〈三〉起こっていること
「――亜美!」
佳織に対して色々と思うところはあった。だが廊下の向こう側から自分の名前を呼びながら走ってくる三人を見て、それらがどうでも良くなるくらいの安堵が亜美の中に一気に湧き上がった。
「菜月!」
思わず抱き締めれば、菜月は「心配かけてごめんね」と抱き返してくる。先程まで生気のない紗季を見ていたせいもあってか、彼女の腕の力とぬくもりが一層亜美の目に涙を誘った。
「色々と菜月の勘違いだったみたいだよぉ」
たまも笑いながら菜月の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。菜月の「やめてよー!」という声ですら今は彼女の無事を実感させるものでしかなく、亜美はたまと顔を見合わせて笑みを零した。
だが、それも束の間のこと。はっとしたように辺りをきょろきょろと見渡したたまが「紗季は?」と尋ねてきたことで、亜美の身体はぎくりと固まった。
「さ、紗季は……」
菜月が無事だったことに対する喜びが、あっという間に萎んでいく。
(そうだ、佳織に聞かなきゃ……)
聞かなければならないと分かっているのに、聞いてしまえば何かが壊れてしまう気がした。
それでも聞かないわけにはいかないのだ。菜月は無事だったが、紗季は違う。彼女は未だすぐそこの教室で、固く目を閉じたままなのだ――少しの間黙って考えていた亜美は菜月から離れると、意を決したように手に持っていた紗季のスマートフォンを佳織の前に突き出した。
「佳織、これどういうこと!?」
その亜美の行為に佳織は驚いたように目を丸め、菜月とたまは「それ、紗季の……?」と怪訝な表情を浮かべている。
「どうして亜美が紗季のスマホを……?」
菜月が小さく呟く。佳織にしか画面が見えないせいで、亜美が何を示したいのか分からないのだろう。
亜美はそんな菜月たちの様子に気付いていたが、敢えて佳織から目を逸らさないまま視線を鋭くした。
「紗季はずっとここにいた! あの声に答えたから! だからここでずっと……あんな……死んだみたいに……」
紗季の状況を説明しようとすると、亜美の言葉はどんどん勢いを失っていった。彼女の状態がはっきりと分からないのだ。見ただけでは死んでいるようにしか見えないが、そんなものは受け入れられない。だが他に説明する言葉も見つからず、だからと言って声に出してしまうとそれが事実だと受け入れなければならない気までしてくる。
(大丈夫、きっと紗季は無事だ……この後救急車を呼んで……)
自分に言い聞かせるようにこれからのことを考えていた亜美の肩を、佳織が「ここにいるの!?」と言いながらバッと掴んだ。
「紗季はここにいるんだね!? じゃあ蓮兄も……!」
「な、何……!?」
喜びに満ちた佳織の顔が亜美を困惑させた。佳織には自分の言葉の意味が分かるはずなのだ。佳織が「もういいよ」と答えろと言ったせいで紗季がそのとおりにしてしまい、彼女の身に何かが起きたのだと。
今までは偽物の紗季を本物だと信じていたから、何も起こっていないと思っていたのかもしれない。だが自分は今確かに〝紗季はずっとここにいた〟と告げた。仮にその意味が理解できなくても聞き返すくらいはしてもいいだろう。それなのに佳織は明らかに状況が分かった上で、聞き返すこともせず喜んでいる。
(なんで……? 紗季が大変なのに……!)
佳織が蓮兄と呼ぶ人物のことを亜美は知らない。だが自分は紗季が死んだような状態だと言ったのに、それを聞いてこんなにも喜びを顕にする佳織に怒りが湧き上がった。
自分の言い方が悪かったのだろうか。言葉を濁してはっきりと言えなかったから、紗季がまずい状態だとうまく伝わっていないのだろうか――怒りと冷静さの間で亜美が言葉を探していると、菜月が亜美の手から紗季のスマートフォンを引ったくった。
それをたまと二人で見ながら一気に顔を青ざめさせていく。やがて最後まで読み終わったのか、菜月はゆっくりと視線を上げると、「紗季はここにいるの……?」と震えた声で亜美に問いかけた。
「いる……いるけど、起きなくて……」
「でもいるんだよね……!?」
語気の強まった菜月に、亜美は小さく何度も首を縦に振ってそれに答える。それを見た菜月は「どこに……」と言いながら亜美の出てきた教室の方に向かおうとしたが、たまの「待って」という声に足を止めた。
「『ずっといた』って……?」
そう言って亜美を見つめるたまの目は、不安に揺れていた。
「だって、紗季は今日普通に学校にいたじゃん。亜美だってそれは分かってるでしょ? なのにさっき『ずっとここにいた』って……」
「……紗季は昨日からここにいたの。今日私たちと一緒にいた紗季は多分……違う」
「『違う』って、どういうこと……?」
たまが顔を引き攣らせる。菜月も困惑したような表情をしていることから、何か嫌なものを感じ取っているのかもしれない。
(どう言えばいいのか……)
亜美も紗季の身に何が起こったか完全に理解しているわけではない。それをどう説明すればいいのかと考えていると、佳織が「初音ちゃんだったんだよ!」と言いながら亜美たちの間に割って入った。
「あれは紗季じゃなくて初音ちゃんだったの!」
「またそれ! 佳織もさっき『あれは紗季じゃない』って言ってたけど、何が起こってるか分かってるんだよね!? ちゃんと説明してよ!」
そう声を荒らげて佳織を睨む菜月の目には怒りが滲んでいた。だが佳織は怯んだ様子もなく、菜月の視線を正面から受け止めている。
「紗季は初音ちゃんとかくれんぼしてるんだよ! だから入れ替わってた!」
「だからそれを説明してって言ってるの!」
(ここでかくれんぼって……あの怪談に出てきた子……?)
菜月の怒声を聞きながら、亜美は初音という人物の正体がやっと分かった気がした。
紗季と佳織のやり取りからすれば、「もういいかい?」と自分たちに問いかけたのはきっと〝初音ちゃん〟なのだろう。紗季はその声に「もういいよ」と答えてしまった。そして佳織が言うには、紗季は今〝初音ちゃん〟とかくれんぼをしている――亜美が思考に沈んでいると、佳織が「ねえ、亜美!」と勢い良く自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「起きないってことは、紗季はどこかで眠ってるんでしょ!?」
「そ、そうだけど……」
「じゃあ蓮兄も……私の従兄弟もどこかで眠ってるんだよ! 行方不明なんかじゃない、ちゃんとここにいるんだ!」
そう言う佳織の顔は先程よりも更に喜びに溢れていた。相変わらず亜美には理解できなかったが、佳織の〝眠っている〟という言葉に思考が止まる。
(紗季は、眠ってるだけ……?)
眠っているだけなのであれば、紗季は無事なのだ――亜美がそう希望を抱いた時、菜月が疲れたように声を上げた。
「待ってよ、本当に意味が分からない……! 今は紗季の話なのに、どうして佳織の従兄弟が出てくるの?」
同じことの繰り返しで要領を得ない佳織に辟易しているのか、菜月は頭に手を当てながら顔を顰めている。それを見ていたたまは困ったように「ちょっと落ち着こうよ」と言うと、亜美たちの顔を順番に見てから話しだした。
「佳織の従兄弟の話もそうだけど、私にはそもそも紗季の状態もよく分からないの。亜美の言う〝違う〟っていうのは、今日私たちが一緒にいた紗季は偽物で、本物はここにずっといたってことでいい?」
「……うん、多分そうなんだと思う」
たまの落ち着いた声を聞いたからか、亜美は自分の身体から力が抜けるのを感じた。佳織と菜月の様子をちらりと窺えば、彼女たちもまた落ち着きを取り戻しているように見える。
「じゃあ一旦それで正しいとして……私たちは偽物の紗季とここに来たんだよ? その偽物はどこにいったの?」
「それが……多分さっきまで後ろにいたんだけど、急に消えて……」
「どういうこと……?」
亜美の言葉に、たまだけでなく菜月も怪訝な表情を浮かべた。だが佳織だけは合点がいったというように小さく頷いている。
「かくれんぼが始まるからだよ」
佳織が言うと、菜月がキッと目尻を吊り上げた。
「ねえ、だからそれなんなの? 紗季と佳織は知ってるみたいだけど、私たちは何も知らない!」
「そうだね、さっきだって急にかくれんぼ始めようって言い出すなんてどういうことなの?」
菜月を諌めるようにしながらたまが質問を重ねる。その内容に先程の声はやはり佳織だったのかと思いながら亜美が視線を移すと、佳織はゆっくりと口を開いた。
「みんなも昨日聞かれたでしょ? 『もういいかい?』って。あれ初音ちゃんだよ、あの怪談に出てきた女の子。あの声に答えたら初音ちゃんとのかくれんぼが始まる。かくれんぼをしている間はここに閉じ込められて、外に出られない。出るためには初音ちゃんに勝たなきゃいけない。……三年前に行方不明になった私の従兄弟も、きっとここで初音ちゃんとかくれんぼしてるの。だから私は探しに来たの!」
「それが……紗季に言わせないようにした、あの怪談の続き?」
亜美が尋ねると、佳織は「そうだよ」と言って深く頷いた。
(佳織の従兄弟も紗季と同じ状態ってこと……?)
まだ一日しか経っていない紗季と違って、佳織の従兄弟は三年間もここに閉じ込められている――同情しなくもない内容だったが、亜美はどうしても佳織の行動を受け入れることができなかった。
やはり佳織は知っていたのだ、昨日紗季に「もういいよ」と答えさせたら彼女の身に何が起こるのか。それを分かった上で自分の代わりに答えろと言ったのだ――その事実を思うと、従兄弟を探すためとは分かっていても激しい怒りが亜美を襲った。
「従兄弟を探したい気持ちは分かるよ? でもだからって紗季に答えさせるだなんてどうかしてる!」
亜美が声を荒らげれば、佳織も顔を歪めた。
「私だって本当にこうなるとは思ってなかった! 自分で答えるつもりだったけど紗季が止めるから……あの時しかチャンスがなかったから紗季に言ったの!」
「だとしても! じゃあなんで今またかくれんぼを始めようとしているの!? 紗季のことが心配じゃないの!?」
「心配だよ!? でも本当にかくれんぼができるんだったらしないと蓮兄は取り戻せないかもしれない!」
「そうかもしれないけど、まずは紗季でしょ!? 自分があんな目に遭わせたのにそっちのけにするなんて……!!」
「まだ一日じゃん! 蓮兄はもう三年もここに――ッ!?」
佳織の言葉を遮るように、パンッと乾いた音が薄暗い旧校舎の中に響いた。
突然のことに亜美が固まっていると、手を顔の高さに上げた菜月が佳織を睨みながら口を開いた。
「佳織は自分勝手すぎる! つまり自分が従兄弟を探したいから私たちのこともここに連れてきたってことでしょ? 一日とか三年とか期間の問題じゃないの。自分でやったことに責任取れって言ってるの!」
菜月に叩かれた頬を押さえながら、佳織は「……そんなこと分かってる」と小さく呟いた。
「私だって巻き込んで悪いと思ってる……! だけどしょうがないじゃん……蓮兄をここから取り返したかったんだから……!」
「ッああもう、なんでわかんないかな! そういう事情はもういいの! 紗季はどうなるのって話をしてるの!!」
苛立ちを顕にした菜月の怒声が響き渡る。亜美も言葉を見つけられずにいると、自分たちの後ろを見たたまが小さく「え……」と顔を強張らせた。
「……私はいるけど」
聞こえてきた控えめな言葉に、亜美は身体が固まるのを感じた。




