始まりと終わり
「では石山さん、また明日来ますね」
「ああ、お疲れ様」
ベッドに座ったまま女性の背中を見送ると、石山茂はふうと大きく息を吐いた。
二十年前に妻が他界してから本格的に雇い始めた家事手伝いは、今帰った杉本という女性でもう五人目。皆働き者だったが、身内の都合や自身の老化など、それぞれの事情で斡旋会社ごと辞めていった。つまりそれだけ自分が長く生きていることを示していたが、茂はそれを喜ぶことはできなかった。
(もう九十を超えた。いつ死ぬか……いや、死ぬだけならまだいい……)
九十二歳という年齢にも拘わらず、茂の意識は常にはっきりとしていた。多少物忘れが酷くなってきた自覚はあるが、認知症を発症している気配はない。週四日雇っているヘルパーにも指摘されたことはないし、定期的に通っている病院でもお墨付きをもらっている。
だが、それもいつまでもつか分からない。自分に少しでも認知症の兆候が見られれば必ず知らせろと周りの人間には言ってあるため隠されていることはないだろうが、実は既に告知された上でその記憶を失っているかもしれない――そう考えると、茂はぞっとする思いがした。
(呆けて下手なことを口走れば……私は……恵子は……)
茂の一番の気がかりは、娘の恵子のことだった。三十年以上前に彼女の娘――茂にとっては孫にあたる美穂が殺された。それも殺害後に遺体をバラバラに損壊され、その身体を彼女の通う小学校の旧校舎に隠されるという残忍な方法だった。
警察の捜査で見つかった遺体はお菓子の缶に入れられていたり、通気孔の中に入れられていたりと、まるで子供が悪戯で物を隠したかのような状況で発見されたらしい。恵子にはそのことは伏せたが、葬儀前に修復された遺体はそれでも美穂の生前の姿をほとんど残していなかった。
それからだ、恵子がおかしくなってしまったのは――茂は当時のことを思い出して眉間に皺を寄せた。
あれ以来、恵子はふらふらと夜中に街中を彷徨うようになった。かと思えば急に徘徊をやめ、一日中ぼんやりとするようになった。まともに話せないのは辛かったが、下手に徘徊されるよりは安全だと胸を撫で下ろしたのを覚えている。
それなのにある日、家にいると思っていた恵子が外から帰ってきたのだ――傍らに悪魔を連れて。
その悪魔は、美穂と同様に旧校舎で遺体で発見された大倉初音の母だった。彼女は旧校舎で美穂を探し彷徨っていた恵子を見つけて連れてきたのだと言う。当時の自分は大倉が悪魔とは思わず、心底感謝した。感謝したからこそ、彼女の口車に乗せられてしまったのだ。
『あの校舎を壊してはいけません』
大倉もまた娘をあの場所で亡くしているのだ。だからその言葉はそこまで茂も不思議には思わなかった。
それでも、殺人事件のあった使われていない建物をずっと残しておくのは周辺住民からも非難される。不良がたむろしたり、幼い子供が忍び込んでしまったりするかもしれないと考えると、安全性という観点からも早急に撤去したい――そう思って大倉の言葉を拒否しようとすれば、彼女は自分を旧校舎へと連れて行ったのだ。
そこで茂は知ってしまった。あの場所の秘密を。
あの場所でまだあの子が生きていると。そして、新たに人が死んでいると。
『これ、誰がやったと思います?』
にたりと笑った大倉の顔を見て、茂の脳裏には恵子の顔が浮かんだ。まさか精神が不安定になった恵子がやってしまったのではないか――その考えを裏付けるように、大倉は言った。
『このことが知られたら終わりですね、石山市長』
冷たい声が、茂の背を撫でる。
『大丈夫、私は誰にも言いません。あなたを強請るつもりもありません。ただ、壊さないで欲しいだけなんです』
そこまで言った大倉は、優しい笑みを浮かべて茂の顔を覗いた。
『ほら、この遺体だってあなたが好きにしてください。どうしようが私は見ていませんから、誰かに言うことなんてできないでしょう?』
信じられるはずがないとは分かっていた。だが、大倉は恵子とここで出会っている。もし恵子が殺害した証拠をこの女が持っていれば――それを知らないまま大倉の口封じをするのは危険すぎた。だから茂は、大倉の話を飲んだのだ。
(あれが間違いだった……)
あの場所で起こっていたのは、そんな単純なことではなかったのだ。そしてそれを知った時にはもう、茂は戻れなくなっていた。
戻ってしまえばすべてが明るみの出てしまうのだ。世間があの場所の真実を信じるわけがない。そうなれば破滅するのは自分、そして恵子なのだ。
(もうあの仕事は彼に託した。私の役目は……)
茂はゆっくりとベッドから下りた。身体はかなり衰えているが、まだ自分の足でどうにか歩ける。階段は流石に辛かったが、途中で休憩を挟めば上りきれないことはない。
そうして時間をかけて二階へ行くと、茂はドアの隙間から中の様子を窺った。そこには大倉と共に帰ってきて以来、うわ言しか言わなくなってしまった恵子がいる。
「すまない、恵子。君の夫を巻き込んでしまった」
恵子を守るためとはいえ、人形同然となった娘の世話をずっと続けてきてくれた彼女の夫をこちら側に引き込んでしまった。あのおぞましい真実を、彼の前に曝け出してしまった。
(きっと、彼の代で終わるだろう……)
自分が守りたいものは恵子。その恵子ももう六〇歳を過ぎている。
きっとそう遠くない未来に、これは終わるのだ――そう期待を込めて、茂は階段を背に後ろへと倒れ込んだ。




