31 わたしは誰⑥
──まただ。
フィリと聞けば、ぞわぁっと全身に鳥肌が立つ。
フィリという男とわたしの間に一体何があったのか? どういう関係なのかも分からない。
だけど、その人物からは危険な感覚しか湧かないうえ、懐かしさや愛おしさは感じないのだ。
会ってはいけない。その人物には近づいてはならないと改めて認識すれば、アンドレを見つめる。
「何も思い出していないわ」
「結婚する約束をしていたんじゃないですか? 結婚式という言葉を聞いてから様子が変でしたよ」
「知らないわ! 何も覚えていないもの」
「まあ、ジュディがフィリのことを思い出して仕事を辞めたくなったら、遠慮なく言ってくださいね」
「もし仮にフィリの何かを思い出しても、その人とは絶対に関わらないから! 言ったでしょう、アンドレの所にずっといるんだもん」
やれやれと呆れたアンドレが、深いため息を吐く。
「何度頼まれても駄目です。初めから、ひと月だけの約束ですよ。女性と暮らしていると思われたら、僕の方にも色々と不都合が生じますから」
「ふ~ん、そっかぁ~。アンドレはやっぱり、さっきの話に上がっていた手紙のご令嬢が好きなのね! なんて呼び合っているの?」
首を斜めに傾け、微笑みかけた。
けれど、それを告げたタイミングが悪かったのだろう。
わたしの言葉に驚いたアンドレが、ゲホゲホとスープでむせている。
「あれ? 本当にお付き合いしているとか?」
「ゲホゲホッ。あ~、もう、ジュディは何を言い出すんですか」
「ふふっ、真っ赤になって照れちゃって可愛いわね」
「照れていませんし、彼女との関係は何もありません。手紙でお礼を伝えていただけですよ」
「ふふっ。別に誤魔化さなくてもいいじゃない。もしかしたら想いが届くかもしれないし、一か八か当たってみたらいいわよ」
アンドレの見た目は美しく整っているし、性格だって悪くない。
まあ、厄介者のわたしのことは馬鹿にして笑っているが、他の人には礼儀正しいからモテる気もする。
アンドレは、好きな人との身分差を気にしているのだろうが、お相手がご令嬢といってもすぐに諦める必要はない。まだ可能性はある。
貴族だってピンからキリまであり、令嬢といっても一括りにできないからだ。
家によっては持参金の用意ができず、結婚できない女性がいるのは、わたしでさえ知っている。
自身の後学のためにも彼の恋話をもっと聞きたい。
そんな浮かれたわたしがにこにこ笑っていると、咳払いをした彼の表情が強張った。
「ウゥンッ。僕の顔が赤いのは、スープでむせたせいです。ジュディの、その無神経に人の感情へずかずかと入り込む言動はやめてくれませんか。あまりに続くなら、すぐに事務所から出ていってもらいますよ」
「あ、いや、そんなつもりではなかったんだけど……。ごめんなさい」
「もう結構です。二度とこの話には触れないでください」
またしても地雷を踏んでしまったようで、「はい」と返すのがやっとだった。
◇◇◇
アンドレと険悪な雰囲気になったまま昼食を終えると、エレーナさんと仕事を代わるため、流し台に立った。
「あらッ。もう食べ終わったのかい? ゆっくりしてくれば良かったのに」
「あはは、早く働きたくて」
「随分とやる気だね」
「へへ、任せてください!」
微笑むエレーナがカウンターを見やった。
「それじゃあこれからしばらくは、カウンターに戻ってきた食器を洗ってね」
自分に求められている仕事は、十分に理解している。食器を洗え、ただそれだけだ。
──だけど変だな。
そう言われても作業のイメージが全くできない。
こうなれば恥じらう気持ちを捨て去るしかないだろう。
「あのう……。作業を細かく説明していただいてもいいですか? 初めに聞いておけば、自己流で間違ったことをしないと思うので」
「まあ、ジュディちゃんは真面目なのね。感心だわぁ~」
優しく微笑むエレーナから、感心しきりに褒められたけれど、そんな立場にない。
真実は「食器を洗った記憶さえない」だった。
……どうしてだろうとは思うが、ここでクビにされるわけにはいかない。
家事の記憶がない事実は隠し、真面目な顔に徹する。
そうすれば、「洗剤はこれで。スポンジに付けて。皿を洗って。泡を水で流して」と、一から十までの手順を細かく教えてもらった。
◇◇◇
大概嫌な予感は的中するものだ。
食器洗いさえ分かっていなかった自分である。
もしかして、夕飯を作る作業でも悪戦苦闘するのではないかと思ったが、案の定だった。
早速「きゃぁ~。滑っちゃった」と、食材を流しの中に落とした。
気を取り直し作業を進めたのだが、「あれ、これは皮を剥いたかな?」と首を傾げる。
終いには、包丁で親指の付け根をざっくりと切りそうになり、「あ、危なかったぁ~」と叫ぶ。
開始わずか十分。人参と格闘し一人ごちるわたしを、エレーナは見ていられなくなったようだ。
わたしが「危ない」と言った時点で、すかさず包丁を取り上げられてしまった。
「ジュディちゃんは危なっかしいから、これを頼むわね」
泡食うエレーナがわたしにドンッと託したのは、山のような玉ねぎである。
「手で皮を剥くように」と言われ、これなら爪でひっかけながら、するすると要領よくこなせた。
そんなところをみると、端から不器用ってわけではないらしい。
だけど、包丁は初めて握った感覚がした。変だなぁ?
この歳で食材の皮くらい剥けないとは、一体全体どんな暮らしをしていたんだろう。
今まで、何をして生きてきたのか?
自分というものがさっぱり分からなくて、困惑しかない。
本業の傍ら執筆活動をしている瑞貴でございます。
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