11.ハーキュリー、結婚する
「ハリー、結婚するってことだけど?」
執務室で母がハーキュリーのティーカップにお茶を注ぎながら尋ねている。早急に領地実務を引き継ぐためにふたりは朝から執務室に籠っていた。ちょうどお茶の時間だ。
「そうです」
「だれと?」
「母上は誰を勧めます? 嫁姑関係があまり拗れるのも嫌ですし」
いかにも前世日本人男性の発言だ。あるいは前世で母と妻の間で苦悩したのだろうか、むむぅ、ちょっと知りたい。
「何をおっしゃいます、子爵サマ。どなたなりとも」
「いいのですか?」
「いいも悪いも。シャロの嫁入りの件も聞きました。母よりシャロとうまくいかなければ。
そうですね、希望を言わせていただけば、領地の冠婚葬祭を堅実に回せる方でないと。領主夫人の役目は簡単なものではありませんよ」
「そうでしょうとも。
息子が二十歳を越えているというのに美貌の衰えもなく、頭脳も冴えわたる我が母君、私はミリセント・ダウンズが適任だと考えています」
「え? ミリセントですか?」
「ええ」
「知を以って皇都に名をはせる我が息子よ、マジでミリセント?」
「です」
「うーーーん」
侯爵夫人はこめかみを押さえて唸った。
「ハリー、ごめんなさい、ちょっと眩暈が」
「それは大変です、伯爵夫人、すぐにメイドを呼びましょう」
「ちょっと待てや、バカ息子。どうするつもりなのよ、ミリセントは当主張ってるでしょ! ダウンズ家はどうすんのよ!」
「ミリセントが男の子をふたり産むのです。次男にダウンズ子爵を授ければよろしいかと、賢さで知られたる母君」
「さらにちょっとお待ち。おまえの持つ知者のふたつ名はしばし預かります! ダウンズは我が領の名家。しばらくなりとも当主空席は許されません」
「ミリセントの母は母上と同じお齢ではありませんか?」
「そうですけど?」
「今は母上の筆頭侍女ですよね、世代交代してはいかがでしょう」
「それが? どんな関係がありますの?」
「信頼できる人物を筆頭侍女殿と結婚させて、ミリセントが産む次男が後を継げるまでダウンズ家を維持してもらいましょう、ねえ、母上?」
「え、いや、それは」
「ミリセントは、騎士であった父が殉職し、致し方なく城を去って婿を迎えましたよね。その夫に裏切られて離縁です。それでも腐ることなくひとりで当主を務めてくれているではありませんか。ですが、負担をかけすぎだと思うのですが、いかがでしょう、領主夫人」
「はあ、まあ」
「ひとりの犠牲で伯爵家もダウンズ一族も楽をしておりますけど、賢女と領地に名を馳せる美貌の母上、本当にそれでよろしいので?」
「うーん、痛い。 それはすごく痛いですよ、我が息子よ」
「というわけで、ミリセントで」
「はあ。 確かに、ミリセントなら領地の差配もできますし、領民にも知られております。民の不満も汲み取りやすいでしょう。自分が父の死と夫の不貞で苦しんでいますから、女性の立場を尊重することもできるに違いありません。
シャロの乳母娘ですから、シャロともうまくやれるでしょうし、もちろん私にとっても縁ある娘、何も不満はありません。
ですが、初婚の我が息子よ。ミリセントは再婚、それは気にしないのですか?」
「おやまぁ、母上、遅れています。
ミリセントが処女でないと言いたいのでしょう? ばかばかしい」
「はい~?」
「母上は私を産んでいますから、処女ではありませんが、それで人間としての価値が落ちましたか」
「いや、どうでしょう、仮に伯爵がお若いうちに儚くなられたとしたら、再婚先のお相手が初婚ということはなかったのでは」
「それは、男がバカなんです」
「はい~?」
「母上ほどの美貌と知恵を兼ね備える淑女を、たかが初婚か再婚かで判断するとかアホ以外の何者でもありません。周りがいい嫁ぎ先をと評価を盛っている見知らぬ処女でなく、すでに能力を証明していて、家族同然でもあった女性を選ぶのは合理的です。 ミリセントは子爵家当主としての采配に優れた結果を残しておりますし、シャロや母上との関係も良好。どこに問題があります?
どうでもいいことを問題にすべきではありません。男女平等! 男には閨教育の実践までさせ、女は処女でなくてはならないとか、平等精神に反しています。他の家の男の子種を避けるべきだというなら、月のものを一度迎えれば充分です」
いやもう、我が息子ながら何という言い様。男女平等という言葉など聞いたこともない。貴族家の当主問題を一時的に解決するためだけに隠れた合意として用いられるに過ぎない。女性当主はできるだけ避けるべきとされている。それは、貴族家当主には“戦になったら当主は部下を率いて参戦する”義務があるだからだ。
従軍義務を排除した“言葉としての男女平等”は、この時代事情を考慮していない。
しかし、伯爵夫人は理路整然とした反論を俄かには思いつかず、憮然としている。
ミリセントがかわいくない筈はない。自分の筆頭侍女の長女で、乳母娘としてシャーロットやハーキュリーの遊び相手や勉強仲間を務めてきた。
侍女は双子と同い年だった長男を生んで間もなく失い、乳が止まらなかったためシャーロットの乳母とした。双子だったのにひとりしか乳母を用意していなかったので、伯爵家としても助かったと言える。
やがてミリセントが生まれたが、ひとりっ子のまま成長した。養子を迎えるか婿を迎えるかと相談が始まった頃、騎士団に所属していた父・ダウンズ子爵家当主が、国境紛争の際に殉職した。当主がいなくては養子の見極めも難しく、ミリセントはやむなく婿を迎えて婿を補佐に当主の席を引き受けた。
だが、何を誤解したか当初から振る舞いが横暴で、ついに愛人を連れ込んだため離婚となった。
その後再婚を勧めてもみたが、当人がまだ心の整理ができないと固辞している。このままではいけないと周囲はやきもきしてはいるのだが、事情が事情で、押し切れないでいる。
ミリセントは、伯爵家の跡継ぎの妻としても十分な仕事ができるだろう。だが。 領主夫人が再婚というのは。だれも口にはしないだろうが、外聞が悪いというのも確かなことだ。
ハーキュリーは、内心ニマリとしてかき回しに取り掛かる。
今こそ前世でさんざんひねくり回して遊んだ屁理屈が実用となる時!
「いいでしょう、母上、わが前世の記憶をお教えします」
「そう言えばあなたは前世の記憶が蘇ったと言っていましたね」
「そうです。 別にホラを吹いているわけではありません。輪廻転生という考え方があるのです」
「はあ、そうですか。よくわかりませんけど」
「まあ、私もわかっているわけではありません。
転生の虚実はともあれ、せっかく記憶を取り戻したのだから、使わないと損だと思っているだけです」
「まあその話はよろしいですから、言いたいことを続けなさい」
「ええ。
処女の話でしたね。私の生きていた国では、千年以上前の古い物語を記した巻物がいくつか残っているのです。その中に、貴族の生活を描いた恋愛物語もありましてね」
「それで?」
「そこに、乙女が口説かれる話があるのです。
主人公の公子は数々の女性を相手にしてきた好き者です。容姿も整っており、地位もあり、当時一夫多妻は受け入れられていたので、その男が口説く相手には夫人になるチャンスがあったのだから、モテるのも当然ではありました。
その男がですね、関係を持つのを嫌がるまだ年若い乙女にこう言うのです。
『あなたは知っているだろうか、この世とあの世の間には、深く流れの速い河がある。女性のか弱い足では渡れないほどの。だから、乙女を女にした男性が背負って渡すのだ。あなたがこの世に別れを告げる時、かならず私がお待ちしていて渡してさしあげる』
母上、どう思います?」
「え、いや、今一瞬ロマンティックだと……」
「母上も大概あほですよね」
「ええー、かわいい息子に面と向かってアホと言われる日が来るとは」
「母上、よく考えてみてください。
この公子は何人もの処女を相手にしているのです。この口説きセリフに多少なりとも誠意があるならば、彼はすべての相手が亡くなって川を渡すまで、自分は川を渡って極楽浄土に行くことができず、深くて流れの速い河を何往復もしなくてはならないのです。三十近くなって十代の娘を手込めにする男が、20年も川のほとりで待つと思いますか?」
「えーっと、ではわが美貌の息子は、この話に従えば妻とした女性を背負って川を渡す役目は放棄したいということでよろしいですか? そして、妻が他の男に背負われて川を渡るのを指をくわえて見守ると?」
「母上、麗しの伯爵夫人は、伯爵に背負われて川を渡りたいという意味でしょうか」
「うーん、どうかしら?」
「自分の川は自分で渡る、そういう強さのある女性だと思っておりましたよ、母上」
「うーん、回答できません」
こうして話は見事うやむやになり、屁理屈作戦で勝ったハーキュリーは、ミリセント・カロリーナ・ダウンズと結婚することになった。
「ふん、外聞など私がミリーにデレデレなところを見せれば、あっという間に一掃です。“あれでは反対などできようもない””伯爵家は熱愛の血筋だったのだな“といわせてみせますよ」
「まあ、ハリー。あなたミリーにメロメロなの? 城を去ってから会ったこともないでしょう?
そんなそぶりも見せたことがないし。どうしてもっと早く言わないの。3年前なら間に合ったのに」
「いや、別にメロメロとかありません。ミリーの適性を評価しているのです。
それに母上、間に合うとかミリーにいや、再婚する女性すべてに失礼ですよ」
「おやぁ? そうかしらぁ? 何か隠していますよねぇ、美青年? ほらおかあさまにうちあけてごらん」
「何もありませんっ」
長男の結婚に許可を与える立場の伯爵は、大笑いして「GOOD CHOICE (よいではないか)」とだけ大文字で書いた紙を返してきた。夫人が出した手紙には、便箋10枚以上にわたって事細かに、息子が展開したあきれ返るしかない論が書き綴ってあったのだけれど。
この結婚には、ミリセントの母が結婚して当主代理を承る、伯爵夫人の筆頭侍女が交代する、順次席次が変わるなどという人事処理が山盛りついてくる。領地の差配をするハーキュリーは席を温める時間もない冬を過ごしたのだった。
伯爵夫人は、ざまあご覧あそばせ、自業自得とはこのことですわ、と娘とのんびりお茶をしたり、侯爵夫人としての教育を施したり、真っ青になって登城してきたミリセントを愛でたり、うろたえる侍女頭を宥めながら意中の男性を探ったり、それなりに働きながらも息子の奮闘を楽しんだ。
そして馬車道が雪で使えなくなる前に、ゆっくりと帝都に向かった。
きっといつか本音を吐かせてあげるわ、と心に誓いながら。
春先、まずミリセントの母が長年一緒に仕事をしていた執事のひとりを婿に迎え、城を去ってダウンズ子爵家の当主代理となった。ハーキュリーが自ら望んで花嫁の手を花婿に渡し、花婿の左手首と花嫁の右手首をリボンで結びつける役目を引き受けた。
このリボンは、結婚の誓いの後結ばれて寝室に入るまで解いてはならない決まりで、ふたりはありとあらゆる場所で譲り合うことになる。これが結婚というものだと心に刻みつけてもらおうという、古式に則った儀式らしい。
春もたけなわ、ハーキュリーは満面の笑顔でミリセントを妻に迎えた。
「ねえ、おにいさま、野暮なことをお聞きして本当に申し訳ないのですが」
「ますます美しさの増す妹よ、今日の私は見た通り大変機嫌がよい。
何なりと聞きたまえ」
「では、歯に衣を着せずにお聞きしますが、いつからミリセントを狙っていましたの?」
「そりゃもう、妹よ、ミリーが生まれて間もなく”この子がシャーロット姫の乳母娘で、ミリセントと名をつけました、若君、よろしくお願いします“と言われた時からに決まっている」
「ええー! まさかのロリ?」
「何を言うか、知恵溢れる妹よ、私とてまだ3歳だったのだ」
「兄上、わたくしに通じるとでも。ごまかそうとしても無駄です。
ミリセントにずっと惚れていたのですね」
「ふふん」
「あにうえー、往生際が悪うございます!」
ハーキュリーのこめかみに、つつっと流れた冷や汗を妹が見逃す訳もなかった。
よいカードが手に入りましたわ、有効に使わせていただきますわよ、お・に・い・さ・ま。 シャーロットが顔をそらして、にやりと笑う。
「ふん!」
この兄妹にしてこの父母あり
あ、逆か。この父母にしてこの兄妹あり
念のため:
好き者は、ハーキュリーが皮肉として言い変えています
数寄者が正しくて、本業の他にお茶やお花のような典雅な趣味をたしなむ風流人、という程度の意味です




