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無数の弾道ミサイルと、漫画『からくりサーカス』が同時にXのトレンドに上った夜に考えた徒然

作者:

子供の教育に必要なのは、どうしても、「笑わせる事」である様に思えてならない。少なくとも、泣かせる事より、笑わせる事の方が、時間の大きさとしては占めるべきだ。そう考えてしまう。そう考えてしまう自分は、子供にかしづき、言いなりになることで、却って子供の危険を避ける能力を育てさせていないんじゃないかという不安も抱えてはいるが。

厳しくする事は、大人が見ていなくても、自分の命を粗末にしない判断を下せる様に育ってほしいからそうするのだ、と思う。しかし厳しくする事は泣かせる事…つまりこれは殆ど怒らせる事とも同義であるのだが、この泣かせる事とは、必要に応じて行動するという教育なのだ。泣く、これは子供にとって生来の反応である、から必要に対する最も苛烈な、切実な反応である。即ち、本能。

対して、笑う事は、必要だからするのではない。したいからするのだ。だからこそ自分には、笑う機会、笑っている時間の多さに重要さを感じてしまう。それは、前述の本能の中核そのものとも言える泣く事に象徴される必需からすると、逆説的であるとも考えられる。「生きるためにしなければならない事より、したい時に勝手にすればいいだけの事が重要だって言うのか?」と反論されれば、それに答えるのは容易ではない。

だけれど、自分なりにそれに答えてみようと言葉を探す必要はある様に思う。必需に対抗して、それよりも大事な事が在るのだ、少なくとも大事になってしまう局面が存在し得るのだ、という事は、「価値」あるいは「価値観」という旗印を笑う事の側に置く事によって始めるべきではないか、と今自分には考えられる。

必要だから泣く事と、防衛の為に軍備をする事は似ている。「武力を持って他国を侵略する事は犯罪であり、人類全体で反対しなければならない」と論じたのは十八世紀のカントだ。そしてその後、ちょうど科学においてアインシュタインがニュートンのものを修正した力学が広く認知され始めた頃に、「軍備自体が侵略と不可分の人類的犯罪である。それが例え自国の防衛の名目であってさえも」と修正し、「主権国家そのものを違法とする外ない」と論じたのが、元はSF作家である思想家、H.G.ウェルズだった。

ここでは誰もが「そうするより外ない」と言っている。外見上は、みんな「泣いて勝ち取る事の世界」の御業で世の中が動く。外交が動く。しかし、「防衛の必要を訴える事」と、「防衛の禁止を訴える事」との間には、やはり何某かの「価値観」の隔たりがある事を認めねばならぬ様に、自分には思われる。

戦争は「それが必要だから」行われるのだ。そのように喧伝される。一方で戦争の固辞、即ち平和主義は「それが嫌だから」訴えられるのだ。それを嫌だと思うためには、ある広い想像力を土台とする価値観が要求されてしまう。「ここにいない人間もまた、我々と同じように人間なのだ」という類の想像力をだ。「だから殺したくない」という連想力をだ。

「必要だ」と喧伝されるという事は、「必要だと思え」と強要されるという事だ。国家が今までの所、その意思決定機構の部分だけでは戦争を実行出来ない以上、戦闘員や戦闘補助員にはそれを強要しなければならない。国家は官僚、警察、そして軍隊に命令する力を持っていなければならない(現実にはこれが完全でない為に様々な出来事が噴出する。為政者からみると軍事力の暴発であるクーデターは典型的事件であるが、汚職であるとかもそうだろう)

「必要だと思え」、或いは「必要だという認識が真実だ」に対しては、既に別の「価値観」を持っている者にしか反抗できない。そういうものだから、国際的危機の際の右傾は止めがたいのだと思う。しかし意外なものがそこに、為政者の恐怖と愉悦の錯乱を前にした、大衆への盾でありブースターとして寄与し、立ちはだかったりする。それは取るに足らない一作の子供向けの漫画のストーリーだったりする。一つの論考、一本の映画、一曲の歌、一話のアニメ、或いはゲームの本の一演出…そういったものが、まるでそれまで何も意思など持たないかの様に見えていた大衆を、一つの砲台の中の砲丸の様に纏め上げる時がある。砲丸はそれ自体は動力を持たぬ様に見えるが、時として未知数の熱量を発揮する事がある。万物は熱によって爆発的な力を引き起こすエネルギーをその内側に隠している。

それらの芸術的創作物は、古今東西繰り返し、平和主義的に重要なあるビジョンを訴えてきた。「誰でも自分の好きなものを守りたい。だが、あなたの今見ていないものも、もしかしたら、あなたの好きなものであった可能性がある」、という。

それが、今もフォークソングの中に残る「戦争は嫌だ」という言葉を、万国の大衆の「自らの庇護者の言うそれ」を突っぱねる「真の現実」として、浮上させる事は、果たして本当に有り得ない夢なのか…。皆自分達が死ぬのが嫌で戦争へと赴くなら、自分達が死ぬのが嫌だから誰にも強制させない為に反抗するという闘争は、どうして起こらないのか?現代では起こらないと目算されてしまうのか?「その目算は誤りだ」と考えるところからすべては始まるのではないのか?我々凡庸に過ぎて一見無に見える大衆にも、自身非存在に見える私自身にも、ウェルズのような先人が描いた、そして殆どの人間に無視された世界が、信じ得るのではないか?危機である今こそ。そう、考える以上に信じる。いや、祈る。何しろ、こうして物が書ける事だって、今日が最後かも知れないじゃないか?まだ見ていない、明日から省みれば。

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