30 わたしは誰⑤
◇◇◇
涙をこぼすわたしを、ただ静かに見ていたアンドレが、おもむろに口を開いた。
「申し訳ありませんエレーナ。ジュディは朝ごはんを食べ損ねてしまったので、空腹で調子が悪いんですよ。先に昼食をいただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。出国用ゲートで一仕事してきたんだもんね。そりゃぁ気疲れもしただろうし、先に食べなさい」
そう言ったエレーナが昼食の乗った銀色のトレーを差し出す。
そうすれば、ふわっとおいしそうな香りが漂ってきた。
艶々のバターソースがかかった白身魚のソテー。それを目の前で見れば食べたい欲にかられる。確かに空腹だし、ごくっと唾を飲む。
だが気疲れなんて少しもないんだけどねと、苦笑する。出国ゲートで好き勝手に言い放ってきただけで、気疲れしたのはむしろナグワ隊長だろう。
そんなことを考えたわたしは、手を振って丁重に断った。
「わたしは何もしていないし、気疲れもしていないんです。エレーナさんが作ってくれた食事を誰よりも先にいただくなんて、できないわ」
その様子を静かに見ていたアンドレが、話を割ってきた。
「ジュディ。体調管理は軍にいる上で重要なことですよ。一人が持ち込んだ疫病で全員が倒れることだってあるんですからね」
「そうはいっても格好がつかないわよ。今日入ったばかりの新人が、兵士たちを差し置いて、ましてや作った人より先に出来立ての食事にありつくわけにはいかないもの」
必死に断りを入れたものの、エレーナが差し出すトレーをアンドレが二つともちゃっかり受け取ってしまった。
「騒がしい兵士たちが戻って来る前に、我々は仕事の話をしながら食事を済ませましょう」
両手の塞がるアンドレが、にこりと笑ってわたしを見つめた。
食事中に仕事を教えてくれるなら、アンドレに付いていくしかないかと考え、「分かったわ」と彼に従った。
◇◇◇
アンドレが厨房と一番離れたテーブルに向かうため、彼の後を追う。
テーブルにトレーを置いたアンドレが、「さあ、食べましょう」と言うため、席に着く。
「仕事の話っていうのは、何かしら?」
「別にないですよ」
「え⁉ さっき、エレーナさんの前ではそう言っていたでしょう」
「ははっ。ああでも言わないと、お腹を鳴らしていたのにジュディは遠慮し続けるでしょう。あとは盛り付けるだけですし、ジュディへ指導しながら作業をするより、エレーナが一人でやった方が早いのも分かりますし」
「それだと、エレーナさんに申し訳ないわ」
「食器洗いは指導がなくてもできるでしょう。ジュディが先に食事を済ませてエレーナと代わるといいですよ」
「でも──」
「いいから、いいから。さあ、早く食べましょう」
アンドレから穏やかな笑顔を向けられたため、うんと頷くと頷き返された。
見ているだけで涎が溢れてくる。
よし食べるかと、ナイフとフォークを手に取った。
ほぐれやすい魚の身を、ナイフを使って丁寧にフォークに乗せ、魚のムニエルを頬張る。
そのおいしさに、にんまりしていると、アンドレがその様子を凝視していることに気づく。
「どうかしたの?」
「ジュディって、相当に物覚えがいいんでしょうね」
「ん? どうしてそう思うのよ」
「魔物ばかりの場所に居たというのに、その完璧なテーブルマナー。短期間で習得したというなら、凄い才能だなと思って」
「テーブルマナーなら、誰だって普通に身に付いているでしょう」
焼いた魚はどこの家でも食べるだろうし、その際は、カトラリーを使って食事をするだろう。
アンドレのその疑問に、むしろ違和感を覚えるのだが。
「僕は少々意地悪をして、そのトレーに肉用と魚用のナイフを置いていたんだけどね。少しも迷うことなく魚用を選んでいたでしょう。庶民の家では、カトラリーの使い分けはしていないはずです」
「そうなの?」
「兵士たちの中には、このメニューをフォーク一本で食べる者も珍しくないですから」
「さあ? その辺はよく分からないわ。記憶にないもの。だけど確かに魚用を意識してナイフを握ったわね」
「さっき泣いていたのは、何かを思い出したからじゃないんですか?」
「ううん、違うわ。ただ、何となく涙がこぼれてきたのよ」
「そうですか……。僕はてっきり、フィリのことを思い出したのかと思ったんですが」
その言葉で全身がざわっと冷えた。
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