28.檻の囁き
短い休憩を終え、男たちは再び荷馬車を押し出した。
森の奥へと続く細い道はぬかるみ、木々の枝が行く手を遮る。だが、彼らの足取りには迷いがなかった。慣れた手つきで馬を操り、軋む車輪の音を最小限に抑えながら進んでいく。
「もう少しで着く。日が沈む前には戻れるはずだ」
先頭を歩く大柄な男がぼそりと呟く。背中には黒鉄の剣、腰には獣を縛るための鎖が下がっている。
「さっきのガキ狼、意外と高く売れるかもな」
「へっ、あんなちびでも“幻獣”ってだけで金になる。珍しい毛並みならなおさらだ」
「無事に届けりゃな。前の連中みたいに逃がしたら首が飛ぶぞ」
笑いともため息ともつかない声が、湿った空気の中に消えていった。
やがて木々の間から、苔むした石壁が姿を現す。崩れかけた古い建物――しかし、所々に打ち直された鉄の扉や魔導灯の微かな光が、そこがまだ“生きている”ことを物語っていた。
「着いたな。さっさと運び込め」
合図とともに、二人の男が荷台の布をめくる。
中で縛られた小さな白い狼が、怯えた瞳で彼らを見上げた。
「へへ、静かにしてろよ。ここが、お前の新しい檻だ」
荷馬車は再び軋みを上げ、森の奥に消えていった。
その気配を、遠くの木陰から悠真達がじっと見つめていた――。
薄暮が森を覆い、建物の魔導灯の淡い光だけが周囲を照らしていた。
悠真はノクスの背で息を殺し、洞窟での乱入以来の緊張を胸に抱えていた。スピカは小さく唸りながらも悠真の肩にしがみつき、アズールは低く羽を震わせて辺りの気配を探る。
「ここから先は、音を立てずに行くわよ」
スピカの声も小さく、だが確固たる命令だった。悠真はすっと頷き、ノクスの首筋に手を添える。大柄な魔獣ノクスはゆっくりと一歩ずつ、草を踏みしめる音さえ最小限に抑えて進んだ。
建物の壁は苔と蔦に覆われているが、鉄の扉は新しく補修され、ほんのりと魔力が滲んでいる。入口脇には魔導灯が一つ――近づくと燈は静かに揺らめき、薫るような油の匂いと冷たい金属の臭いが混ざった。悠真は小さく息を呑んだ。中には複数の人間がいるはずだ。
アズールが高く舞い上がり、天井の窓から中を覗き込む。羽の隙間から差し込む月光が、屋内の配置を白く浮かび上がらせた。中央の広間には長い木の台が置かれ、その脇に幾つもの檻が並んでいる。檻の中には布や網がかけられ、時折小さく鳴き声が漏れてくるのが見える。奥の部屋では人影が二つ、何かを運び込んでいるようだ。
スピカが耳元で囁く。
「あれは……魔力抽出用の器具かもしれない。幻獣からの魔力で建物全体の結界と、幻獣を弱らせることを兼ねているようね」
言葉の意味が悠真の胸を締めつける。あの檻の中の幼い狼のことが頭をよぎり、怒りが自然と熱を帯びるが、今は理性を優先するべきだ。
ノクスを物陰に回して入口の死角から回り込む。悠真とスピカは壁に張り付くようにして、窓格子の一つを静かに外した。アズールが外した格子を受け取り、鼻先でそっと差し入れた。中の空気は鉄と湿り気、それから薄い薬草の匂いが混じっている。人の話し声が遠くで途切れ途切れに聞こえる。見張りの姿は見えないが、歩哨が交代で廊下を巡回している可能性がある。
「いくつか行動を分けましょう」
スピカの声は低く、実務的だ。
「結界は私に任せて。悠真は檻の位置を確認して、脱出させる方法を探して。ノクスは搬入口を確保、アズールは上空からの合図。音が出たら即撤退よ」
悠真は息を凝らして頷いた。心臓の鼓動が耳に響く。だが、その音は次第に落ち着きを取り戻し、代わりに観察の目線が研ぎ澄まされていくのを感じた。
スピカが小さく前足を動かすと、その先から淡い光が漏れ、床の魔力を撫でるように流れ始めた。瞬間、檻の周囲に刻まれた紫の線がゆらりと反応し、ふっと消えた。封印帯の一部が中和されたのだ。だが、完全に解除するには時間が必要そうだ。作業中に人の足音がしたら終わりだ。
悠真は格子越しに檻の中を覗く。そこには、幼狼のほかにも小柄な角シカの子、半透明の小さな蛾の群れのようなもの、貝殻のような甲殻を持つ小動物が押し込められていた。どれも怯え、体力を失いつつある。毛や羽に白い粉(魔石の粉か何か)が付着している個体もいて、魔力を削り取られ弱っていた。
スピカは結界の一角をさらに溶かし、窓の留め具が軋む音も聞こえないように外していった。
だが、その時だった。遠くの廊下で、誰かの足が止まる。木板がかすかに軋む音が、風よりも静かにこちらへ迫ってきた。アズールが羽をきゅっと引き寄せ、ノクスが小さく唸る。スピカの顔が一瞬引き締まった。
「来た。気配を消して」
彼女の一言で、一行は息を潜めた。足音は廊下をすり抜け、やがて広間の方へ向かう。だがそれは、一人だけではない。遠ざかるはずの物音が、代わりに増えていく気配がした――複数だ。
悠真は檻の中の生き物たちの顔を一つ一つ見返す。助けたい。だが、今は焦ってはいけない。彼は深呼吸をして、次の動きを待った。
暗がりの中、月光が一瞬だけ彼らを照らした。外套の影が長く伸び、森の奥の建物は静かに、だが確実に息をしているようだった。
足音は戻ってくる。――そして、廊下の先、扉の陰で人影が二つ、揺れた。
足音が近づく。
廊下の角から現れたのは、粗末な鎧を着けた二人の男だった。肩には擦れた紋章布。手にはランタンと短剣を持っている。明かりが檻の列を照らすと、光に怯えた幻獣たちが小さく身をすくませた。
「……まだ動いてやがるな」
ひとりが檻を棒で軽く突く。中の角シカがびくりと跳ねた。
「やめとけよ。傷つけたら値が下がるだろうが」
もう一人が面倒くさそうに言いながら、ポケットから何かを取り出して数える。
「引き取りの時間まで、あとどのくらいだ?」
「日がもう一回沈むくらいだな。今夜はこのまま保管だ」
「マジかよ……こいつら暴れたらたまんねぇ。前の時みたいに薬、増やして撒いとけよ」
「わかってるって。ったく、貴族連中もよく飽きねぇよな。翼のはく製だの、角の首飾りだの。バカみてぇな趣味しやがって」
「でも、金にはなるんだろ?」
「……まぁな」
二人の笑いが、湿った空気の中に濁って消えた。
彼らの靴音が奥の扉の前で止まる。
片方の男が眉をひそめ、ぼそりと呟く。
「あいつはどうするんだ?」
もう一人が振り返り、短く息を吐く。
「あれは……俺たちじゃ手ぇ出せねぇ。ボスも『触るな』って言ってたろ。
取引先か、上の連中が来るまで閉じ込めとくしかねぇ。下手に近づいたら喰われるぞ」
男たちが話を終え、奥の扉をちらりと見てから部屋を出ていった。
扉が閉まる音とともに、静寂が戻る。
その時――ひらりと、ひとつの金属の光が床に落ちた。
腰につけていた鍵束を、男の一人が落としていったのだ。
悠真は息をひそめて待つ。足音が完全に遠ざかるのを確認してから、窓の外のスピカとアズールに小さく合図を送った。
「……今だ」
スピカが前に出て、尾をひと振り。
淡い光が結界を溶かすように広がり、窓を包む。
音もなく結界がほどけると、アズールが先に中の様子を確認した。
危険がないと判断し、悠真は静かに窓から身を乗り出して中へ。
落ちていた鍵束を拾い上げる。
「助かった……これがあれば檻を開けられる」
部屋の中はひどく暗く、湿った空気と鉄の匂いが混ざっていた。
檻がいくつも並び、中には小さな幻獣たちが怯えたように身を寄せ合っている。
悠真は膝をつき、そっと声をかけた。
「大丈夫。怖くないよ、今、助けるからね」
鍵束を灯りにかざし、一つひとつ試していく。
カチリ、と錠が外れるたび、閉ざされた小さな命が光を取り戻していった。
恐る恐る出てきたのは、羽の折れた小鳥の幻獣だった。
悠真の手の上で小さく鳴き、震える。
「大丈夫。もう檻の中じゃない」
優しく撫でて床へ降ろすと、スピカが尾でその体を包み、治癒の光を流した。
光を浴びた小鳥は羽をぱたぱたと震わせ、淡い輝きを取り戻す。
アズールが静かに歩き回り、他の檻の前に立つ。
その仕草を見て、悠真はうなずいた。
「そこも開けるね」
鍵束を使い、次々と錠を外していく。
傷ついた狐、角の折れた鹿、光を失った蝶のような幻獣たち――みな一様に怯えていたが、檻を出るたびに少しずつ色を取り戻していく。
「これで……全部かな」
最後の鍵を外したとき、悠真は立ち上がって辺りを見回した。
だがスピカが尾をぴんと立て、低く唸る。
アズールも翼を半ば広げ、奥を警戒している。
悠真はその視線の先――部屋の一番奥にある鉄扉を見た。
厚く封じられた扉。そこだけ空気が重く、淡い光が脈打っている。
「……まだ、残ってたな」
悠真は鍵束を強く握りしめ、扉の前へと歩み出した。




