〈二〉仲間
じりじりと凶暴な日差しが亮太の浅黒い肌を焼き付ける。熱せられたアスファルトの上にはひっくり返ったセミ。気付かず蹴飛ばしてしまえば、まだ生きていたらしくけたたましい鳴き声を上げて亮太の肩を跳ねさせた。
(なんなんだよ……!)
突然驚かされたことに苛立ちを覚える。腹いせにセミを追いかけて踏み潰してやりたかったが、疲れ切った身体ではそれすら億劫だった。本当は今頃家で寝ているはずだったのに――亮太は先程までしていた仕事のことを思い返して、「クソッ……」と小さく悪態を吐いた。
§ § §
今日の夜勤の仕事は昼頃に終わった。本当は朝の八時には終わるはずだったが、引き継ぎと称した雑用を申し付けられたせいで四時間も延びたのだ。
『本っ当、お前は愚図だな! さっき言ったことがなんでできてないんだ!』
『……すみません』
今日の亮太は工事現場の警備員で、追加された仕事は作業員たちの休憩所の掃除や資材管理だった。前者もそうだが後者は特に建設会社側の人間以外すべきではないだろう。自分は警備会社経由でここに来ているのに、何故そんなことまでしなければならないのだ――そんな反論は考えなくても浮かんだが、亮太が口に出すことはなかった。
こういう手合いには正論が通用しないことなど経験上知っている。雇い主である警備会社側に言ってみたところでそれくらい文句言わずにやれと言われるのが目に見えているし、最悪扱いにくい人間として次から雇ってもらえなくなるかもしれない。下手に反抗して面倒なことになるくらいなら、最初から何も言わない方がいいのだ。
『謝るくらいなら最初からやっておけよ! こうしてる時間が無駄だろうが!』
『……すみません』
だが結局、ルールを無視して仕事を押し付けてくるような人間にはどんな態度を取ったところで無駄だった。亮太がいくら従順に振る舞ってみせても、それが気に入らないのかどんどん仕事を追加してくる。周りの人間は皆、見て見ぬ振り。最終的にこの男より上の人間が昼頃現場にやって来たことで、まだ現場に残っていたら都合の悪い亮太は相手の理不尽から解放されたのだ。
(上司が来た瞬間に顔色変えやがって……)
しかも四時間も多く働いたのに、亮太がもらえる給料が増えるわけではない。あくまで今回の契約は時間ではなく日単位なのだ。残業代という概念はなく、あの男の様子では建設会社側から手当が出るわけもなかった。
誰も助けてくれない。誰も自分を見ていない。きっと皆、この理不尽な罵声を浴びせられるのが自分でなくてよかったと思いながら目を逸らしていたのだろう。これではまるで生贄ではないか――何故自分が見ず知らずの人間たちのために犠牲にならなければならないのだと、亮太の中に激しい怒りが湧いた。
(でも……いつもどおりだ……)
大体どこの現場に行っても生贄は自分になるのだ。それは社会に出てからもそうだし、学生だった頃にもその予兆はあった。勿論当時から何も悪さなどしていないし、身なりだって今よりよっぽどマシだった。それなのにどういうわけか人は皆自分を人身御供とするのだ。
(もうどうでもいい……)
自分はきっとこういう運命なのだ、とどこか諦めにも似た感情が亮太の怒りを胸の奥深くへと押し込めていく。そうして今まで何度もやり過ごしてきた。無理矢理押し込めるたびに何か別のものが漏れ出ている気もしたが、それすらもどうでもいい。
ただ日々をこなせさえすればいのだ――亮太は自分に言い聞かせながら、仕事場を後にした。
§ § §
少し前のことを思い返して、亮太は身体がどっと重くなるのを感じた。
(さっさと忘れろ)
やり過ごして、忘れて、思い出すな――それが一番自分にとって楽だと分かっているのに、根に持つ性格のせいか何度も何度も思い出しては、また別の嫌な記憶も辿ってしまう。そうやって嫌な気分で嫌な想像を繰り返し、この世のあらゆるものが憎くてたまらなくなる。そしてその憎しみや怒りが一定に達すると、再びすべてがどうでもよくなるのだ。
(……馬鹿らしい)
頭の中でどんな想像をしたところで、結局自分の置かれた現状は変わらないのに――一通りいつもの諦めをこなすと、亮太は考えることをやめた。
身体はもうどろどろに疲れ切っているのだ。思考だなんて無駄なものに体力を使いたくないし、さっさとこの炎天下から解放されたい。何よりも一刻も早く横になって惰眠を貪りたかった。
通りかかった公園では子供たちが元気に遊んでいる。無視しようとしても彼らの楽しそうな声はセミの大合唱の中でもよく聞こえて、亮太の視線は本人の意思に反して子供たちの方へと向けられていた。
よくもまあこんな時間に外で走り回れるものだ――眩しそうに目を細め、小さく溜息を吐いた。いつもであれば子供たちはまだこんな時間には遊んでいないはずだが、七月ももう終盤に差し掛かっている。小学校は終業式を終えたのだろう。
(子供は気楽でいいな)
毎日遊び呆けても少し親に怒られるくらいで、何の心配もしなくていい。今日で食費が尽きるかもしれないだとか、この稼ぎだと電気やガスが止められてしまうのではないかとか、最悪住む場所を失ってしまうかもしれないだなんて憂いとは無縁だろう。
ずるいと思ったが、自分も子供の頃はそうだったと思い出し亮太は何とも言えない気持ちになった。生きることに対しては何も心配事なんてなかったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか――何度考えても答えの出ない問いがずしんとのしかかる。
考え事をしていた亮太の足は、いつの間にか止まっていた。その場に立ち止まったまま無意識のうちに公園を駆け回る子供たちをぼんやりと眺めていたが、そのことに気付くと同時に自分に呆れ返る。
(こんなものを見ていたって楽しいことなんて一切ないのに)
逃げるようにして視線を進行方向に動かせば、一瞬だけ何か異様なものが見えた気がして亮太は視線を元の場所へと戻した。だがそこには目立って変なものはなく、どこだろうと探すようにして視線を彷徨わせる。
するとある一点――動き回る子供たちの中に微動だにしない人影を見つけ、これが異様なものの正体だと気付いた亮太はその人影に目を凝らした。
「はつねちゃん……?」
日陰に佇む人影の名前を亮太は知っていた。そして同時に、もやもやとしたものが胸に広がる。自分でも何なのかよく分からない感覚に居心地の悪さを感じて、亮太は首を振ってそれを追い払った。
(何だったんだ……?)
すっきりしないまま視線をはつねに戻すと、別の少女が彼女に駆け寄るところだった。見るからに明るい、快活そうな子供だ。
二人は少し話した後、少女の方がはつねの手を引き走り出した。はつねも抵抗する素振りを見せないことから、嫌なわけではないのだろう。
(ッ……まただ……)
亮太は再び自分の中に先程のもやもやとした感覚が生まれたのを感じた。だがその正体が分からないため、やはり首を乱暴に振って誤魔化すことしかできない。
そのまま二人が見えなくなると、亮太は少し前よりも重くなった身体を引き摺ってとぼとぼと家を目指した。
§ § §
夜勤疲れで眠っていた亮太を起こしたのは、いつもの暑さではなかった。
脳天を突き刺すような、けたたましい女の叫び声。聞き覚えのあるその声に辟易していると、ガラガラッと何度も聞いた音が叫び声に混じる。
「なんてアンタはそんな気持ち悪いの!?」
ガシャン――それは亮太も初めて聞く音だった。しかしすぐにガラガラ、ピシャン――知った音にどこかほっとしたが、先程の知らない音が気になってしまう。少しして壁越しにバタンと乱暴に玄関扉を閉める音が聞こえてくると、亮太は寝ぼけ眼のままベランダへと向かった。
「……どうした?」
案の定そこにいたはつねは、ベランダの手摺りを背に蹲っている。腹でも痛いのかと思ったが、若干歪んだ手摺りを見て亮太はその考えを改めた。
「背中打ったのか?」
その問いかけに、はつねはコクンと小さく頷く。亮太は何かしてやれることはないか考えたものの、自分にできるのはコップの水をあげるくらいだと気が付いて虚しくなった。
「……母ちゃん、なんであんな怒るんだ?」
やめとけ――心の何処かで声がする。これ以上近付いてはいけない。これ以上彼女を知ってしまえば、この粗末な柵が崩れてしまう。
そんな予感があるのに、亮太ははつねの答えを待った。するとはつねは少しだけ顔を上げて、「悪い子だから」と囁くように口にした。
「悪い子って、はつねちゃんが?」
「……そう」
「何か悪いことしたのか?」
「わたしは、いるだけでだめなんだって……お母さんが……」
(ああ、やっぱり……)
その瞬間、心の底から歓喜が湧き上がった。亮太は咄嗟に顔を背けて、喜びに緩む顔を少女から隠す。
口を開けば場違いな言葉が飛び出そうだ。それを必死に押し留めようと口に手を当てれば、好都合にも少女の境遇に絶句する大人が出来上がった。
(俺だけじゃないんだ。俺だけが、ただそこにいるだけなのに理不尽な目に遭うわけじゃない)
こんな感覚は初めてだった。身体の中をざわざわと何かが駆け巡っていくが、それは全く不快ではない。むしろそれが通ったところから広がるのは快感にも近く、きっとこれを人は幸福感と呼ぶのだろう、と亮太は悟った。
自分が幸福感を得られる日が来るだなんて――二重の喜びが亮太の口角を上げる。今までこんな理不尽な目に遭うのは自分だけだと思っていた。だが違ったのだ。目の前のこの少女もまた、自分と同じような理不尽に晒されている。
仲間を得た気分だった。それも、自分が守らなければならない小さな仲間だ――はつねに対してぼんやりと抱いていた何かが、亮太の中ではっきりと形を持った。
「――俺もだよ」
少し興奮が落ち着いてきたのを感じて、亮太はそっとその言葉を口にした。
「……りょうた君も、いらない子なの?」
ぱちりと開いた目ではつねが問いかける。〝亮太君〟という呼び方には一瞬戸惑ったが、この子にならそう呼ばれても悪くない、と亮太は今度こそ少女に笑みを向けた。
「うん。俺も、いらないってよく言われる」
社会に――その言葉はまだ難しいだろうから飲み込んで、亮太はゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
「いっしょだね」
柵越しにはつねが笑みを浮かべる。初めて見る彼女の感情の込もった顔は、とびきりの、歪な笑顔だった。