1 最後の願い
床に引き倒され、体中に痛みが走った。きつく握られた手首が痛い。覆いかぶさられて息が苦しい。
「本当に、美しい」
ざらざらとした嫌な声が耳の直ぐ側でして悪寒が走った。逃げようとあがいても、太った男はびくともしなかった。
「息子の嫁なら、儂の嫁と同じ。あやつだけが美味しい思いをすることなど許せぬよのう」
「やめ……やめてください……!!」
「抵抗するのも可愛いのう」
べろりと耳を舐められて悪寒が走る。泣きたくなどないのに、涙が溢れる。
「初々しいのう。だが、毎晩、あやつに抱かれているのだろう? 儂の息子に。だったら儂の相手もせよ」
違う…! と叫びたかった。彼とは一度もそういった関係になったことなどない。私のことなど見ていない。
首筋をざらりとした舌が這う。右手がせわしなく、服の中に入ろうとする。
「いや……いや……!! アルク!!」
自分でも驚くことに、夫の名前が口をついた。異郷に嫁いでから、心を開けなかった夫の名が。
「シャロン……!!」
扉が乱暴に開き、重さとざらりとした気色の悪い舌の感触がなくなる。
舅は転がった体を起こそうとしている。誰かの腕に抱えられて、シャロンは驚いてその顔を見る。
アルーアの民特有の褐色の肌、白い髪の色に漆黒の瞳。精悍な顔立ちをした青年は、彼女の夫だった。
青年は彼女を片手で抱いたまま、彼の父に怒鳴りつける。
「なにを考えているんだ……! 息子の妻に手を出そうとするなんて、正気か!?」
妻、という言葉に驚く。彼が自分をそのように呼ぶとは思わなかったのだ。
「大丈夫か? 無事か?」
心配そうにそう尋ねられ、こくりと頷く。ひどく安心して、気が抜けてしまいそうになる。
「貴様、王である父に逆らうのか!?」
逆上した舅が剣を取りだす。名目上の夫は、シャロンを背に庇った。
「逆らうとかそういう問題じゃない! あんたは病気だ。次々と、妻を娶ってはすぐ飽きて……あげくに、異郷から友好のために嫁いできた妻にまで歯牙にかけようとするなんて……! 普通じゃない!」
「お前のものを儂が奪って何が悪い。その女も喜んでおったぞ。抱かれたがっておった!」
そんな訳がない。シャロンは夫にしがみついた。そんなシャロンを背に庇い、夫はますます声を張り上げる。
「そんな訳があるか! 俺の妻だ!」
その言葉にシャロンは驚く。夫は自分に興味などないと思っていたから。
「……どうして、そう、おまえは反抗的なのだ」
舅が、立ち上がる。剣を大きく振りかぶった。
「儂に逆らうなら死んでしまえ……!!」
何も考えなかった。咄嗟に、夫と舅の間へ割り込む。背中に熱い衝撃が走った。立っていられず、そのまま床に倒れ込む。
「シャロン……!」
夫に名前を呼ばれるのは初めてじゃないかと思う。なぜか霞む目で夫を見ると、ひどく心配そうな痛々しい顔をしていた。
「だい……じょうぶ……」
大丈夫ではないと自分でもわかっていたけれども、安心させたくてそう言って、笑おうとした。けれども、上手く笑えない。
「シャロン、しっかりしろ! いま、手当てをするから」
何かが零れて自分の頬に当たる。ああ、夫が泣いているのだ、と思った。それはひどく不思議に思えたけれど、心を温かくしてくれた。
私は彼に心を開けなかった。開こうとしなかった。本当は優しい人だとわかっていたのに。誠実な人だとわかっていたのに……。
シャロン、と叫ぶ声、ばたばたと走りくる足音。手当てをしてくれようとして、手を止める夫。
ごめんなさい、私は良い妻ではなかった。いいや、妻にもなれていなかった。その結果、がこれ。彼に永遠に消えない心の傷をつけたかもしれない。
ああ、神様。
思わず願っていた。もう一度。もう一度だけ、チャンスをください。そうしたら……
それを最後に、永遠に思考を手放した。
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