね。……この声、強い“願い”の波を帯びてる」
ノクスが海面すれすれを飛びながら渦の周囲を回ると、泡の中にほのかな光が揺らめいているのが見えた。
透きとおるような水の精。掌に収まるほどの小さな存在が、涙のような光をこぼしながら、渦の縁に漂っていた。
「……精霊?」
「そうね、海の精霊だわ」スピカが頷く。「でも、かなり怒ってるみたい」
精霊の身体が小刻みに震える。
そして、また響く――
『かえしてよ!!』
その視線の先は、渦の中の船だった。
悠真は眉をひそめ、唇を噛む。
「……まさか、あの船の乗組員が、精霊の“何か”を奪ったってことか?」
『主、どうする?』
「行く。確かめないと」
ノクスが翼を広げ、潮風を裂いた。
スピカの白い光が悠真の肩で揺らめき、アズールが上空から警戒を続ける。
波しぶきが顔を打つ中、悠真たちは渦の中心――船へと向かった。
船の甲板には、人影が動いている。
精霊の悲鳴のような波のうねりが、ますます激しくなっていた。




