3.落ち人へ告げられた啓示
ルーメンの街の石造りの門が、間近に迫ってきた。近づくにつれて、悠真は自然と口を開けて見上げてしまう。
高く積み上げられた灰色の石壁、門前に集まる商人や旅人たち。荷馬車の軋む音や、人々の活気ある声が絶え間なく響き合い、村では感じられなかった熱気が漂っていた。
「すごいな……。なんか、ゲームで見た街そのものだ」
胸が高鳴る。門を潜るだけで、何か特別な世界へ足を踏み入れたような気分になる。
石畳の道に踏み込んだ瞬間、さらに目を奪われた。
左右には木造や石造りの店が立ち並び、香辛料や果物、布地や小物を並べる露店が賑わいを作っている。行き交う人々の服装は村人たちよりもずっと多彩で、行商人の言葉どおり、魔法で動くランプや冷気を放つ箱のようなものも目についた。
「へぇ……こういう風に、魔法って日常に使うんだな」
悠真がきょろきょろと見渡していると、行商人がふと口を開いた。
「なぁ、あんた――落ち人だろう?」
「え?」
唐突な指摘に悠真は目を瞬かせる。
行商人は苦笑しながら彼の服を指差した。
「最初に見た時から思ってたんだ。見慣れない布地と仕立てだろう? 街じゃそういう格好は誰もしない。……だから、落ち人だと思ったんだよ」
「あ、そうなんだ……」
どう返すべきか迷ったが、嘘をつく理由もない。悠真は素直に頷いた。
「だったら、この街にある神殿に行くといい。大きな神殿じゃないが、落ち人について詳しいのは神殿筋だ。神父さまが一人いらっしゃるから、きっと話を聞いてくれる」
そう言って、行商人は手綱を軽く鳴らした。
「ここまで世話になったな。俺は広場で店を開くから、用があれば探してみな」
「こちらこそ助けてくれてありがとうございました!」
互いに手を振り、悠真は賑わう街道へと足を踏み出した。
その時、鞄がぐらりと揺れる。
「……お、おい。何やってんだ、スピカ」
視線を落とすと、ショルダーバッグの口から白い尻尾がぴょこんと飛び出していた。どう見ても体全体は入らないはずなのに、スピカはすっぽりと収まっている。
「人混みは嫌いなの。静かにしててちょうだい」
中からそっけない声が響き、白い尻尾がぱたぱたと揺れた。
「いやいや……どうなってんだこれ。魔法のカバンとかじゃないのに……」
悠真は半ば呆れつつ、周囲の人に怪しまれないようにバッグの口を軽く押さえた。
街の中心部へ歩き出すと、悠真の視線はあちこちに吸い寄せられた。
香ばしい匂いを漂わせる屋台では、こんがり焼けた肉串が並んでいる。見たことのない果物を切り分けて売る露店もあれば、ガラス細工のように光を反射する小瓶を並べる商人の姿もあった。
「わぁ……うまそう……。それに、なんだこれ、見たことない果物だ……」
足が自然と止まる。腹の奥がぐぅと鳴った。
だが次の瞬間、悠真はハッとした。
「――あれ? 俺、お金……一枚も持ってないじゃん」
気づけば肩が落ちる。財布はポケットにあるが、中にあるのは異世界では使えない日本の小銭とカードだけ。さっきまでの胸の高鳴りがしゅるしゅるとしぼんでいく。
「……これからどうにかしてお金稼がないとなぁ」
独りごちる声は、屋台の喧騒に紛れて誰の耳にも届かなかった。
気を取り直して歩き出すが、ふと重大なことに思い当たる。
「……あれ? 俺、神殿ってどこにあるか聞いてなくない?」
立ち止まり、辺りを見渡す。人混みの中、目印らしきものは見当たらない。
「……本当にバカね」
肩の鞄から、スピカがひょっこりと顔を出した。尻尾をぱたんと振り、呆れ顔で悠真を見上げる。
「だ、だって、あの行商人すぐ行っちゃったし……」
「言い訳する前に、誰かに聞けばいいでしょう?」
「そりゃそうだな」
悠真は近くにいた年配の女性に声をかけた。驚いたように振り返った彼女は、落ち人らしい不思議な格好の青年を一瞥し、にこりと微笑む。
「神殿ならこの先を右に曲がったところですよ。広場からそう遠くありません」
「ありがとうございます!」
頭を下げて礼を言い、言われた通りに進んでいくと、やがて視界の先にそれらしい建物が現れた。
「小さい」と聞いていた神殿は、悠真が想像していたよりも立派だった。
ただし豪華さはなく、白い石を積んで作られた質素な造りだ。装飾も控えめで、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「……なんか、思ったよりちゃんとしてるな」
悠真はしみじみと呟き、その前に立ち止まった。
神殿の正面に立つと、スピカが鞄の中からちらりと顔を出し、小さく呟いた。
「……妙に静かな建物ね。街の喧騒から切り離されてるみたい」
確かに、つい先ほどまで屋台の声や馬車の音で賑わっていた街道が、神殿の前では不思議と遠ざかって感じられた。
悠真は少し緊張しながら扉を押し開ける。
中は質素ながらも清潔で、外観以上に静けさが満ちていた。高い窓から差し込む光が、床の石を柔らかく照らしている。
その奥に、一人の初老の神父が立っていた。白い法衣に身を包み、静かな眼差しで悠真を迎える。
「……落ち人の方ですね」
神父の口から出た言葉に、悠真は眉を下げて少し笑う。
「やっぱり服ですか? 目立つんですかね?」
「その装いはこの世界のものではありません。街へ来る旅人の中でも、あなたのような者はそう多くはないのです」
神父はゆっくり歩み寄り、祭壇の前に座るよう促した。
「落ち人とは、世界に時折現れる存在。我らの理解を超えた“神の采配”により、この世界へ送られてくるのです。そして……落ち人はみな、神から一つの“力”を授けられると言われています」
「力……ですか」
悠真は思わず呟き、首を傾げる。
「はい。たとえば――過去には“剣を持てば誰にも負けぬ”とまで言われた者や、“どんな病をも癒す手”を持った者もいました」
「……すごいな、それ」
「すごいでしょう?」神父は穏やかに微笑む。「さて、あなたはどんな力を持っていますか?」
「……えっと」
悠真は腕を組み、考えてみたが……何も思い当たらない。
「俺には……特に、そういうのは無い気がします」
真面目に答えるその姿に、神父は少し笑みを深めた。
「今はまだ気づいていないだけかもしれません。そのうち、はっきりとわかる日が来るでしょう」
その時だった。神父の視線が、悠真の肩掛け鞄へと向けられた。そこから小さな尻尾がぴょこんと覗いている。
神父は目を細め、驚きと共に静かに言葉を漏らす。
「……カーバンクル……? このように人と共にいるなど、聞いたことがありません」
悠真が慌てて鞄を少し開くと、中からスピカが不満げに顔を出した。
「……別にいいでしょ」
その光景を見た神父は、深く頷いた。
「やはり……。あなたの傍に幻獣がいること自体、特別な意味を持っているのかもしれません。おそらく、あなたの力は――その存在に関わっているのでしょう」
悠真は呆気にとられながらも、首をかしげる。
「俺の力が……スピカに?」
「断定はできません。ですが、可能性は大いにありますよ」
そう言って神父は、祈るように胸の前で手を組んだ。
話が一段落すると、神父はゆっくりと椅子に腰を下ろし、真剣な眼差しで悠真を見つめた。
「さて。あなたがこの街で生きていくには、まず生活の基盤を整えることが必要でしょう。おすすめは、冒険者ギルドか商業ギルドに登録することです」
「……ギルド、ですか」
悠真は首を傾げる。ゲームや本の中でしか聞いたことのない言葉に、少し胸が高鳴った。
「はい。冒険者ギルドは依頼を受けて生計を立てる組織です。魔獣の討伐だけでなく、採集や護衛といった仕事も多くあります」
「討伐はちょっと……」悠真は渋い顔をした。「動物とか魔獣を、できれば倒したくないんです」
「……なるほど」神父は静かに頷く。「それなら商業ギルドで働くのも良いでしょう。ただ、冒険者ギルドでも討伐以外の依頼は数多くあります。選択肢を広げておく意味でも、一度は覗いてみて損はありません」
「なるほど……じゃあ、とりあえず冒険者ギルドに行ってみます」
悠真がそう答えると、神父は安堵したように微笑み、立ち上がった。
そして祭壇の横の小箱から小さな布袋を取り出し、両手で差し出す。
「これをお持ちなさい」
悠真は受け取り、袋の中を覗いてみる。銀貨と数枚の銅貨が、からん、と音を立てた。
「……お金?」
「はい。落ち人には、国からささやかな餞別金が渡される決まりになっています。過去にこの国の王妃となった落ち人がいたのです。彼女もまた、この世界に来てすぐに苦労を重ねたそうで……その経験から、この制度が生まれました」
「へぇ……王妃にまでなった落ち人がいたんだ」
悠真は驚きつつ、袋の重みを改めて感じる。
「多くはありませんが、一晩泊まれる程度の金額です。まずは宿を探し、そして明日以降にギルドへ行かれるとよいでしょう」
「ありがとうございます」悠真は深く頭を下げた。
その隣で、鞄の中に潜んでいたスピカが、ちらりと袋を見て小さく鼻を鳴らす。
「ふん、やっぱり人の世話になるのね」
悠真は苦笑しながら鞄を軽く叩き、神父に再び礼を言って神殿を後にした。
石畳に出ると、さっきまでの神聖な静けさが嘘のように、再び街の賑やかな声が耳に飛び込んできた。
悠真は神殿を出て、手の中の小袋を軽く振った。じゃらりと鳴る通貨の音が、どこか頼りなくも心強い。
「銀貨1枚と銅貨五枚……これで今夜くらいは大丈夫そうだな」
思わず声に出してつぶやくと、肩に乗っていたスピカが呆れたように尻尾を揺らした。
「宿代の心配してるなんて、落ち人って意外と庶民的なのね」
「いや、金がなきゃどうしようもないだろ? 腹も減るし」
悠真が苦笑すれば、スピカは「ふん」と鼻を鳴らし、ぷいと視線を逸らした。
宿屋は神殿の近くにあった。木造二階建ての小さな建物だが、入口には暖かなランプが灯り、扉を開ければ香ばしいシチューの匂いが迎えてくれる。
一泊銀貨一枚で食事付き。食事は肉と野菜の煮込みに、焼いた黒っぽいパン。それだけの質素なものなのに、慣れない香辛料の風味が妙に新鮮で、悠真の箸――いや、借りたスプーンは思ったよりも進んだ。
「見た目よりうまいな……」
「こんなの、ただの田舎料理よ」
そう言いつつ、スピカもちゃっかり小皿の肉を平らげていた。
部屋に案内されると、木の香りの残る簡素な造り。地球の安宿よりもずっと質素なのに、不思議と落ち着く雰囲気があった。
「……悪くないな」
つぶやいた悠真の足元で、スピカが布団へ飛び込み、もぞもぞと潜り込んでいく。
「人間の宿なんて落ち着かないわね……でも、今日は許してあげる」
そう言う声はすでに半分眠そうで、尾だけが布団から覗いていた。
悠真は鞄からノートを取り出し、今日の出来事をさらさらと記していく。
『落ち人という存在について。特別な力を持つらしいが、俺には実感がない。
神父さんは「そのうちわかる」と言っていたけど…… スピカは猫っぽいけど、幻獣。額の赤い宝石が特徴。人間に懐かないって言われてたけど、今は横で寝てる。もふもふ。』
ペンを置くと、不思議な一日の余韻がどっと押し寄せる。
「……明日はギルドってとこに行ってみるか」
そうつぶやき、ランプを消した。
スピカの穏やかな寝息を聞きながら、悠真は静かに眠りへと落ちていった。




