筋肉と壁に挟まれて
——その頃、リリィは相変わらず、騎士たちに筋トレの指導を施していた。
砂利を踏みしめる音が、こちらへと向かってくる。
歩幅の感覚が狭い。
ということは、何か急ぎの用事だろうかと考え、振り返った。
「……カイゼル殿下?」
「指導中にすまない。少し、リリィと話したいことがある」
「かっ、かしこまりました。私たちは引き続き筋肉トレーニングをしていますので……」
そばにいたギルベルトが、わずかに狼狽しながらも返した。
「では」
カイゼルはリリィを連れ、訓練場の一番奥側へと向かう。
そこには壁一列が替え壁となっており、押し込みや衝突、攻城訓練として用いられる場所だ。
「ここなら、たとえ壊れたとしても文句は言われないだろう」
ひとりで納得するように呟いたカイゼルの隣で、リリィは不思議そうに首を傾けた。
「あの……申し訳ありません、カイゼル殿下。さすがのわたくしでも状況が飲み込めていませんので、ご説明をお願いいたします」
はっと我に返ったカイゼルは、自身を落ち着かせるために咳払いをひとつし、僅かに体をリリィへと向ける。
「ディーンから聞いたのだ。その……グレイン元長官を問い詰めるときに、リリィが壁に片手をついて壁際へ追いやったと」
「ええ、それは事実ですわ」
「だから……その……俺にもそれをしてくれないだろうか?」
最後の方は、ほぼ棒読みに近いような言い方になってしまった。
淡々とした彼女の受け答えに、取るに足らない瑣末なことに翻弄されているのは自分だけなのだと思い知らされる。胸に苦い思いが広がっていく。
カイゼルにしては珍しく歯切れの悪い物言いに、リリィの困惑はさらに深まる。
「それは……カイゼル殿下にとって何の利益があるのでしょうか?」
「利益はある……と、思われる。……だめだろうか?」
眉が下がり、彼の表情に落胆の色が滲んでいく。
そんな顔をされてしまったら、リリィの答えはひとつしかなかった。
「……っ、そんなことはありませんが……」
「そうか」
どこか嬉しげな表情に戻ったカイゼルは、さっそく壁に背を預けた。
「準備はよろしいでしょうか?」
「いつでも」
返事を聞き、リリィはゆっくりと目を閉じる。
息を整え、瞼を開いた。
「白状なさいませ!」
リリィの手のひらが、肩越しに添えられた瞬間——乾いた破砕音が響き、壁に細い亀裂が走る。
サファイアのように澄んだ碧い瞳に、至近距離で見つめられる。
熱を帯びた視線から、逃れられない。
(——これは……)
瞬間、ピリッとした痛みが腕を駆け抜けた。リリィは思わず壁から手を離し、視線を落とす。
指先をゆっくりと開閉させ、痺れや痛みがないか確かめるように動かす。
肩を回してみても、特に異常は感じられない。
「手を痛めたのか?」
カイゼルが心配そうに覗き込む。
「いいえ……ですが、大したことではありませんわ」
そう言ったリリィの手を、カイゼルがそっと両手で包み込んだ。
「本当に痛みはないんだな?」
カイゼルが念を押すように問う。リリィは人に弱い部分を見せることを滅多にしない。だからこそ、安易に「大丈夫だから」と流してほしくなかった。
リリィは驚きに数度ほど瞬きし——カイゼルの不安を解くように、柔らかく微笑んだ。
「ええ、平気ですわ」
「……どんな小さなことでもいい。痛みも、悲しみも、包み隠さずに伝えてくれると……俺は嬉しい」
はにかむような笑顔。真っ直ぐな気持ちが、触れられそうなほどに近い。
胸の奥がむず痒くなる。けれど、同じだけの想いを返したいのはリリィも一緒だ。
「はい」
彼の目をしっかりと見つめ、リリィは頷いてみせた。
「それで……利益はありましたか?」
「ああ……まあ、そうだな。……良かった」
カイゼルはそう言い残し、赤くなった顔を手のひらで隠した。
そんな彼の仕草にリリィは、ただただ首を傾げたのだった。
また次回
毎日が筋曜日!




