9 気づくには遅すぎた
「花嫁修業は順調のようだね」
天主がシャロンに微笑みかける。
やわらかな陽射しの午後、シャロンは天主に呼ばれて彼の私室にいた。どちらかと言えば飾り気のない執務室とは違い、落ち着いた雰囲気の広い部屋だった。趣味の良い木目の調度品が並んでいる。特に目を引くのが本棚で、すき間がないほどの本がぎっしりと詰まっていた。その横のサイドテーブルには薔薇の花が1輪、飾られていた。
紅茶を淹れてくれる官吏に礼を言って、シャロンは頷いた。
「ええ、天さま。おかげさまで」
微笑むシャロンには、異郷へ行く憂いなど見当たらない。そのことを確認して、天主の胸がちくりと痛んだ。
「とても意欲的にアルーアのことを学んでいると聞いてる。言語や作法については教えることがないと言われていると」
その言葉にシャロンは首を振った。
「知らなかったことも多いです。アルーアは香辛料や鼈甲細工が有名なんですね。銀の産地でもあるとか……」
「そうだね。特に香辛料は有名だ」
「私が嫁いだらレアルにも香辛料が流通しますね」
シャロンはそう言って微笑む。香辛料は金と同じ対価だ。その通りであったが、天主は視線を落とした。
シャロンを人身御供にしている気持ちになったのだ。
「……天さま? どうかしましたか? 体調がすぐれませんか?」
シャロンを見れば心配そうに自分を見ている。じっとシャロンを見る。白銀の髪に優しげな菫色の瞳、楚々とした美貌。そこになにか、強い芯が一本通ったように見えた。
「いや……なんでもないよ。大丈夫だ」
大丈夫ではない。自分は取り返しのつかないことをしたのではないか、という想いが湧き上がってくる。
「……従者をつけようと思っている」
「私にですか?」
「ああ。シャロンが寂しくないようにね」
そう言うと、シャロンは嬉しそうに微笑んだ。
「それは……嬉しいです。レアルのことも思い出せますし」
「そうか……」
彼女はもうアルーアへ嫁ぐことを決意して、ひたむきに頑張っている。その姿が眩しく、いじらしく、また、寂しかった。
天主は微笑む。
もう少しだけ、早く自分の想いに気づいてたらと思う。だが、もう遅い。
ならば、自分にでき得る限りのことはしてやろうと決意したのだった。