29 わたしは誰④
「な~んだ。ジュディちゃんったら、おっちょこちょいだね。間違って使い終わったガラス玉を持ち歩いてちゃあ、水道だって使えないさ」
「え⁉ 使い終わってる?」
「そうだよ。ほらっ、このガラス玉の真ん中。一本、線が入っているだろう」
そう言ってガラス玉を返されると確かに線は見えるが、元からある模様にも見えるけれど?
何のことやらと反応できずにいれば、エレーナが続けた。
「魔力がなくなった印でしょう」
大司教のガラス玉を使う者であれば、当然知っているだろうという口ぶりで言われた。
──けれど、ちっとも知らない。
全くの初耳である。
どうしてだろう……。
土蜘蛛の知識は、当たり前のように頭の中にあった。
魔力なしが生活に苦労する話も。
それなのに、この大司教のガラス玉に関しては、記憶の欠片も残っていない。
これまでの生活で、毎日、使っていたはずなのに。
そうでなければ、使い終わったガラス玉がポケットに入っていないだろう。
これがポケットに入っていた理由を探ろうとすれば、頭が割れるように痛い。
これ以上考えるなと誰かが訴える。何かの警告みたいに。
「はい、これジュディちゃんに一つあげるよ。ないと困るだろう。無駄に使わなきゃ、一か月は持つからね」
「あ、でも」
「カステン辺境伯様が王都へ行く時に、ジュディちゃんの分ももらってきてもらうから、安心してお使い」
にこにこと屈託なく笑うエレーナさんから、別のガラス玉を握らされた。
う〜ん。……どうしたものか。
情けないが、同じものが部屋にたんまりとあるわけで、心から心配してくれているエレーナさんに申し訳ない。
まさかわたしが、転売疑惑を向けられる程、わんさとガラス玉を持っているとは思っていないよね……普通に。
──立つ瀬がない。
そう思いながらアンドレへ視線を向ければ、天井を見て必死に笑いを堪えているし。
内心笑っている彼はどうせ、碌なことを考えていないはずだ。
そうこうしているうちに、エレーナさんへガラス玉を返すタイミングをすっかり見失ってしまった。
当然のことながら今は手持ちのガラス玉はコレだけだし、このまま借りておきたいため、別の機会に新品を返すことにした。
「大司教のガラス玉。わたしの部屋に新しいのがあるので、後でお返ししますね」
「違う、違う。そのガラス玉は、大司教様の手柄にしているだけで、実際に作っているのは王太子殿下の婚約者様だよ、絶対」
「どこからの話ですか⁉︎」
それを聞いたアンドレがわたしより先に食いついた。
「大司教様がかつて辺境伯領まで来たときに、カステン辺境伯がガラス玉を頼んだけれど、その場で作ってくれなかったからね。誰か別人が作っているんだよ」
「僕は聞いたことはないですが、それは間違いないのですか? 王太子殿下の婚約者はドゥメリー公爵家のご令嬢ですよね。彼女が?」
「そうそう。その婚約者様は、私らみたいな魔力のない者に無償で配ってくれているんだから、できたお方だよ」
「どうして、その婚約者様が作った物だと分かるんですか?」
アンドレに続いてわたしもエレーナさんへ疑問をぶつける。
「だってぇ、これが配られ始めたのは、約十年前に次期筆頭聖女様が公表されたのと同じ時からだよ。今、六十歳を超えている大司教様がこのガラス玉を作れるなら、とっくに作っていたでしょうに」
「気づけばこの国に広がっていた気がしますが、エレーナはよく覚えていますね」
「当然さ。このガラス玉のおかげで生活が楽になったんだもの」
「ねえ、それって婚約者様が国民に名前を売る好機なのに、もったいないんじゃない。わたしには理解できないわ」
「ドゥメリー公爵家のご令嬢は、自分の功績を隠してまで国民のために尽くしているのか……」
「やっぱり理解できないわ」
変わった人もいるもんだと、首を傾げる
「ジュディも王太子殿下の婚約者を見習うといいですよ。ジュディときたら、あんなに大量にポケットへ押し込めて、くくっ」
わたしの部屋に売るほどあるガラス玉を思い出したアンドレが、またしても揶揄ってきた。
独りよがりで悪かったわねと、彼をギロリと睨んでみたものの、楽しそうな顔は少しも崩れる気配はない。
もういいやと、気を取り直しエレーナに確認する。
「じゃあ、このガラス玉を作ったのは、王太子殿下の婚約者なんですね」
「ああ間違いないさ。私なんてね、もう九年、王太子殿下の婚約者様のいる王都に足を向けて寝てないんだよ。もうすぐある結婚式のパレードで、この辺を通過するのを楽しみにしているんだから」
「エレーナさん……」
急に目頭が熱くなり、涙が頬を伝う。
「ジュディちゃんどうしたんだい。ごめん、おばさん泣かせるような変なことを言ったかい?」
「……いいえ。このガラス玉が、あまりにも嬉しくて」
「そうかい、そうかい。べっぴんさんは、泣いてもべっぴんさんだね」
──何も分からない。
ほんの一欠けらも過去の自分を思い出せないのに、どうしてか、エレーナさんの話を聞くと、ぼろぼろと涙が止まらなかった。
◇◇◇
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