その手はリリィのために
「クソッ!これじゃあ二人の拳闘が見えねぇじゃねぇか!」
「どうなったんだ!!」
男たちが悪態をつく中、リリィの拳がカイゼルの腹を捉えようとする——。
だが、カイゼルは全身に魔力を巡らせ、歯を食いしばりながら両手でその拳を受け止めた。
「……ぐっ……!」
「……どうして?」
反撃をいっさい繰り出そうとしない彼に、リリィは戸惑いの声を漏らす。
それでも、拳の勢いを緩めることはない。
カイゼルも全力で踏ん張るが、完全には抑えきれず、体は後方へと流されていく。
砂地には二本の線が刻まれ、拳の衝撃がようやく静まった。
驚きに目を見開くリリィを前にカイゼルは静かに、愛おしさを含んだ声で語りかけた。
「俺はリリィ嬢——いや、リリィと拳を交えるために来たんじゃない」
「……っ!では、なぜ!」
心から慕うような眼差しを向けながら、カイゼルは続ける。
「リリィの隣に立って、君の強いところも弱い部分も全てを包みこめる……そんな存在になりたいと俺は思っている」
リリィの目がさらに大きく見開かれ——彼女の脳裏にイリスの言葉がよぎった。
『手を離す覚悟をしたその時こそ、誰かが——あなたの手を掴みに来る』
『その時、あなたはきっと……愛を知るのでしょうね』
その意味の答えが、ゆっくりと胸の奥に落ちていく。
(お母様がおっしゃっていたのはこういうことですのね……)
カイゼルの言葉を即座に否定したいのに、喜びに胸が熱くなる。
リリィの瞳に灯っていた闘志の炎が、少しずつ揺らいでいく。
喉がぐっと詰まり、呼吸が浅くなっていく。
視界の中で、カイゼルは優しく微笑んでいた。
「わたくしは……」
拳の力が緩み、指先の震えがカイゼルの掌に伝わる。
リリィは視線を逸らさず、静かに言葉をこぼす。
「わたくしは……ただの一令嬢にすぎませんもの……」
「それは違う。俺はリリィじゃなきゃだめなんだ!」
カイゼルの強い眼差しがリリィを射抜く。
「……ですが!」
否定を続けようとする彼女の声は震えていた。
拳を包んでいた手をゆっくりと離すと、リリィの腕はだらりと落ちていく。
カイゼルはその様子を見つめてから、一歩踏み出し——リリィを腕の中にそっと抱きしめた。
彼の心からの言葉と体温に、固まっていた気持ちがゆっくりとほどけていく。
望んではいけない相手だった。
想ってはいけない相手だった。
何よりも変えがたい温もりに、胸の中が満たされていく。
「これが、俺の答えだ。そして——」
カイゼルはふっと軽く微笑み、言葉の先を紡いだ。
「これが俺の、愛の締め技だ」
「……っ!」
リリィの足元がぐらりと崩れ、彼女の膝が地面についた。
(ああ、もう……)
言葉を失いながらも彼女の心は正直だった。
困った時のように眉を下げ、リリィは小さく呟いた。
「……カイゼル殿下、降参ですわ」
リリィもカイゼルを離さないように強く抱きしめる。
彼が肩口でほっと一息ついたのを感じながらリリィは静かに瞼を閉じた。
吹き荒れていた砂嵐が、嘘のようにピタリと静まり返る。
食い入るように見つめる候補者たちの瞳に、抱きしめ合う二人が映った。
「……おお!」
「何が起こったか全くわからなかったが……」
「決着が……ついたみたいだな」
顔を見合わせあった彼らの、歓声と祝福のざわめきが場内に広がっていく。
候補者たちは熱い抱擁を交わし、腕組みをしたりとそれぞれに喜びを分かちあった。
温かな陽光に包まれた鍛錬場に春一番が吹く。
それはまるで、新たな門出を迎えた二人の背中を優しく押すようであった。
こうして、リリィ・フェザースノウは人生でただ一度だけ「降参ですわ」と呟いたのだった。
これにて、物語は一旦区切り目を迎えました
ですが、リリィの物語はまだまだ続いていきます
次回は、12月からスタートとなります。お楽しみに!
毎日が筋曜日!




