54 窮地再び
床に投げ捨てられるようにして倒れ込んだ。急いで身を起こそうとするけれど、すぐに体の上に跨られた。手首をつかまれ、足の間に、舅の足が割り込んだ。
「なんと、まだ、清らかな乙女であったとは……。アルクは気に入らなんだか? どちらにせよ、もう良い。おまえは儂の妻にする」
「嫌です……!! 私の夫はアルクだけだわ!」
そう言うと舅はくつくつと笑う。
「でもあやつは手をださなかったのであろう? お主の片思いだったのか? そんなことはあるまい。あやつは堅物だからのう。気づいてもらえなんだか?」
心底、楽しそうに舅は言う。シャロンは舅を睨めつけた。アルクトゥールスとは本当に夫婦になる約束をした。身はまだ委ねてはなくても、心はもう既に彼の妻だ。
(俺の本当の、妻になって欲しい……)
そう言われたことを心の拠り所にして、なんとか舅から逃れなければならないと思う。
「初々しいのう……。アルクに感謝せねばな。レアルの乙女を手に入れるのは儂だ」
ざらりと耳を舐められる。あまりの気色悪さにシャロンから短い悲鳴が漏れる。
次第に舅の鼻息が荒くなっていく。今こそシヴァから教えて貰った力を使わなければと思うのに、肌を舐められ、体をまさぐられ、どうしても怖気だって集中することができない。
また同じ時を繰り返すのだろうか。せっかく、アルクトゥールスに本当の夫婦になろうと言ってもらえたのに……! 泣くもんか、と思った。泣き顔なんて見せてやるものか。
そしてなにより、アルクトゥールスの名を呼んではいけない。この部屋に入ってきたら、彼がまた危険になる可能性があった。
なんとかして自力でこの窮地を脱しようと、シャロンは意識を集中しようとする。
ーーだめだ、できない。怖気が走って、集中することができない。
(助けてーーアルク!!)
心のなかでそう叫ぶ。舅の手は忙しなく服の中へと入ろうとしている。その気色の悪さに吐き気がする。
その時、どんどんと、扉が叩かれる。扉を蹴破ろうとする音がした。と、同時に本当は、呼びたくてたまらなかった声がする。
「シャロン、シャロン! そこにいるのか!? ぶじか!?」
アルク……と叫びそうになって、舅に口を手で押さえられる。息が苦しい。
「黙っているが良い。おとなしく儂に抱かれれば良いのだ」
シャロンは、その手に思い切り歯を立てた。痛みに舅が手を離し、シャロンは、思い切り頬を引っ叩かれる。口の中に錆びた血の味が広がる。
「おとなしくしておれ! アルクがおまえを嫌だと言うから、儂が国交のために貰ってやると言っているんだ!」
「……だれが、あなたなんかに……!」
ドアを叩き破ろうとする音がする。シャロンは、懸命にそちらを見た。ついにドアの閂が破られ、蒼白になったアルクトゥールスが中に踏み込んでくる。
舅に押し倒され頬を腫らしたシャロンを見て、瞠目する。
そのまま彼は父親を思い切り蹴り飛ばした。舅が転がっていく。アルクトゥールスが駆け寄って、シャロンを抱きかかえて後ずさった。
「シャロン! シャロン、大丈夫か……!」
「アルク……ここにいちゃダメ……」
舅の転がった先には剣が飾ってある。どうにかして、彼を逃さなければならない。回帰前の二の舞にはなりたくはない。けれど、なによりもアルクトゥールスに傷ついて欲しくはないのだ。
「アルク、お願い。ここから逃げて」
「おまえを残して逃げられるか……! 無事か!? 頬を……」
アルクトゥールスは痛ましそうにシャロンにそう言うと、彼女を抱きしめた。このままではいけないと、焦りが強くなる。
「俺の妻に何をするんだ……!」
アルクトゥールスが、記憶の通りの言葉を発する。けれどもその声は、回帰前に聞いたものより多分に怒気を含んでいた。
舅は体を起こして、口の端で笑う。
「妻ではなかろう。白い結婚。なにもなかったのだろう? 意気地なしよの。こんな極上のおなごを前にしてなにもせずと半年も過ぎるとは」
アルクトゥールスは、一瞬言葉に詰まる。
「お互いをよく知るための期間だった。彼女は俺の妻だ!」
アルクトゥールスがきっぱりと言い放つ。そして、憎々しげに自分の父親を見た。
「あんたは病気だ! 母上を捨て次々と妻を娶っては飽きて……挙句の果てに俺の妻まで歯牙にかけようとする……! 許せることじゃない……!」
「アルク……! 大丈夫だから。もう止めて」
記憶のようにシャロンを背に庇い叫ぶアルクトゥールスに、シャロンは、しがみついて止めようとする。
「なぜ止める! 許せることじゃない……!」
「あなたのことが心配なの……!」
ふたりの声が聞こえているのかいないのか、舅が、剣を片手に立ち上がった。アルクトゥールスがそれに気づいてシャロンを背に庇う。
いけない、とシャロンは思う。これではまた、回帰前と同じになってしまう。
アルクトゥールスと薬草を摘みに行った。街へも行った。孤児院を見た。彼の母親とそれに対する苦悩を見た。他愛もない話をした。口づけを交わした。本当の妻になって欲しいと言われたーーそれらは回帰前にはなかったことで、優しく降り積もった大切な思い出だった。
その思いを、なかったことにはしたくないーー!
「本当に、おまえは儂に反抗ばかり……儂に反抗するのならば、死んでしまえ……!」
来る……!! アルクトゥールスがシャロンを回帰前よりも強く後ろに庇う。シャロンは動けない。
舅の剣を振り下ろす姿が、スローモーションのように見えた。このままでは、アルクトゥールスが斬られてしまう。
我知らず、意識を集中させていた。深く自分の中に入り込むように集中し、能力を解放させる。
白銀の眩しい光が部屋いっぱいに広がり、発光する。その光が止むと共に舅が、なにかにぶつかるように転げて昏倒する様子が見えた。
「私ーー」
能力が、使えたのだと理解するまで少しの時間がかかった。
「アルク、アルクは、無事!?」
「ああ。無事だ……シャロン……すまなかった」
ふたりでひしと抱き合う。そこにアルファルドとシヴァも駆けつけてきた。部屋の乱れに乱れた様子と、昏倒した王の姿を見て、アルファルドとシヴァはなにがあったか、瞬時に察したようだった。
「侍従長」
は!と、アルファルドの後ろに付き従ってきた男が頭を下げる。
「王はご乱心だ。部屋に閉じ込め、決して出さぬようにせよ」
「はっ……!」
「この事は誰にも漏れないように手配せよ」
これにも肯定の言葉が上がる。
「シャロン様……よく、頑張られましたね」
目に涙を浮かべたシヴァが、そうシャロンを労った。
「シヴァ……あなたのおかげよ……ありがとう」
口の中はまだ錆びた血の味がする。気持ちが悪くなってシャロンは口を覆った。アルクトゥールスが、シャロンを抱きかかえる。
「シヴァ、知らせてくれてありがとう。本当に、感謝している」
アルクトゥールスの言葉にシヴァは、首を振った。
「それよりも早く、シャロン様の手当てを……!
そして、今後のことは、アルファルド様とアルクトゥールスさまおふたりとお話があります。良いですね!?」
シヴァの言葉に、アルファルドとアルクトゥールスは黙って頷く。シヴァの声に大きな怒りを感じ取る。もっともなことだとふたりは思う。
「俺は1度、宮に戻ってシャロンを手当てする。その後で、兄上の宮に行く。兄上、それで良いだろうか?」
「ああ。そうしてくれ。シャロン殿……本当に、申し訳ない」
シャロンはゆるゆると首を振る。危機は脱することができたのだ。それも最悪の事態をーー。そう思えば、ほっとするばかりで、誰を責めようという気にもならない。
シャロンはアルクトゥールスに抱きかかえられて、彼の宮へと戻った。




