7.ふたつめのクリプトグラム
「どれ、みせてごらん」
文章を読んで、うむ、と一言唸ったハーキュリーは、テープをくるりと裏返した。
「ほー、これは又。珍しい暗号だねぇ」
「え? 裏? 裏がどうかしました?」
「ああ、表はまあ、目くらましのようなものだよ。 本命は裏だね」
「見せてくださいますか」
裏には、何やら線が所々に書かれている。
何かが書いてあった反故紙をテープ状に切り、貼って長くして、白いほうにメモを書いた、それで裏にはもともと書いてあったメモか落書きの一部が残ったように見える。しかも、ちょうど中央になる位置に端から端まで線が引いてある。切る前の紙は、不要になった書類だったのかもしれない。
「これがどうかしましたか?」
「ああ、まあね。これは私の前世では百年くらい前に使われていたことがある暗号だねぇ。
すごく早く計算できる計算機ができてから、この手の暗号は暗号として成立しなくなったのだけれどね、昔はスパイが伝言を残すのに使ったそうだよ」
テープの表側
テープの裏側
「このテープだけでは読めないのだ。
これは暗号を作る側と読む側が同じ形状の棒を持っていなくてはならない。その棒に巻きつけて情報を書き、解いて適当な雑文なり落書きなりを書き込むのだ。ごまかすための文言を表に書いたのがこのテープだね。
受け取る側が、同じ形の棒を持っていて、巻きつけると情報が出てくるのだよ」
「中央の線には何か意味があるのですか?」
「ああ、この線に沿って巻きつけるのだよ。非常に初歩的なものだが、知らない者にはただの落書きに見えるところがいいのだ。たとえ知っていても、同じ形状の棒がないと読み取れないだろう?」
シャーロットが、ソファに置いてあった剣袋から短い棒を取り出した。
「賢者たる子爵さま、棒はこれでよろしいでしょうか」
「おお、何と。まさかこの暗号は君が作ったものではあるまいね」
「ほっほほ、まさか」
シャーロットが剣帯に吊るしていた儀礼剣は、帰宅時に玄関で執事に渡したが、剣袋に入れて手挟んでいた物はそのまま持って居間に入っていた。
取り出した棒を、兄に渡す。
「それは、化粧室の隅に立てかけてあったのです。床に転がると、高いヒールを履いた淑女にとっては凶器となりますので、剣袋に収納して持ち出しました。
帰る間際でしたので、人目に付かず、咎められることもなかったのですが、不審には思いましたので、こうして兄上にお見せしようと」
「よく剣袋など持っていたね」
「ええ、剣を預けるときに必要かと思いまして準備していたのですが、立派な布で捧げ持って持ち去られました」
騎士の礼装に付帯している儀礼剣は、陛下が出席する場に入るときには預けることになっている。
「ああ、そうだったね」
「どうせ儀礼剣で、たいして斬れもしませんけど」
「様式美だよ、アフロディーテの眷属たる妹よ」
「はあ、まあそうですけど。 美神の夫が鍛冶の神だということを暗示しているのではないでしょうね、まさかと思いますけど?
で、この棒ですけど」
棒は飴色で、長さ30cmほど。均一の直径ではなく、一端が僅かに細くなっているようだ。
「ふむ、なるほど。これが化粧室にね。
まずは、テープを巻き付けてみようか。読めれば、誰かが化粧室でクリプトグラムを読んだことになる」
ハーキュリーは、手袋を脱ぐと控えている侍従に渡し「ここはもういいよ、少し長くなりそうだから片付けは明日の朝で。今日はもう寝みなさい」と声を掛けて、侍従とともにメイドも退がらせた。
棒とテープを手に取り、丁寧に巻き付けてみる。
「どうですか、おにいさま」
「正解だね、妹よ。見てごらん」
巻きつけたテープの終端を押さえてシャーロットが見えるように差し出す。
「まあ」
そこに示されていたのは”PEACOCK”、孔雀という単語がひとつ。
巻きつけたら単語が出てきました
(これは、本当にこれでいいのか確認するために、
作者・倉名が方眼紙を切って、手書きで作ったものです)
単語であって、文章ではない、と思われるかもしれませんが、表も含んでクリプトグラムです
「ふむ」
「ピーコックって何ですの?」
「ああ、鳥だね」
「はい?」
「さすがに賢女たる我が妹も知らなかったかい? ネヴィル伯爵が次のお茶会で公開しようと楽しみにしておいでだ」
「ピーコックを?」
「そうだよ。伯は二年ほど植民地、旧ミージャル帝国で任に就いておられたが、先般、任を次の方に受け継がれて帰国なさった。帰国時に数羽の孔雀を持ち帰っておいででね。珍しいということもあるけれども、オスは非常に美しい尾羽を持っていてね、これをまるで扇のように広げるのだよ。
見てみたいかい?」
「ええ、できるなら」
「そうか、ではお茶会への招待状が来ているから、出席の返事を出そう」
「まあ、おにいさま、ありがとうございます」
「いやいや、髪を切るのはちょっと待ちなさいね。鬘を作るのが間に合わない日取りだよ」
「あら、忘れていましたわ。 お茶会はドレスで行きますわ」
「そうかね」
「おお、そうそう、玄関で執事からメモを受け取ったがね、ロッテン女学院のエレイン・マイヤー副学長はお元気だそうだ」
「え、おにいさま、わざわざ調べてくださいましたの?」
「わが美神の化身たる妹の憂い顔もすばらしいが、やはり笑顔が良いからね。
新聞の女性とよく似た服装の女性をキアサルディで見かけたが、本人かどうかわからない、目立たないように確認してほしいと依頼したのだよ」
「ありがとうございます。お仕事がらみでしたら申し訳もありません」
「いや、私的な部下だ、立場上雇っている者だから、問題ない」
「そうでしたか、それにしてもお気遣いに感謝します」
「いやいや」
「物騒な話だが、気になるだろうからこれも教えておこう。
新聞の女性は、自殺だったそうだ」
この暗号形式は、実際に第一次世界大戦頃まで使用されたそうです。
それを物語用に改変しました
美神と鍛冶神:
美の女神アフロディーテの夫は、鍛冶の神ヘーパイストスとされている。ヘーパイストスは、容姿が醜かったことになっている
ハーキュリーはまず、“美女と野獣”と同じ意味に使われているのではないかと突っ込まれました
意味は「美しすぎると常日頃おにいさまが評価しているわたくしには、容姿が麗しくない男性が夫にふさわしいということですか?」です。貴族の言い回しは迂遠ですね
失敗したと思ったハーキュリーが、挽回しようとしてわずかに及ばなかったのが、「美神の化身たる妹の憂い顔」部分です。下手なことを言って不利になったばかりに、情報を早めに提供する羽目に陥ったのでした、失敗しっぱい
参照:シャーロットとハーキュリーの地位と名称
家:もとカイゼリア公国の公王家、50年前に帝国に帰順
所属する騎士団がカイゼリア騎士団なのは名を引き継いでいるから
現在の地位:帝国の伯爵家で、名称はモンテアルコン伯爵
モンテアルコンは、カイゼリア公国領のモンテ・アルコン、鷹の山から
シャーロット:モンテアルコン家の娘。シャーロット・ロサンナ・ラ・モンテアルコン
ハーキュリー:モンテアルコン伯爵家の長子は、カシアス子爵という後継ぎを意味する名誉称号を名乗る。本来なら公子であり、カイゼリア公王となるべき立場にあった者に対して、帝国から与えられた称号。 ハーキュリー・レーヴェ・ル・モンテアルコン
帝国と旧カイゼリア公国は少し使用言語が違うために、シャーロット、ハーキュリーという帝国の個人名を名乗っているものの、洗礼名と家名はカイゼリアの名称を使用している。これは、帰順時に交わされた文書によって保障された権利