忘れられた竜のための祈り
竜忘れの洞窟。平和なミノウ平原においても特に静かで、モンスターの危険もほとんどない、すべてから見捨てられたダンジョン——。
その最奥。
何物も載せない、役割を失った無為の祭壇が、そこにあった。
センリたちはその前に立つ。
二人の思考は、言葉を交わさずとも一致していた。
センリは音がしないように慎重にランタンを祭壇の上に置く。
「……なにか起きるかな」ミコさんが心配そうに言う。
「神のみぞ知る——ですね」センリは期待と緊張を押し殺したように答える。
なにも起きない。
静寂とランタンの光が空間を支配していた。いや、弱くなったり強くなったりするランタンの灯りが『無』に抵抗している、そんな風にも見えた。
……時間とは不思議だ。いったい、どれくらいの時間を二人で待ったのだろう。数秒にも、数十分にも思えた。感覚はもう当てにならなかった。
自然と、ミコさんは両手の指を胸の前で組み、目を閉じていた。
それは——まごうことなき祈りだった。センリのための、自分のための、古き竜のための、忘れられた洞窟のための、何も起きない世界のための——神聖な祈りだった。
突然、ガコッと大きな音がした。
「ひゃうっ!」
ミコさんが背筋をピンと伸ばして驚く。
「なになにっ!?モンスターでも出たっ!?」
「大丈夫です。ほら、あれ……」
祭壇越しに見える行き詰まりの壁の一部が動き出し、そこに小さな空間ができたことを、センリはしっかりと見ていた。
祭壇を迂回し、ランタンでその空間を照らす。
壁にぽっかりと空いた四角いスペースは大きくない。縦横十五センチほどのその空間には、ブロンズ色をした手のひらサイズのミニチュアがあった。
思わず声が漏れる。心臓が高鳴って仕方がなかった。
「『生まれ変わりの雛』……」
幻想級——。
未だ誰も手にしたことがなく——実在するのかも不確か。
その存在はこの世のすべてのアイテムが記述されたという一冊の本、『道具大全』の記述でしか確認されていない。
そんな謎に包まれた幻想級アイテムのひとつである『生まれ変わりの雛』に、目の前のミニチュアは瓜二つだった。
「わわわ……! センリくん……これさ、すごいよ……! それにこの感じ——」
ミコさんはすでに【鑑定】を行っているようだった。
「なんだか、あの竜の石像を視たときと同じような——」
センリはまだ呆然と立ち尽くしていた。様々なことが頭によぎる。まるでこのままでは宇宙に連れて行かれるのではないか——そんな風に思うほど、思考だけが彷徨っていた。
そんなセンリを現実に引き戻したのは、柔らかい感触だった。
「センリくん天才! 可愛い! かっこいい〜!」
ミコさんの胸に顔を押し付けられるようなかたちで、センリは抱きしめられていた。身長差から、そうなってしまっているのだが。
「ちょ、ちょっと、なにするんですか!」
センリは顔を真っ赤にしながらも、取り繕うように振り払う。
「もう……油断も隙もないんですから」とは言ったものの、正直完全に僕が隙だらけなだけだった。
センリはミニチュア——『生まれ変わりの雛』に手を伸ばし、それを取ると大事にリュックサックの中に仕舞い込んだ。
「これが本物の幻想級だとか、どんなアイテムなのかとかは、帰ってからゆっくり調べることにしましょう——」
そうしてセンリたちは洞窟探索を終え——帰路につくのだった。
洞窟から出ると、外はまだ明るかった。濃い色の青空に柔らかな太陽の日差し——。草原に吹き渡る爽やかな風が心地よく体に染み渡る。
空気が美味しいとはこのことか、とセンリは思った。
「あーなんだか生まれ変わったみたいだねっ。気持ち〜」
ミコさんは両手をのびのびと上に伸ばす。
フェルト族はやはり元気である。センリはもうくたくただった。
「この洞窟、昔はどんな場所だったのかなあ」
「想像の域を出ませんが……」
センリたちはちらりと脱出した洞窟を見た。
「ここは、竜たちが生まれ変わり——転生するための場所だったのかもしれません」
「竜が……転生……?」
センリはリュックサックを降ろして片手で掲げる。
「『道具大全』に書かれた幻想級のアイテム、『生まれ変わりの雛』の説明文は、たった一行。『生まれ変わることができる』、です。ですからミコさんが視たあの竜の石像のイメージは同じく『生まれ変わり』——『転生』だったのでしょう」
「ああ、そっかぁ! 似た感じだなあと思ってたんだよね」
「——遥か昔の竜は、人間を超える知性を持っていたといいます。ならば、生まれ変わりたいと思った竜がいても——不思議ではない。ここはそうした竜たちが集まり、竜が竜を忘れるための場所——それはいつしか、『竜忘れの洞窟』と呼ばれるようになった——なんてね」
センリが語り終えるとミコさんは納得したような感嘆の声を上げたが、しばらくして黙ってしまった。
少し不安そうな、儚げな表情をしていた。
「……センリくんはさ、生まれ変わりたい?」
「えっ……僕は……考えたことなかったかな。この世界の謎や神秘に夢中で——自分のことをまだそこまで考えてなかった、のかも」
「私はさ。ときどき思ってたんだ。生まれ変わりたいって。アイテムを扱う仕事してるのにさ、ちゃんとした値段もわからないからミスばっかりして……もうやだーってなってさ。まともなスキルを持って生まれたい、もっと理想の自分になりたいって、ずっと思ってた」
でも——とミコさんは言う。
「今日、初めて自分の変な力でも役に立てるんだって思えた気がするんだ。センリくんがわたしのイメージを汲み取ってくれて……それで『なにかがカタチになった』みたいな……だから、今は絶対生まれ変わりたくないっ! センリくんに嫌われたらソッコーで転生するけどねっ」
「嫌いになんてなりませんよ」
センリは反射的にそう言った自分に驚いた。考えるよりも速く、声が出ていた。ミコさんは目を丸くしてセンリを見た。
「嫌いになんて……だって、僕はミコさんのこと……」
あれ……僕はなにを言おうとしているんだ?喉元まで出かかった「好き」という言葉が、猛烈に恥ずかしくなって、発することができない。
これだとまるで……愛の告白みたいな……。いやいや、そういうわけではない。僕は人としてミコさんが好きなだけで——。
「センリく〜んっ!」
ミコさんは戯れてくる大型犬のようにセンリに飛びつき、そのまま地面に押し倒した。
両腕をがっちりと手で押さえつけられていて、足を動かそうにも彼女の体重によって身動きができない。
「ふへへ……」
「あの……ミコさん……?」
嫌な予感がした。ミコさんの顔は、にへらと笑っていて頬は赤みを帯びている。まるでお酒に酔っているかのように。
ミコさんは喋らない。しかし、明らかに興奮している様子で、お互いの顔の距離はまだ離れているにもかかわらず、荒い吐息を直接浴びているように感じた。
「……センリくん、洞窟でさ……。わたしの手、強く引っ張ったよね……だからこれはお仕置きだし……いいよねっ……」
心臓がドキドキしながらも血の気が引くという状況を、センリはこのとき初めて経験した。もしかしてミコさん、またお腹が減って——。
「ご、ごめんなさいミコさんっ、離して……って、どこ舐めてるんですか!? 誰か、誰か助けてー!」
センリの悲鳴は虚しく草原に響き渡る。そこにはモンスターの姿も、旅人の姿もなく——。
ミノウ平原は今日も平和だった。
拙い作品ですが、少しでも楽しんでもらえていれば幸いです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。