2.幻を追う足音
——あれから数ヶ月が過ぎた。
麗らかな日の光がさす執務室でカイゼルは書類に走らせていた手を止めた。
「……また、だ」
あの夜の光景が唐突に脳裏をよぎる。
闇を裂くように月が輝いていた。ドレスを纏い、拳ひとつで敵を屠るその姿。
夢かと思った。
いや——願わくば夢であってほしかった。
自分の剣は、何を守れた?
自分の声は、誰に届いた?
あの影は一人で全部を背負って、一人で全部を救った。
「……強すぎるんだよ」
思わずこぼれたその声は静かな室内に溶けていく。
ただ、自分という存在がちっぽけに思えた。
どうしようもなく惨めだった。
「はぁ……少し、歩くか……」
ペンを卓上に置いて椅子から立ち上がり、執行室を出る。
温かな光に満ちた廊下は、まるであの凄惨な出来事がなかったかのように穏やかに時を刻んでいた。
その中を無言で歩いていく。
当てもなく歩いていたはずの足が、気づけば王宮の奥の奥へと進んでいた。
回廊の先——アーチを抜けると見慣れた風景が広がっている。鍛錬場では、今日も誰かが剣を振るっている。
カイゼルの足が、自然と止まった。
(……騎士団にいるはずもないと、分かっているのにな)
思わず苦笑する。
それでもあの夜以来、何度もここへ通ってしまう。
“あの背中”を無意識に探してしまうのだ。
何度も誰かに尋ねようと思った。
けれどそのたび、言葉は喉の奥でグッと凍りついたまま。
(……あのとき、自分に力があれば誰かの背に託さず、自分の手で守れていたのだろうか)
尋ねればきっと、いないと分かる。
それでも確認してしまえば——自分の無力さを改めて突きつけられるようで。逃げるように口を閉ざしてしまう。
(……いるはずもない……いや、いてほしいのかもしれない)
胸の奥で揺れる感情を抱えながらカイゼルは砂を踏む。一歩、また一歩と足を進めた。
数人の騎士たちが鍛錬の手を止め、顔を上げた。
「また、来てくださったのですね」
小さく笑みを浮かべながら声をかけてきたのは、あの戦さで多くを失い、前任から職を継いだばかりの新しい騎士団長——ギルベルト・クラウスだ。
カイゼルは少しだけ逡巡してから、ためらいがちに口を開いた。そろそろ腹を決める時だ。
「鍛錬の途中にすまない。今、大丈夫だろうか?」
ギルベルト含む数名がカイゼルの周りに集まりだす。
「ええ、問題ありませんよ」
ギルベルトが快く答えた。
「……聞きたいことがある。数ヶ月前の戦場で見上げるほどの大きな体躯を擁し、舞うように戦っていた影を見た者はいるか?」
騎士たちは顔を見合わせ、その中の一人が口を開く。
「影、ですか?私は気を失っていたので……なんとも……」
「俺はみました!」
「俺も見たぞ!!背が高く、筋肉質で、戦い方は華麗で……まるで別世界の人間のようだったな」
次々と上がった声にカイゼルは目を見張った。やはり、あの影は実在していたのだ。
「他に……他に、何か特徴はあったか?どんな小さなことでもいい。頼む……探しているんだ、その者を!」
声の調子がわずかにうわずる。
騎士たちはカイゼルの切迫した様子に一瞬たじろぎながらも、慎重に言葉を紡ぎ始めた。
「……特徴……そういえば、紅玉のような鮮やかな赤い髪が揺れていました。顔までは見えませんでしたが、その髪色は強く印象に残っています」
彼に続き、もう一人の騎士も話しだす。
「確か、ドレスの色は漆黒のように真っ黒……だったと記憶しています。まるで、死を覚悟してきたかのような……戦闘服のような……。それに、胸元には一輪の百合の刺繍がありました」
その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「赤……漆黒のドレス……」
あの夜の影には確かに鮮やかな赤が揺れていたのだ。
無意識に、拳を握る。
ずっと悔やんでいた。無力だった、あの日のことを。
目の前で大勢の人が傷つくのを、この手からこぼれ落ちていくのを、ただ指をくわえて見ていることしか出来なかった——だけど、もう違う。
影は幻じゃない。あの日、確かにそこにいた。
ならば今度こそ——あの背中に手を伸ばしたい。届けたい。
自分の声も、意思も。
「……ようやく、前を向けそうだ」
そう呟いたカイゼルの表情は穏やかだった。
紅玉のような赤髪。情報は微々たるものだったが、それでも十分だった。
影が幻想から現実へと姿を変えつつある——そう思えた。
それからは嵐のような多忙に追われる日々だった。崩れた外壁、焦げた塔、荒れた地面。
街にはいまだに不安が残り、民の心には深い傷が刻まれていた。カイゼルはその全てに向き合った。
できることを確実に、ひとつずつ。
鍛錬も欠かさず続けている。今度は決して背を向けないと決めたから。
そして——あの夜から、ちょうど一年が経とうとしていた。
崩れた塀は修復され、傷ついた人々の暮らしも、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。
王都に再び穏やかな日常の空気が流れ始めていた。
その証のように、戦さで延期されていた「デビュタント」が開催されることとなった。
新たな季節の訪れと未来への希望を祝う舞踏会——かつての戦火を忘れず、それでも歩き出すための大切な節目だった。
さてさて、次回からデビュタント編スタートです!
次回も、お楽しみに!
毎日が、筋曜日!