2.クリプトグラムの行方
シャーロットが「事件ですわ、おにいさま」と、駆け込んできたのは午前中。別に事件というほどのこともなく、ただの待ち合わせ指定だと思われたのだが。
現在、兄妹は、サパー (夕食)のテーブルに着いている。
今日は:
ドーバーソール(シタビラメ)のミルク煮
ブロッコリーとジャガイモの温サラダ・炒り卵付き
ほうれん草を裏ごししてブイヨンで伸ばし、ベーコンの角切りが2,3切れ沈んでいるスープ
パンとバター、白ワイン
そして、カット・オレンジ
なぜ? 確かに、素材は新鮮だが。
同じ材料で:
シタビラメの塩コショウ焼きワインソース掛け
マッシュド・ポテトのグリルド・ブロッコリー付け合わせ
ほうれん草とベーコンの卵スープ
が作れるというのに、なぜ魚をミルクで煮るのだろう。
ほうれん草の裏ごしも意味不明。離乳食? なんかこだわりでもあるのか?
そうそう、デザートは、カット・オレンジじゃなく、オレンジゼリーでお願いしたい。あ、甘煮オレンジのミルクゼリーにしておけば、ミルクも使えるではないか!
ハーキュリーは、前世日本人だった自分が、ビウス・ハーモント・固形カレールーを使ったカレーを作れる程度の料理技術しかなく、少なくともグルメでなかったことを日々神に感謝している。
「妹よ、かの簡単至極のクリプトグラムは、どうなったのだね?」
思わずキッと睨みつけたくなるシャーロットではあったが、兄の揶揄(からかい)も、最初の1,2回ならなんとか冷静に躱せる。
「ああ、あれですか? この度は大変お世話になりましたわ。おかげさまで難解至極の暗号文も無事に解読できまして、感謝しておりますわ。
お礼と言っては大げさかもしれませんが、ロッテン女学院の選りすぐりの淑女をご結婚相手としてご紹介いたしましょう」
「いや、いや、愛しの妹よ、そのような配慮はいらぬ。いや、迷惑千万。
うにゃうにゃと訳がわからん上に語尾が消えかかっている発語による会話も、読み取り辛い文字の手紙も、走ることもできぬ体も、すべて、まったくもって、迷惑至極。衷心からお断りする」
「対女性評価基準について若干の誤解をお持ちの兄上に申し上げますわ。
上品な小声の会話、上級ケイマン体による文、淑女の柔らかなからだ、とおっしゃいませ。ロッテン女学院の生徒といえば、その場から王家に嫁げると言われるほどの方々ですわよ。
それに、男子たるもの、守りたくなる女性とはそういうものではありませんか」
ふふん、とハーキュリーは鼻を鳴らす。
「会話が進まぬ。文書で提出してもらっても読めぬ。万一の時、自力で逃げられない妻なんぞいらん」
「まあ! 愛があればどうにでもなりますわ。お姫さま抱っこでお逃げあそばせ」
「その愛が発生する対象外だ」
「はあ、さようにございますか。 おにいさまの趣味も変わっておりますわねぇ」
「そんなことより」
「お礼を述べておりますのに。そんなこと、はありませんでしょうに」
「そんなことより」
食事中で、扇を持っていないシャーロットの右手が、ナイフを握り直す。
「あのクリプトグラムはどうした」
「ああ、あれでございますね。逢瀬を呼びかける文で事件ではありませんでしたので、また靴箱に置いてまいりましたわ」
「誰の靴箱だ」
「もともと、わたくしの靴箱に入っておりましたのよ。
わたくしには心当たりがございませんので、入れた方が間違ったのだと思い、上の靴箱に入れておきましたわ」
「上は誰だ」
「エレイン・マイヤー副学院長ですわ」
「というと?」
「学院長のお妹さまですわね。
学院の外向きはシンシア・マイヤー学院長が扱っておいです。
実の妹のエレインさまが学院内を担当しておられます。エレインさまはシンシアさまより人当たりが柔らかいと言いますか、姉君の毅然とした部分だけでは掌握しきれない女生徒たちの柔らかい部分と上手に付き合っておられるようにお見受けしておりますわ」
「ふむ。恋文の類なら問題ないが。
夕方5時というような時間に、女学院の生徒が付き添いもなく外出できるわけはない。あのクリプトグラムがもうひと捻りしているとも思えぬ。
受け取り手は学院生徒ではなく従業員とみるべきか。とすれば、ある程度自由に外出できる学院長か副学院長で間違いないだろう。
副学長について、もう少々詰めた情報を頼む」
「はい。
シンシアさまは、マーガレット殿下の教養に関する教師として、殿下のご結婚まで皇女宮にお勤めになりました。その間エレインさまもご一緒に宮に上がっておいででした。姉君の手足となって、殿下の学習の進行を見守り、お母上であられる現在の皇太后さまをはじめ、殿下方の教育担当の方々との連絡を丁寧になさっておいでだったとのことです」
「年齢は」
「エレインさまですか? はっきりとは。
およそ34,5のあたりではないかと」
「容姿は」
「薄い栗色の髪をシニヨンにまとめておられます。瞳の色はアーモンドよりも黄色に近く、シトリンというべきでしょうか。いつも茶、濃い緑、紺などの地味なドレスをお召しで、姉君より目立たないように工夫しておいでのようにお見掛けします」
「顔はどうだ」
「平凡と申し上げておきます。
いえ、目立たないようにしておいでですが、華やかにお化粧をなさり、明るい色のドレスをお召しになれば十分にお美しいように思われます」
「不美人ではないということでいいか」
シャーロットは右手の人差し指と中指をすっと伸ばし、ナイフを持ち直す。
「あ・に・う・え」
「なんだ」
「女性に対する言葉ではありません!」
「そうだな、女性はみな美しい。
だが、わが妹を上回る美しさは探し求めるも難しい」
「あら、おにいさま、そんな本当のこと」
「ま、俺と同じ顔だがな」
次の瞬間、銀光の尾を引いてナイフが飛んだ。
ハーキュリーが左手のフォークで”キン“と撥ね、給仕をしていたページがため息をついて絨毯に落ちたフォークを拾った。
この世界には、シタビラメのミルク煮よりもっと恐ろしい料理も存在しています。怖いもの見たさでトライしてみたい方は、こちらをどうぞ
参照:映画・バペットの晩餐会 (物語が始まってすぐあたり)