20. 知られざる夜の冒険
悠真は断崖を仰ぎ見ながら腕を組み、どうしたものかと考え込んだ。
「……で、どうやってあそこまで行く?」
谷は広く、簡単に渡れそうもない。崖は真っ直ぐに切り立っており、素人がよじ登れるようなものでもなかった。
スピカが尻尾を揺らしながら、
「ノクスに乗って飛ぶ? ……って言いたいところだけど、谷を越えるほどの飛翔力はまだないでしょうね」
と冷静に言う。
アズールはくぅと鳴き、悠真の肩からひょいと飛び降りて谷の方へ近づこうとする。悠真は慌てて抱き上げた。
「ちょ、ちょっと! お前はまだ大きくなってないんだから無茶しない!」
悠真は額を押さえ、溜め息をついた。
「……やっぱり、誰かに聞いておけばよかったなぁ。どうやって行けばいいかなんて」
崖のくぼみは相変わらず静かで、しかしどこか不気味な存在感を放っていた。
悠真たちは断崖を見上げながら思案していたが、結局「まずは下から攻めてみよう」という結論に至った。
「よし、とりあえず谷底へ降りてみよう。あっち側に渡れるかもしれないし」
悠真がそう言うと、ノクスが静かに鼻を鳴らして足を進めた。
谷沿いを慎重に歩きながら、降りられそうな斜面を探す。やがて、岩が崩れてできたような急な坂道を見つけると、悠真は息を呑んだ。
「……ここなら、降りられそうだな。ただし滑ったら一巻の終わりだ」
見下ろした先には、谷底を轟々と流れる川があった。水面には白い飛沫が立ち、相当な速さで流れていることが一目でわかる。
慎重に足を運び、ノクスの手も借りながら一行は谷底へと降りていった。足元の石が崩れ落ちるたび、下の川へと小石が転がり落ち、跳ねるように流れへ飲み込まれていく。その勢いを見て、悠真は背筋を冷たくした。
「……落ちたら、絶対に助からないな」
スピカも真剣な表情で川を見下ろし、
「そうね。あの流れじゃ、泳いで渡るなんて自殺行為よ」
ときっぱり言い切った。
谷底まで辿り着くと、岩壁の間を轟音と共に流れる川が目の前に広がる。近づくだけで細かい飛沫が頬を濡らし、靴の裏をひんやりと冷やした。
悠真は腕を組み、しばし考え込む。
「橋があるわけじゃなし……。上流か下流に渡れる場所を探すしかない、か」
悠真たちは谷底を歩きながら、しばらく上流へ進んでみた。しかし水の勢いは相変わらず強く、幅も狭まる様子はない。下流へと向かっても、同じように激しい流れが続いていた。
数分歩いただけで、悠真はため息をつく。
「……ダメだな。どっちに行っても渡れる気がしない」
川を睨みながら考え込んでいると、ノクスが一歩前に出た。喉の奥で低く唸りをあげると、口の端から黒い靄が広がり、水面へと漂い落ちていく。靄が触れた場所だけ、流れがわずかに鈍くなり、川のうねりが押さえ込まれるように見えた。
「おお……流れを抑えられるのか?」
悠真が驚きの声を漏らす。
その横で、スピカがふぅと鼻を鳴らした。額の宝玉が淡く輝き、川辺にじんわりと熱を放つ。次の瞬間、ゴウッと音を立てて岩肌の一部が熱せられ、赤く溶け出すかと思えば、瞬時に冷えて固まった。流れを少しだけ逸らすように突き出た天然の足場が生まれる。
「これなら……飛び石みたいにして渡れるんじゃない?」とスピカ。
悠真は川を見比べ、唇を噛む。
「ノクスが流れを抑えて、スピカが足場を作る……それなら、いけるかもしれない」
轟々と音を立てて流れる川の上に、ノクスの黒霧とスピカの作り出した足場が浮かぶ。
「よし……!」
悠真は拳を握り、ノクスの背へとまたがった。
アズールは水飛沫を嫌そうに羽をふるわせると、ひと鳴きしてからふわりと舞い上がる。川の流れをかすめるようにして、悠真たちの少し後ろをついていく。水しぶきがかかるたびに器用に羽を広げて方向を変え、濡れるのを避けている姿に、悠真は思わず苦笑した。
ノクスが足場へと慎重に足を踏み出すと、石が水圧に押されてぐらりと揺れる。悠真は思わず手綱を握り締めた。
「うわっ、いきなり落ちそうじゃないか!」
「しっかり捕まってなさい!」スピカが背後から声を張る。宝玉が再び光を帯び、次の足場がぱっと生まれた。
ノクスは低く唸りながらも力強く跳ね、揺れる石から次の石へ。足が水に触れた瞬間、冷たさに悠真の背筋が凍る。流れの速さを考えると、一歩でも踏み外せば流されてしまうのは明らかだった。
その頭上をアズールがひらひらと舞い、時折後ろを振り返っては悠真たちの進みを見守っている。まるで「はやくおいで」と急かしているようだった。
ノクスが最後の足場を力強く蹴り、霧の橋を抜けた瞬間、後ろで足場の石が崩れ落ち、轟音と共に流れへ消えていった。
「――っ、危なっ!」
スピカが肩で息をしながら宝玉の光を収め、ノクスも荒く鼻を鳴らす。
悠真は岩場にへたり込み、背を壁に預けながら大きく息を吐いた。
「……死ぬかと思った……」
喉の奥から絞り出した声に、スピカが呆れたように肩をすくめる。
「まったく、こわがりなんだから」
それでも渡りきった安堵感からか、全員の表情はどこか緩んでいた。
「今日はもう、どこかで野営にしよう」
悠真の提案に異を唱えるものはなく、周囲を探し始めると、岩壁に小さな洞窟を見つけた。入口は人が数人腰をかがめて通れる程度で、奥は少し広がっているようだ。
「ここなら雨風もしのげそうだな」
悠真は懐中のランプを掲げ、洞窟の内壁を興味深そうに眺めながら入っていった。
「へぇ……水の流れで削れたのかな。自然の造形ってすごいなぁ」
その背中を、スピカとノクス、アズールがちらと見やり合う。彼らには、この洞窟がただの岩の裂け目ではなく、奥に続く“ダンジョンの気配”を秘めていることがはっきりとわかっていた。
だが、悠真は何の疑いもなく、子供のように壁の模様を指でなぞり、観察記録用のノートを取り出してはペンを走らせている。
「……気づいてないわね」
スピカがひそやかに呟き、尻尾を揺らす。
ノクスは低く鼻を鳴らし、アズールは小さく羽を震わせた。
今夜の宿は、彼の知らぬまま、ダンジョンの入り口となったのだった。
焚き火の火がぱちぱちと音を立て、洞窟の中に柔らかな明かりを広げていた。
悠真は背嚢から取り出した干し肉と野菜を鍋に入れ、簡単なスープを仕立てる。湯気とともに漂う香りに、アズールが鼻をひくひくさせながら首を伸ばした。
「ほら、お前の分はちゃんとあるって」
小皿に取り分けられたスープを受け取ると、アズールは嬉しそうに鳴いて小さなくちばしで啜る。
スピカは火の前で肉球を温め、ノクスは悠真の背を守るように洞窟の入口近くで横たわっていた。
食後は自然と会話も弾み、スピカのちょっとした毒舌に悠真が笑い、アズールが無邪気に鳴き声を上げる。その光景は、まるで家族の団欒のようだった。
「……明日も無事に進めるといいな」
小さくそう呟いた悠真は、毛布に身を沈めると、すぐに安らかな寝息を立て始めた。
――が、夜はそれで終わらなかった。
スピカはふと立ち上がると、尻尾を揺らしてノクスとアズールに合図を送る。
「……起きなさい。あの奥、放っておくには惜しい気配がするわ」
ノクスは低く喉を鳴らし、アズールは一度だけ悠真の寝顔を振り返る。迷いを残したまま、しかしスピカの後を追って闇へと消えていった。
そこから始まったのは、悠真の知らぬ三匹だけの冒険だった。
入り組んだ通路を駆け、魔獣と渡り合い、時に罠を避け、時に宝を見つける――
彼らはまるで影のように洞窟を駆け抜け、夜の間に小さなダンジョンを隅々まで散策した。
やがて夜明け。
目を覚ました悠真の視界に飛び込んできたのは――もふもふとした巨大な毛玉。
「……ん? ……うわっ!? な、なんでまた急に?!」
そこには、大型犬ほどの大きさにまで膨らんだアズールが、どっかりと悠真の寝袋の上に座り込んでいた。
慌てふためく悠真の横で、スピカが小声でぼそりと呟く。
「……あれだけ食べればね」
だがその声は悠真には届かず、彼はただ呆然とアズールのもふもふを見上げるしかなかった。
アズールが大きくなった姿を前に、悠真はしばらく言葉を失っていた。
「……いや、ほんとに、なんで急に育つんだよ……?」
膝に乗せていた頃の軽さはどこへやら、今では抱き上げるのもひと苦労しそうな大きさになっている。
羽根の色つやは以前より濃く、力強さを帯びており、瞳には妙な知性の光が宿っているように見える。
「……うーん。成長期? でもさすがに一晩でこれは……」
羽の一枚一枚を指先でなぞりながら違和感を探る悠真。だが本人にはその理由に心当たりはない。
ちらりと視線を横にやると、スピカとノクスはまるで見ていないかのように視線を逸らし、アズール本人も無表情を装って毛づくろいをしていた。
「……お前ら、なんか隠してない?」
問いかけても返ってくるのは沈黙だけ。スピカは欠伸をして「気のせいじゃない?」と気怠げに答えただけだった。
「……まぁ、元気そうだし……いっか」
苦笑しながら頭を掻く悠真。納得はできないが、それ以上は深追いせずに、旅の支度を整える。
洞窟の外に出ると、朝日が谷間に差し込み、昨夜の疲れを払うように空気が澄み渡っていた。
「さ、じゃあ行こうか」
悠真はダンジョンの存在など露ほども気づかないまま、谷を越え、断崖を目指して歩みを進めた。




