1.スピカと名付けた日
気がつくと、彼は森の中に立っていた。
ついさっきまで大学に向かう電車の中で、窓の外にはビル群と通学する学生の姿が広がっていた。だが今、目の前にあるのは、どこまでも続く深緑である。
ざわざわと葉を揺らす音。湿った土と草の匂い。ひんやりとした空気。
そして、見たこともない鮮やかな羽を持つ虫が、光を反射しながら飛び交っている。
「……え、ここどこだ?」
思わず漏らした声は、森に吸い込まれていった。
混乱はあったが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、胸の奥が妙に高鳴っている。
その理由は、視界の端をよぎった小さな影だった。木の根元を駆け回るそれは、リスのように見えたが、耳が四つ、ピンと立っている。尻尾は青く、ふさふさと揺れていた。
「うわ……かわいい……!」
彼は思わず声を上げた。
逃げるかと思いきや、その小動物はきょとんと彼を見てから、するりと茂みに消えていった。
彼は肩掛けバッグを探り、ノートとペンを取り出す。大学の講義用に持ち歩いているものだ。スマホも確認したが、電源は入らない。電波どころか、画面すらつかない。
「しょうがない……。じゃあ記録はアナログでいくか」
親の影響で、子どものころから見かけた動物をスケッチするのは日常だった。知らない生き物を前にすれば、体が勝手に動く。
彼はざっと特徴を書き留め、簡単に絵を描き、最後に「もふもふ度?」とメモして、自分で笑ってしまった。
「……なんか冒険者っぽいな」
ペンをしまい、深呼吸する。
どう考えても異常事態だった。だが、心の中に浮かんだ感情は、不安よりもわくわくだった。
この世界には、地球にはいない動物たちがいる。
そう気づいた瞬間、彼の中で帰りたい気持ちは少し遠のいていった。
⸻
森を歩くあいだ、彼はいくつもの不思議に出会った。
白い花びらを風船のようにふくらませ、ふわふわと空に浮かぶ植物。
耳を澄ませば、木の幹の中から「トントン」と規則的な音が響く。中で何かが暮らしているのかもしれない。
「やっば……全部新種だろこれ……!」
思わず声が弾む。胸の奥がどんどん熱を帯びていく。
ノートをめくる手は止まらなかった。書き留めたいことが多すぎて、気づけばページの隅には落書きがあふれている。
気分はすっかり「異世界動物観察日誌」。
未知の世界に放り込まれたはずなのに、彼の心を満たしていたのは恐れではなく、喜びと高揚感だった。
⸻
どれくらい歩いただろうか。森の木々が途切れ、視界が一気に開けた。
そこには、のどかな農村が広がっていた。
小さな畑が整然と並び、腰を曲げた農夫たちが作業に励んでいる。屋根は茅葺きで、家々の煙突からは白い煙がゆるやかに立ちのぼっていた。
「……村だ」
彼は思わず呟いた。
異世界らしい森から、突然現れたのはまるで昔話に出てきそうな村。その光景は、懐かしさを伴い、胸の奥にほっとした感覚を呼び起こした。
しかし村に足を踏み入れると、どこかざわついた空気が漂っていた。
畑の方から「わーっ!」「そっちだ!逃がすな!」と騒がしい声が飛び交ってくる。
「……なんだ?」
気になって近づいた彼の目に映ったのは、網や棒を手に畑の中を走り回る村人たちの姿だった。
その視線の先で、茶色い影がちょろちょろと動いている。
よく見れば、それはリスに似た小動物――ただし、額には若木の枝のような小さな角がちょこんと生えていた。
ふさふさの尻尾を振り回しながら、小麦の穂を器用にかじっている。
「……角リス?」
彼が呟いた瞬間、近くにいた村人が振り向いた。
「あんた、旅の人かい? 見りゃわかるだろ、畑荒らしの角リスだ!」
「害獣なんですか?」
「害獣どころじゃない! こいつらに入られたら、収穫が半分になる!」
村人たちは必死だった。けれど角リスたちは小さくてすばしっこい。網を振ってもするりと抜け、まるで笑うように尻尾を振って走り去っていく。
その愛らしい姿に、彼の口から思わず「かわいい……」という声が漏れた。
村人に聞かれたら怒られるに違いない。慌てて口を押さえたが――どうしても見過ごせなかった。
「ちょっとやってみてもいいですか?」
「えっ? 危ないぞ、やめとけ!」
「大丈夫です、多分」
苦笑しつつ、彼は畑へ一歩踏み出した。
角リスたちは、一瞬こちらを警戒したものの、なぜかすぐには逃げ出さなかった。
「よしよし、大丈夫だよ。ちょっとだけ、来てみる?」
しゃがみ込んで声をかけると、角リスたちはためらいながらも少しずつ近づいてきた。
一匹、二匹……やがて三匹目が勇気を出したように、ぴょんと彼の腕に飛び乗ってきた。
「うおっ……お、おお……!」
腕にしがみつく感触は驚くほど軽く、そして柔らかい。
角は確かに固かったが、尻尾のふわふわがそれを補って余りある。
「……かわいすぎる……」
頬が自然に緩む。
その幸せに浸る彼のもとへ、他の角リスたちまで次々と飛び乗ってきた。
気づけば、彼は角リスにまみれ、ふわふわの小さな生き物たちに囲まれていた。
しんと静まり返った畑に、驚きの沈黙が広がった。
呆然とその光景を見つめていた村人たちが、やがてぽつりとつぶやく。
「……なんで、あっさり懐いてるんだ……?」
「わしら、何日も追いかけても捕まえられなかったのに……」
彼は困ったように笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「まあ……慣れですかね?」
けれど、彼自身にも理由はわからなかった。
ただ、動物たちに好かれるのは――そういえば、昔からずっとそうだったのだ。
⸻
その様子を、少し離れた森の縁から一匹の獣が見つめていた。
白い毛並みに覆われたしなやかな体。額には宝石のように赤く輝く石が埋め込まれている。
――カーバンクル。
彼女は目を細め、長い尾をゆるやかに揺らした。
(……おかしい。普通、人間に角リスが懐くなんてありえない)
その光景は、彼女にとって常識を覆すものだった。
興味と警戒が入り混じる中、カーバンクルは決意するように姿勢を低くし、音もなく草むらを抜けて村の方へと歩み寄っていった。
───
角リスたちを腕に抱え、彼は幸福に浸っていた。
だがその時、村人の一人が棒を振り上げ、顔をしかめて叫んだ。
「そいつらは害獣だ! 今のうちに叩き殺さねえと!」
「ちょ、待ってください!」
彼は慌てて角リスを庇った。抱えた小さな体がびくりと震え、その震えが彼の胸をぎゅっと締めつける。
「確かに畑を荒らすのは悪いです。でも、殺す必要はないでしょう! 方法は他にあるはずです!」
「方法だぁ? 何十年もこの村で苦しめられてきたんだぞ! 人間の言葉なんざ通じるもんか!」
「……でも」
腕の中の角リスは、不安そうに彼を見上げていた。
その黒い瞳に映る光を見て、彼は強い決意を込めて言い返した。
「動物は、話せばきっと分かります!」
村人たちが一斉に「はぁ!?」と声を上げる。畑の空気は一気にざわつき、押し問答が続こうとした――その瞬間だった。
「――ふん。甘いわね、人間」
低く澄んだ声が、背後から響いた。
彼は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、白い毛並みの獣。額には宝石のように赤い石がきらめいている。
「……えっ、猫が……しゃべった!?」
思わず目を丸くする。
同時に村人たちも「カ、カーバンクル……!?」「なんでこんな人里に……!」とざわめき立った。
白い獣――カーバンクルはすっと歩み寄り、彼の腕に抱かれた角リスを冷たい視線で見下ろした。
「ただの動物に人間の言葉が通じるなんて、本気で思っているの? 馬鹿げているわ」
「やっぱり、しゃべった……!」
頭を抱えそうになるが、角リスの小さな体が震えているのに気づき、彼は我に返った。
「……いや、今は驚いてる場合じゃない!」
深呼吸をひとつして気持ちを落ち着け、彼は再び角リスの群れへと向き直った。
角リスたちを腕に抱え、彼は必死に語りかけた。
「聞いてくれ。畑を荒らしたら、みんなが困る。ご飯も減っちゃうし、冬を越すのが大変になる。
……だからさ。畑は荒らさないって約束してくれないか?」
両手を広げ、できるだけ優しく言葉を投げかける。
角リスたちは顔を見合わせ、しばし沈黙していたが――次の瞬間。
ぴょん、と一匹が立ち上がった。前足を胸に当て、ぴしっと直立する。
まるで軍隊の敬礼のように。
「ピッ!」
その声を合図に、残りの角リスたちも一斉に並び、同じ動作を取った。
整然と並ぶ角リス軍団。
「……え?」
呆然とした声が漏れる。村人たちは口を開けて固まり、カーバンクルでさえ驚愕に目を見開いていた。
「……整列して敬礼って何よ!? 動物がそんな芸、するわけないでしょ!」
「な、なんだこれ……まるで兵隊みてぇだ……」
ツッコミとどよめきが同時に飛ぶ中、彼だけが嬉しそうに笑った。
「よかった。話せば分かるんだな!」
「いや、普通は分からないのよ!?」
「絶対おかしいだろこれ!!」
カーバンクルと村人の声が見事に重なった。
――その日の夕暮れ。村の広場の片隅に、質素な食卓が用意された。
木の器に盛られたのは、とろりとした穀物の粥と、硬そうな根菜を煮込んだスープ。塩と香草だけの素朴な香りが漂っていた。
「どうぞ、お口に合うかわかりませんが……」
年配の女性が器を差し出す。彼は深く頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます!」
一口すくって口に運ぶ。穀物は思ったより甘く、香草の香りが鼻に抜ける。見た目は地味でも、どこか懐かしく優しい味だった。
「……うん、なんかほっとする」
ぽつりと漏らした言葉に、隣の農夫が照れくさそうに笑う。
「いやぁ、害獣のせいで畑も荒れててな。ろくにおもてなしできんが……」
「いえ、十分すぎますよ。むしろ、こういう料理が食べられるなんて……異世界に来たんだなぁって実感します」
その言葉に、周りの人々が一斉に「おや?」という顔をした。
「……異世界、って、あんたまさか」
「まさかとは思ったが……あんた、落ち人か?」
「お、落ち人?」
首を傾げる彼に、年配の村人がゆっくり頷いた。
「やっぱりか。時折、あんたみたいに外の世界から人が落ちてくるんだよ。わしらは“落ち人”と呼んでる」
「……なるほど。そういうのがあるんですね」
彼は納得したように頷いた。不安よりも、「自分は特別な存在じゃない」という安堵が胸に広がる。
「なんだ、もっと大げさな話かと思った。なら、安心ですね」
その笑顔に、村人たちは少し呆気にとられたが、やがて苦笑しつつ肩をすくめた。
「おめぇ、本当に肝が据わってるな……」
「まぁ、落ち人のあんたに助けられたんだ。感謝してもしきれんよ」
――あの後、角リスたちはぺこりと頭を下げ、森の中へと帰っていった。
だが所詮は口約束。今後も畑を荒らさないかどうかは、祈るしかない。
そんな考えが一瞬よぎったものの、村に漂う穏やかな空気に包まれながら、食卓は進み、やがて夜は静かに更けていった。
───
翌朝。
澄み渡る空の下、彼は村人たちに見送られながら街道へと足を踏み出した。
「ほんとに助かったよ、落ち人さん!」
「気をつけてな!」
口々に声をかける人々に、彼は笑顔で手を振る。
「はい! いろいろありがとうございました!」
胸いっぱいに新しい世界の空気を吸い込み、軽やかな足取りで歩き出す。
そのとき、不意に隣から小さな足音が聞こえた。
振り向くと、白い毛並みのカーバンクルが当然のように並んで歩いていた。
「……えっ、ついてくるの?」
問いかけに、カーバンクルはそっぽを向き、ふんと鼻を鳴らす。
「勘違いしないで。たまたま行き先が同じなだけよ」
「そっか。いや、でも正直助かるよ! 一人だと不安もあるし」
「別にあなたのためじゃないわ…!」
真っ赤になって尻尾を膨らませる姿に、彼は思わず吹き出してしまった。
しばらく並んで歩いたあと、彼はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったな」
歩きながら振り返り、隣を進む獣に微笑んだ。
「俺の名前は悠真。悠々自適の“悠”と、真っ直ぐの“真”。――親がそう願ってつけてくれた」
「……悠真」
地球の漢字も意味も、この世界では無意味だろう。だがカーバンクルはその名を、意味を確かめるように小さく口にした。
「それで……君の名前は?」
問われた白い小獣は、ふいと前を向いた。額の赤い宝石が、夕陽を浴びてきらりと光る。
「……ないわ。私には、名前なんてものは」
その声音はどこか寂しげで、彼は思わず歩みを緩める。
「そっか。じゃあ、俺がつけていい?」
「勝手にすればいいわ」
強がるような言葉とは裏腹に、耳の先はほんのり赤く染まっていた。
彼は少し考え、宝玉をじっと見つめる。
「うーん……赤いから“ルビー”とか?」
口にした瞬間、自分でも安直すぎると思い、頭をかいた。
「いや、宝石の名前じゃ、そのまんますぎるか……」
ふと顔を上げると、空は夕暮れの青から群青に変わりつつあり、東の空にひときわ明るい星が瞬いていた。
その光を見たとき、自然に言葉がこぼれる。
「……スピカ、なんてどうかな」
星の名を呼んだ声は澄んでいて、その響きにカーバンクルの瞳がかすかに揺れた。
「スピカ……」
小さく繰り返し、目を細める。
「……まぁ、呼びやすければ、それでいいわ」
ツンとした態度を崩さないままだったが、その声色にはかすかな喜びが滲んでいた。
彼はにっこり笑い、力強く頷く。
「決まりだな。これからよろしく、スピカ」
――その日、“スピカ”という名が生まれた。
それは彼とカーバンクルの気ままな旅の始まりを告げる、小さな星の瞬きだった。
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【観察記録】
名称:カーバンクル(魔獣)
特徴:猫科に似た姿。額に宝石状の器官を持ち、強い魔力を有する。
生態:単独行動を好むが、気に入った相手には執着を見せる。
行動:高い知能を持ち、言語を理解している。
──
もふもふ度:★★★★★
【観察記録】
名前:角リス(村人呼称)
特徴:体長30cmくらい。額に小さな角が生えており、成長すると二股に分かれる。
生態:穀物や木の実を好む。畑に入るため嫌われ者。
行動:集団でちょこちょこ移動。人を襲う様子はなく、抱っこしてもおとなしい。
——
もふもふ度:★★★☆☆(しっぽはふわふわ。でも角がちょっと痛い)




