5.宮廷舞踏会に行こう
「おはようございます、おにいさま。 今日もお暇そうで」
「もちろん暇だとも。貴族だからな」
「そうです? 貴族にも忙しくしているお方は多いですけれどもね」
「そこにカウントされないという栄誉に浸っているよ」
「はあ」
「お茶はいただいたようだね。では、この1面を見てごらん」
「おにいさま、タブロイドなど。ゴシップ記事ですか?」
そう言いながらシャーロットは、新聞を手に取る。
「え?」
「ふむ、なかなかではないか」
「あの、おにいさま、わたくし今からマイヤー学園に」
「いや、行くな」
「え? だって、副学院長かもしれません」
「違う。少なくともドレスのデザインは同じではない。もっと襟が高くて、ストイックな感じだった。この写真の女性の襟もとは丸く開いてリボンで結んである」
「確かですか」
シャーロットの語調はきつい。
「昨日、エレイン・マイヤーは確かに茶色のドレスを着ていた。記事にも茶色とある。髪の色も同じようだね。
だが、植物園は4時入場終了だということを忘れてはいけない。あの時間すでに園を出ていたマイヤーがどうやって再び入るのだ」
「いえ、だって、誰かが運び込んだかも」
「バカなことを言ってはいけない、麗しの妹よ。
それは、キアサルディの関係者に疑いをかけているのと変わらない。
更にだね、こんな時間に学院に駆け込んで、副学院長の無事を確認するなど。そんなことをしてごらん、君が昨日、植物園付属のティールームかその付近にいたこと、そこでマイヤーが男性にエスコートされてティールームに入るところを見たと報告しているのと同じだ」
「確かに、その通りかもしれませんが」
「待っていなさい。単に待っていればわかることだよ。
心優しき乙女が、職場の上司を気遣う気持ちはわからないでもない。
だが、デートしているかもしれない場面を知り合いに見られたとなれば、女性の名誉を傷つけるかもしれない。何しろ場所と時間を約束するのに、クリプトグラムを使ったのだ。仕事上の打ち合わせではないかもしれない。
君の言うようにロマンスなら問題ないがね、万一がある、慎重に行動したまえ。
ここは黙って待つのがいいのだ」
「はい、おにいさま。わたくしが短慮でした」
「うむ、よろしい。
確かに短慮ではある。そこは間違いない」
「はい」
シャーロットは萎れて俯いている。非はきちんと認められるタイプなのだ。
「ただ、人の不幸を面白がるわけでも、自分が昨日見たことに興奮するでもなく、すぐに上司の身を慮って、確認しに行こうとした心は実に麗しい。
もう一度皇太子妃の座について考え直してみるというのはどうかね?」
「お断りします」
キッと顔を上げた妹を見て、ハーキュリーは破顔した。
「ほら、御機嫌を直しなさい。今夜は王宮舞踏会だろう。珍しくも清々しいことだが、このわたしがエスコートを申し出よう」
「ええっ! 本当ですか、おにいさま!」
「まあな。エドワード殿が昨夜飲みすぎて二日酔いの上に、腹を壊したと先ほど連絡があったのだ、止むを得まい」
「エドー、あの子はー!」
「まあまあ、年下の従弟をいつまでもひとり占めしてはいけないということだね。たまにはこの兄が出動しようではないか」
「若干気に障りはしますが、今日は素直にお礼申し上げますわ。
ありがとうございます、兄上」
「若干背中が痒い気がするが、今日は素直に受け入れよう。
どういたしまして、美貌の妹よ」
「あの、おにいさま、確かこの前、おまえと私は同じ顔、とかおっしゃいましたよね」
「ああ」
「わたくしを美貌とほめるということは、間接的にご自分の美貌をほめていることになりはしませんか」
「うん? そりゃそうだろう。同じ顔だし、褒めるに値する美貌だろう、共にね」
「この、ナルキッサス! と、申し上げておきますわ」
「いやいや、今時古い。今時というか、2000年以上古い。
ダフォディルズと言いたまえ」
「わかりません!」
「まあまあ、元気が取り柄の妹よ、食事を終えたらドレスを選びたまえ。今日の私は寛容だ、君のドレスに合わせよう」
*****
Narkissas、ナルキッサス:ギリシャ神話、ナルシストの語源 泉に映る自分に見とれて話しかけ続け、水仙になった美青年
Daffodils、ダッフォディルズ:ワーズワースの詩、妹と旅した時に湖のほとりで見た水仙の群生を詩にした。兄妹は仲が良かった
シャーロットは、兄に「ナルシスト!」と言っていて、ハーキュリーは妹に「ご同類だ」、と言い返している。水仙つながり。家庭教師からDaffodilsを暗唱させられたという暗めの共通経験がある
「わかりません!」と返してはいるが、もちろんシャーロットには兄の言いたいことは伝わっている。上手に言い返されて、頭にきているだけ
ワーズワースは桂冠詩人。多くのイギリス人がその代表作とされるDaffodils暗唱を課せられてきた
*****
午後も早い頃、シャーロットの部屋の窓から侍女の悲鳴が漏れた。
「マイレディ、おやめください、思いとどまってくださいませ!」
ハーキュリーが珍しく急ぎ足で様子を見に行く。軽くノックして、「何事だね」と声を掛ける。
ドアが僅かに開き、侍女の必死の顔が覗く。
「ああ、ロード・カシアス、お願いです、レディをお止めくださいませ」
「うん? 入っても大丈夫かね? 着替えの途中では?」
「いえ、散らかってはおりますが、衣装は身に着けておいでです。奥の化粧室へ」
夕方からの宮廷舞踏会に向けて、侍女とともにドレスを選んでいたシャーロットは、鋏を手にして姿見の前のスツールに座り込んでいた。
「どうかしたかね、妹よ。ドロシーの悲鳴が聞こえたが」
「ええ、おにいさま、驚かせてしまい申し訳ありません」
化粧室のトルソーには数着のドレスが着せかけてあり、衝立に掛けてあるものもある。パニエが椅子の背に、ハイヒールが壁の鏡沿いに並んでいる。
本人は、ドレスではなく、パンツとシャツを身に着けている。
「何があったのだね」
「いえ、わたくしが悪うございました。
今夜のドレスを選んでおりましたら、次第にイライラしてきまして。コルセットは嫌ですし、ドレスは重いですし。
それで、ふと、わたくしはカイゼリア騎士団の騎士でもありますので、いっそ騎士の礼服で出席してみてはどうかと」
「フム、なるほど。それはいい」
「え? いいのですか?」
「大変に結構だと思うよ」
ええー! っと、部屋に入って手を揉むようにして事態を見守っている侍女ドロシーの口が叫びかけたが、さすがに躾の良さで声は堪えている。
「それをドロシーに反対された?」
「いえ、髪を切ろうとしまして」
「ああ、なるほど。確かに君が悪いよ」
「はい。侍女の目の前で髪を切れば、侍女が咎められるのは当然です。誰もいないところですべきでした」
「そうだね」
「ふむ、わかっているのならよいだろう。
で、髪を切ってその髪をどうするんだね? 鬘にするかい? それとも付け毛にする?」
「いえ、はい。そこは考えていませんでした。
単に、騎士服を着るなら髪は短いほうがいいかと」
「妹よ、教えてあげよう。
髪を切って鬘にするなら、髪は小分けして、一房直径5ミリほどで縛り、縛った後にその上部から切らなくてはならない。ひとまとめにして切っては、鬘にするとき非常に手間がかかるのだ。
付け毛なら問題ないが、ただそれにしても、切る前に洗髪してからの方がいい。切ってから洗うよりも簡単だろう?」
「なるほど、そういうこともあるかもしれません」
なるほどではありませーん! と侍女は再び絶叫しかける。カイゼリアの姫が髪を切るなど。
女子修道院に入るときでも髪は切りません! それは誓願をお受けいただき、正式に修道女になるときの儀式です!
「そうだね、今日は騎士服で出席するかい?」
「そうしたいと」
「それではわたしも騎士服にするか。
いっそ、わたしが女装もありか。いや、似合いすぎるな、やめておくか。面白がられてダンスの相手を迫られても面倒だ。
そうだな、ここは逆に舞踏会用の盛装にして、騎士服の麗人の手を取ってダンスをするのがいいな、よし、グッときた。それでいくか。
あ、髪ね、切るのは明日にしなさい。鬘にするのも付け毛にするにも、まずは洗髪だよ、君。
ドロシー、シャーロットの髪を二本の三つ編みにして、顔の周りに飾りのようにぐるりと巻き付けるようなスタイルにしてごらん、騎士服でもその髪型なら何とかなるだろう。小さな金の髪飾りをアクセントにするのもよいだろう。悪趣味にならないようにね」
はい、ではありませーん! 伯爵家の婦人が正装といえども騎士の形など、ありえませんわー!
でもまあ、ロード・カシアスの女装は見てみたいかも、いえそうじゃないわ! え、その髪型、ちょっといいかも!
侍女の声なき声は、ふたりには決して届かなかった。ドロシーは、驚いた拍子に、非常識だと主張することを忘れ、ハーキュリーの言うままに髪型を整え、うっかり騎士の礼服まで着せてしまった。
正気にもどって身もだえしたのは、ふたりを送り出した後のこと。