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ルール  作者: 丹㑚仁戻
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8/28

〈一〉出会い

 頭を突き刺すようなセミの鳴き声が、矢口(やぐち)亮太(りょうた)を眠りから引き戻した。


(最悪だ……)


 意識を手放していればまだこの部屋の不快感から逃れられたのに、一度(ひとたび)現実に帰ってきてしまえばそれは否応なく身体をじわじわと侵食していく。

 開け放たれた窓から入ってくる風はじっとりとぬるく、涼を感じるどころかどんどん暑苦しくなってくる。せめてもの救いは直射日光が当たらないことだったが、北向きの窓しかないこの家は季節問わずにどこかどんよりとしていてカビも生えやすい。さらには窓の外に墓地があるせいで、たとえ視界に入っていなくても湿っぽさが増しているように感じられた。


(暑い。うるさい。不快)


 金さえあればとっくにこんなボロアパートなんて引き払っているのに――扇風機すら買えない自分の金銭状況を思い出して、亮太は自分がこの地獄から脱出できないことを再認識した。

 もし仮に扇風機のみ中古で古いものが安く手に入ったとしても、電気代が勿体なくて結局使うことはできないのだろう。それくらい自分の生活は困窮しており、こうして屋根のあるところで寝られているだけ幸せだと考えるべきなのかもしれない。


(屋根があって幸せってなんだよ)


 毎日生きるだけで精一杯という苦しい現状。それすらも肯定するような考え方に辟易しながらごろりと寝返りを打つと、設定時刻の五分前を指す安物の目覚まし時計が目に入った。


「あー……仕事行かなきゃ……」


 今日は日雇いの仕事がある日だ。本当はどこかの会社に入って働いた方が生活が楽になると亮太にも分かっていたが、就職活動をしてみても生来のコミュニケーション能力の低さと、金欠ゆえの不衛生な見た目のせいで中々雇ってもらうことができなかった。稀に雇ってもらえたとしても、周りの従業員から苦情がたくさん寄せられてすぐに辞めさせられてしまうのだ。

 自分よりも勤務態度が悪い奴など簡単に見つけられるのに、どうして特に悪いこともしていない自分が辞めさせられなければならないのか――そう不満に思ったのも最初だけで、何回もそういうことが続くと自然と諦めがついた。

 だから亮太がしているのは基本的に単発の仕事だけだった。だが毎日仕事があるわけではないから家にいる時間は長くなる上に、金欠もどんどん深刻になっていく。


 どれだけあがいても変わらない環境。頑張ったところで自分はそんな環境から逃れられないと分かっているのに、やる気なんて出るわけがない。

 それでも生きるためには金が必要で、金を得るためには働かなければならないのだ――どうにか自分を説得し、亮太は投げ出した腕にぐっと力を込めた。そうして汗でベタつく身体を起こすと同時に、隣家側の壁がドンッと大きく揺れた。


「……またか」


 恐らく虐待だろう、と亮太は考えていた。隣家には地味な格好をした中年女性と、存在感の薄い少女の母娘が住んでいる。この母親の方が毎日のように癇癪を起こすのだが、それがセミに負けず劣らずやかましい。今回は今の音が鳴るまで静かだったが、普段から一人で喚き散らしては物に当たる音が薄い壁越しに亮太の耳まで届いていた。断片的に聞き取れる言葉は不気味だとか気持ち悪いだとか、ただ怒りたいから思いついた言葉を放ってくる職場の上司のような、そういう類のものだ。

 一方で娘の方は静かなもので、彼女の声というのを亮太は聞いたことがなかった。こちらも理不尽な罵声をただ耐えてやり過ごす部下のような感じなのだろう。母親と違って反応が分からないから実際は全然違うのかもしれないが、そう考えておいた方が楽だった。


(多分、あの子は悪いことなんて何もしていないんだろうな……)


 母親の怒声の内容もあるが、なんとなく亮太はそんな印象を持っていた。悪いことをしていないのに、毎日のように親に虐待される――彼女の置かれた立場にどことなく親近感を覚えたが、だからといって面倒事に首を突っ込みたくはなかった。

 本来であれば児童相談所や警察に連絡するのが近隣に住む大人としての義務なのだろう。だが亮太は一度もそれをしようとしたことはなかった。自分は自分の生活で精一杯なのに、あんなヒステリーな母親に目を付けられたら何が起こるか分からないのだ。


(あの子には悪いけど、他人を助けられる人間っていうのは余裕のある奴だけなんだよ)


 ガラガラ、ピシャン――セミの鳴き声に混じって聞き慣れた音が亮太の鼓膜を震わせた。いつものように少女がベランダに出された音のはずなのに、自分の内側からも響いたような錯覚を覚える。


 気に入らない、気にしない――亮太は雑音から逃げるように、窓を閉めて家を後にした。



 § § §



 全身を叩きつけるような電車の通り過ぎる音。時折襲ってくるそれに嫌そうな顔をしながら、 仕事を終えた亮太は線路沿いの暗い夜道を歩いていた。

 辺りは真っ暗だというのに、昼間と勘違いしたセミが未だにちらほらと鳴いている。汗臭い自分の周りには蚊が寄ってくる。足元に視線を落とせばゴキブリや、コンクリートの道路の上を歩くセミの幼虫が点々としている。

 不快だった。雑音も、顔の周囲をうろつく蚊も、自分の歩行の邪魔をする虫たちも。


 地価の高い住宅街だったら、夜道でももっと快適なのだろうか。最近この辺りは開発が進んでいるらしいから、いずれこんな環境と別れを告げる日が――そこまで考えて、それはないなと亮太は思い直した。開発が進められているのはもっと駅の近くだし、メインは駅を挟んで反対側。貧乏人の多く暮らすこちら側は開発の対象から漏れたのだ。


 明確な線引きだった。お前は一生惨めな人生なのだと、見知らぬ他人に決めつけられた気分になる。


(『街が変わります!』ねぇ……)


 視界の端に見えた文字に、亮太はふと足を止めた。電柱に貼られたこの街の開発を宣伝するポスターだ。初老の男性がにっこりと胡散臭い笑顔を浮かべ、顔の近くで握りこぶしを作っている。


(変わるのは()()()()だけだろ、石山さんよ)


 ポスターの隅に小さく書かれた『市長・石山しげる』の文字を見ながら、亮太は心の中でそう話しかけた。この男がきっと線を引いた張本人なのだ――そう思うと、自分が胸の中に抱くこのもやもやとしたものを吐き出す先は、顔と名前しか分からないこの男なのだという気もしてくる。


(……ま、俺の言葉なんて届かないんだろうけど)


 第一、亮太にはそれ以上の行動を起こす気はなかった。何だったらここ数年選挙にすら行っていない。


(どうせ貧乏人の意見なんて反映されないんだよ。……あの線引きは正しいしな)


 自分は一生貧乏人なのだろう――他人から言われずとも、誰よりも亮太がそれを一番自覚していた。

 何せ自分は、丸一日働いても五千円稼ぐのがやっとなのだ。日給一万円の仕事も探せばあるものの、そんな魅力的なものは毎日あるわけではない。そもそもこの五千円の仕事にしたって月の半分もなかった。

 今日亮太の稼いだこの五千円は、来月の家賃と光熱費等の支払いのために貯金しなければならないため、使えるのは五百円と少しだけだった。次の仕事は三日後、それまでこの金額でやり過ごさなければならない。

 米や買い置きの食料はまだあっただろうか――常に隙間の目立つ自宅の食料棚を頭の中に思い浮かべる。備蓄があれば比較的余裕があるが、なければ厳しい戦いになるのは目に見えていた。


 ――ギギ、ギギ、と嫌な音を立てて軋む外階段を上ると、亮太の暮らす家はもうすぐそこだ。

 アパート二階の手前二部屋は他人の家で、一番奥が亮太の城だった。六畳一間、風呂付き。共用の水回りは不衛生な外見のせいで以前追い出される原因となったことがあったため、家賃が少し高くなってしまうが仕方なくこの部屋に住んでいた。


 鍵を開けて中に入れば、むわっとした空気が亮太を出迎える。蛍光灯の明かりをつけると広がるのは、家を出た時と変わらない光景。先程まで金のことを考えていたせいか、いつものことなのに無性に虚しさを覚えた。


「あっちぃ……」


 今歩いてきた外の方が明らかに暑くない。亮太は荷物を放り投げてベランダに出ると、手すりにもたれるようにしてくるりと身体を反転させた。と同時に、何かが見えた気がして無意識のうちにそちらへと視線を向ける。


「…………」


(見なかったことにしよう)


 さっと視線を前に戻し、そう決めた。何故ならもし今見たものが自分の思っているとおりなら、()()は何時間も外にいたことになる。となるとこの季節であれば熱中症で死んでいてもおかしくはなく、流石の自分でも死体なんて見たくない――一気に思考を巡らせ、亮太は関わらないことが最善だと判断した。


(でも……)


 もしまだ生きているなら助けてやらないと本当に死ぬかもしれない、と頭の片隅から小さな声が聞こえてくる。そんなことを思う余裕などないと亮太は自分に言い聞かせたが、その声はどんどん大きくなっていった。


(関わるな。大体生きていたとしても他人を助けるほど俺は――)


「……元気か?」


(なんで声かけてるんだよ、俺)


 自分の意思を無視して口から出た言葉に、しまった、と亮太は顔を顰めた。そんなに大きな声ではなかったはずだが、聞こえてしまっただろうか。頼むから反応しないでくれと思いながら固まっていると、それはゆったりとした動きで亮太を見上げた。


「……こんにちは」


 噛み合わない会話だった。だが返事があったということは、それ――もとい隣人の少女がまだ生きているという証でもある。

 返事があって困っているのか、それとも彼女が生きていて安堵しているのか。自分のものなのによく分からない感情が、亮太の皮膚の内側をもぞもぞと這い回る。そんな感覚を誤魔化すように亮太は慌てて口を開いた。


「ず、ずっとここにいたのか?」


 意識があると分かった途端、子供相手にすらうまく口が回らない自分に情けなくなる。だが少女はそんな亮太の様子を気にする素振りを見せることもなく、小さく首を縦に振った。


「……み、水飲む?」


(何聞いてんだよ。うちに他人にやるような水はないだろ)


 知らず識らずの内に問いかけてしまった言葉に、亮太はまたしても顔を顰めた。だが少女はずっと外にいたのだ。それを知ってしまった以上、今更この言葉を引っ込めるわけにはいかない。

 亮太は仕方なく自分の発言を受け入れたが、少女から返ってきたのは予想外のものだった。


「人から、もらっちゃだめって」


(なんだよそれ……)


 他の状況ならまだしも、今の彼女の身体は大量の水分を欲しているはずだ。それなのに迷いなく自分の申し出を断った少女に、亮太はなんとも言えない気持ちを抱いた。

 きっと母親に言われているのだろう――そう気付くと同時に、亮太は部屋に戻ってコップを手にしていた。シャーと音を立てて水で満たされていくコップを見ながら、胸の奥がむずむずするような、凄く嫌な感覚が膨らんでいく。

 キュッと蛇口を捻って水を止めると、零さないように、だが急いでベランダに戻った。


「ん!」


 子供のような態度で少女に水を差し出す。だが少女は無表情のまま、「でも……」と受け取ろうとしない。


「ならここに置く。お前は俺からもらったんじゃなくて、ただそこに落ちてたのを拾っただけだ!」


 亮太は乱暴に言うと、手を伸ばして少女の家のベランダにコップを置いた。無茶な言い分だとは自分でも分かっているが、咄嗟に出てしまったのだから仕方がない。

 少女はしばらく動かなかったが、やがておずおずとコップを持ち上げ、ゆっくりとそれに口をつけた。一口、二口――最初は控えめだったものの、すぐにコップを大きく傾けてゴクゴクと水を飲み込んでいく。遅い時間とはいえ、こんな真夏に何時間も水なしで外にいたのだから当然だろう。すぐに空になってしまったコップを見つめる少女に、亮太は「おかわりいるか?」と問いかけた。


「でも……」

「いいんだよ、飲め飲め。今日は水入りのコップがよく落ちてる日だ」

「そうじゃなくて……」


 少女がもぞもぞと気まずそうに身じろぎをする。だが亮太が察しないことを悟ったのか、少女は言いづらそうに口を開いた。


「おしっこ、行きたくなっちゃう」

「あ」


 その問題があった、と亮太は口をぽかんと開けた。このアパートのベランダは家ごとに独立していて、大人の亮太が手を伸ばしてやっと隣の柵に届くくらいの距離がある。だからコップは受け渡せるが、小学校低学年くらいだろうか、そんな小さな少女が柵を渡るのは無理だろう。亮太が支えてやろうにも、中途半端に距離があるせいでうまく腕に力が入れられないのは目に見えていた。

 幸い少女の口振りでまだ尿意を催していないと分かったが、亮太はコップを回収しながら「じゃ、じゃあ、また今度な」と、情けないことしか言えなかった。


「…………」

「…………」


 沈黙が流れる。聞こえてくるはずの虫の鳴き声も聞こえない気がして、亮太は部屋に戻ろうとそそくさと窓枠に手をかけた。


「なまえ」

「え?」


 逃げようとした亮太を、少女の声が止める。


「名前って、俺の?」


 そう問えば、少女はコクリと頷いた。


「矢口……矢口亮太だよ」


 何故答えているのだろう、とどこか遠くで亮太は思った。別に知られて困るわけではないが、名乗ると相手と近くなってしまうような気がするのだ。それなのに亮太の口は止まることなく、更に「君は?」と無意識のうちに動いていた。


「はつね。おおくらはつね」

「はつねちゃん、ね」


 どんな字を書くのだろうか。疑問に思ったが、それを聞いてしまったらますます戻れなくなってしまう。だから亮太は「おやすみ、はつねちゃん」と一方的に言って、少しぬるくなった部屋の中へと飛び込んだ。

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