〈一〉かくれんぼの怪談より
「もうやめてよぉ……」
弱々しい声で訴えながら、黒川亜美は机へと沈んでいった。
もう勘弁してくれと言わんばかりに両耳を塞ぎ、机に接した肘を外側へと押し出すように力を入れる。すると光沢のある学習机と夏服のブラウスから出た肘が摩擦を生んで、小刻みにぐぐぐっ、と音を立てながら亜美の頭は下がっていった。
耳に当てた腕を伝って聞こえてくるその低い音は、頭の中に直接響く。それが心臓の鼓動のように聞こえて、亜美は元々速かった自分の鼓動がより一層速くなる気がした。
「ごめんごめん、本当に亜美は怖がりなんだから」
それは両耳を塞ぐ亜美にはくぐもって聞こえたが、佳織の茶化すような声だということは考えなくても分かった。ちらりと視線を向ければ案の定友人の柳瀬佳織がにやにやと笑っていて、亜美は耳から離しかけていた腕を再びぎゅっと押し当てる。「いつもやめてって言ってるのにぃ……」、耳を塞いでいるせいでやけに大きくなった自分の声を聞きながら、亜美は非難がましく口を尖らせた。
「大丈夫だよ、どうせ作り話なんだから」
別の方向から発せられた声が、やんわりと亜美の耳に届く。佳織よりも優しい声色は彼女を心配するもの。声と同時に自分の肩に置かれた手を掴みながら、亜美は声の主へと顔を向けた。
「うぅ、紗季ぃ……!」
「はいはい、怖かったね」
いい子いい子と亜美の頭を撫でる二宮紗季は、「あんまり調子乗っちゃだめだよ」と佳織を諌めた。それを聞いた亜美は紗季に抱きつくように腕を伸ばしながら、「そうだそうだ!」と佳織を睨みつけた。
「えー、だって亜美ってば凄く良いリアクションしてくれるんだもん」
「怖いからだよ!」
悪びれずに笑う佳織に、亜美の語気が強まる。
「でも亜美が怖がるから、普通に聞いてるよりもっと怖く感じるよ?」
のんびりとした口調で言ったのは玉城苺だ。本人が下の名前を嫌っているため、周りからはたまと呼ばれている。
「話してる方も楽しいしねぇ」
たまに続けるように、鈴城菜月がけらけらと笑った。
紗季以外に自分の味方がいないのはいつものこととは分かっていても、亜美の眉間にはむむっと皺が寄る。「人を怖がらせるのがそんなに楽しいか!」と大袈裟に言いながら泣くふりをして、ちらりと周りの様子を窺った。
(どうせ紗季以外はみんな楽しいって言うんだろうな……)
内心で乾いた笑いを零していると、周囲から「楽しい」という言葉だけが聞こえてきて亜美は目を瞬かせた。
紗季だけはきっと周りを諌めてくれる――そう期待していたのだ。それなのにそんな自分の予想を裏切る状況に、亜美は思わず身を乗り出した。
「紗季も!?」
「まあ、見てて楽しいよね」
「裏切り者ぉ!」
力いっぱい叫んだ亜美が勢い良く机に突っ伏すと、周りの四人が笑う。それがこの流れの終わりの合図だった。
最近怪談にハマっているという佳織と、つられて興味を持ち始めているたまと菜月。怖がり要員の亜美に、冷静な紗季を入れた五人――この五人で怪談話をするのが、最近の彼女たちの放課後の日課だった。
場所は教室のことが多いが、階段の踊り場や体育館裏のこともある。必要なのは雰囲気のある静かな場所だけ。どこを使うかはその日の部活動や委員会活動やらの使用状況を見ながら決めている。
「――さて、そろそろ帰ろうか」
いつものように紗季が言うと、各々が軽く返事をしながら帰り支度を始めた。
先程までの流れが終われば帰る――いつからか出来上がっていたルーティーンに身を任せ、近くの席から拝借していた椅子を戻した亜美は、ううんと大きく伸びをして縮こまっていた背中を伸ばした。
「待って! もう一個だけ!」
帰ろうとしていた亜美たちの動きを止めたのは、慌てたような佳織の声だった。
「とっておきがあるの!」
鼻息荒く言う佳織を見て、亜美は嫌な予感を抱いた。こういうことは初めてではないのだ。彼女がいつもの流れに逆らってまで出してこようとする怪談は、毎回〝とっておき〟という言葉に違わず亜美の背筋をぞわりとさせる。
できれば聞かずに帰りたかったが、こっそりと様子を窺った他の三人は興味を持っているように見えた。彼女たちも亜美と同じく知っているのだ、こういう時の佳織の話がそれなりのものだと。
だから菜月にいたっては既に動き出していて、肩にかけていた荷物を机の上に戻しながら佳織の方へと視線を向けた。
「そんなに面白いの?」
「うん、これはやばい」
菜月の問いかけに、佳織は嬉々として大きく頷く。
「じゃあ聞いてこうっかなー」
「私は帰る!」
「駄目だよ、亜美。亜美がいなきゃ盛り上がらない!」
慌てて帰ろうとする亜美を佳織が引き止める。と同時に、亜美は佳織のいる位置とは逆の方から軽く腕を引っ張られる感覚がすることに気付いた。無意識のうちに顔を強張らせながら腕の方を見てみれば、いつの間にか椅子に座ってにっこりと笑っているたまと目が合う。
(いや、まだ君残るって言ってなかったじゃない!)
亜美が顔を引き攣らせると、その表情から彼女の言いたいことを察したのか、たまは「だって面白そうだし」と小首を傾げた。
「そんな可愛く言っても――」
「はいはい、亜美の席用意できましたよー」
亜美の言葉を遮るように、近くの座席から椅子を移動してきた菜月が声をかける。
「いや私は――」
「いいじゃんいいじゃん。まだ六時過ぎだし、いつもより早いくらいだよ」
(確かにそうだけど……)
ううと顔を歪ませながら、亜美は縋るように紗季へと視線を移した。
「……まあ、一個くらいいいんじゃない?」
呆れたように言う紗季は、怪談を聞きたいというよりは佳織たち三人を躱すのが面倒になったのだろう。
頼みの綱の紗季が助けてくれないと分かり、亜美は渋々と椅子に座った。
「決まりだね」
嬉しそうな佳織の声とともに、まだ座っていなかった菜月と紗季も椅子に腰を下ろした。
窓から入ってくる橙色を滲ませた陽の光が、亜美たちの囲む机に影を落とす。今は七月、いくら陽が長い季節と言っても十八時を回れば夜の気配を匂わせ始める。それが余計にこれから始まる怪談話の雰囲気作るようで、亜美は知らず識らずのうちにごくりと喉を鳴らしていた。
聞く準備ができているかどうか確認するように、佳織は机を囲んで座る友人たちを順々に見やる。そうして視線を一周させると、一呼吸置いてから「この近くの小学校の話なんだけどね……――」と、話を切り出した。
§ § §
――その小学校は結構昔からあって、当時は隣の土地に新しい校舎を建てたばかりだったの。旧校舎から新校舎への引っ越しも春休みを利用したから特に問題なくて、新年度になると旧校舎はすぐに使われなくなった。
けどしばらくは、旧校舎を取り壊す予定はなかったみたい。建物は確かにそこそこ古かったけど、倒壊の危険があったわけじゃなくて、近くの住宅地開発で生徒数が一気に増えてきたからとか、そういう理由で建て替えが決まったらしいのね。だから急いで取り壊す必要もないってことで、時期は追々考えましょうってなってたんだって。
それで特に問題が起きないまま一学期が終わって、夏休みになった。この夏休みに事件が起きたの。
当時この小学校に通ってた女の子が一人、友達と遊んでいる最中に行方不明になっちゃったんだって。警察や地域の人が必死に探したけど、中々見つからない。一緒に遊んでた友達に聞いてみると、「かくれんぼをしているの」って言うの。
それを聞いた大人は、女の子がどこか変なところに隠れて、そのまま出られなくなったのかもしれないって考えた。だから子供が隠れそうな場所ってことで、新校舎だけじゃなくて旧校舎も捜索された。だけど、見つからないの。
結局その子のことは見つけられないまま、夏休みが終わった。捜索も打ち切られたってわけじゃないけど、最初の頃よりかは随分と控えめになったみたい。二学期が始まって一月も経たないうちに、行方不明の子の話はあまりされなくなっていった。
そんなある日、そろそろ旧校舎の取り壊しについて少しは考えようってことで、学校に依頼された業者の人が二人、建物の調査に来たの――仮にAさんとBさんにしようか。
二人は女の子がかくれんぼ中に行方不明になったって話を一応知ってはいたから、ちょっと気味悪いなと思いながら旧校舎の扉を開けたのね。警察が女の子の捜索に入って以来人が入ってなかった校舎の中はむわっとしていて、カビの臭いとか、動物が入りこんだような臭いとか、そういうのが混ざった嫌な臭いがしていたらしいの。時期的にまだ暑いし臭いしで、業者の人たちはせめて冬にしてくれればな、とかなんとか話しながら、校舎を奥へと進んでいった。
校舎の中には使われなくなった古い机や椅子が残っていて、それが警察の捜索のせいか、結構乱雑に置かれていたんだって。二人は柱とかを見なきゃいけないから、それをどかしながら作業を進めた。
でもあまりにも雑に置かれてるものだから、暑さと臭いのせいもあってだんだんイライラしてきちゃったのね。そうすると当然、手付きも雑になる。そこにある物はどうせ全部廃棄されるって分かってるのも大きかったんだと思う。自然とがたんがたん大きな音を立てながら作業を続けていたの。その時――
「かくれんぼしてるの?」
突然Aさんの背後から、女の子の声がしたんだって。Aさんは驚いて周りの物を巻き込みながらその場に派手に倒れちゃって。転んだまま見上げたら、女の子が不思議そうな顔で彼を見てたの。
Aさんはぎょっとしたけど、すぐに自分たちが大きな音を立てたせいで近くにいたであろうこの子の興味を引いてしまったんだって気が付いた。だって近くには新しい校舎になった小学校があるし、ここが子供の遊び場になり得るっていうのは事件のこともあって分かってたからね。
状況が分かると大袈裟に驚いちゃったことが少し恥ずかしくなって、Aさんは「まあ、そんなとこかな」だなんて、ちょっと照れ隠しも込めて冗談めかして言ったんだって。
一部始終を見ていたBさんは、呆れながらAさんを引っ張り起こそうと彼に手を伸ばしかけて、近くに古びたお菓子の缶が落ちているのを見つけたの。
きっとAさんと一緒に倒れた机の中から出ちゃったんだろう。でももしそうなら生徒の忘れ物かもしれない――そんなふうに考えながらその缶を拾ったのね。
そうしたら女の子が、「あーあ」って言うの。Bさんは女の子がこの缶の持ち主を知っているのかと思って、「お友達?」って聞いてみた。
「うん、かくれんぼしてたの」
それを聞いたBさんは、もしやこれは行方不明になった女の子のものなんじゃないかと思った。かくれんぼといえば、行方不明になった女の子――そんなイメージが彼の中にはあったから。
だからもしその子の物だとしたら、これは持って帰って親御さんに届けてあげないと――考え事を始めてしまったBさんに興味はないのか、女の子は彼から視線を逸らしてAさんの方を向いた。そして、言ったの。
「わたしもかくれんぼ入れて?」
「えっ」
困ったぞ、ってAさんは思った。だって彼らは仕事中だから、女の子のかくれんぼには付き合えないじゃない。かくれんぼするふりをして作業を進めようと思っても、使われていない旧校舎で子供から目を離すのは危険だろうし。
自分のくだらない冗談のせいで女の子に勘違いさせてしまったと申し訳なく思いながら、Aさんは「今はちょっと難しいかな。ごめんね」って起き上がりながら謝ったのね。でも女の子はお構いなしに、「わたしが鬼やるからいいよ」って。
いまいち噛み合わない会話にAさんはまた困ったけど、ちょっとだけ付き合ってあげれば穏便に済むのかなって思ったみたい。
「じゃあ、ちょっとだけね」
だからAさんはそう言って、近くに隠れる場所はないかきょろきょろ見渡した。すると女の子が突然、「もういいかい?」ってAさんの方を見ながら聞いてきたの。Aさんは戸惑いながら、もしかして事情を悟って遊んだふりをしてくれるのかもなんて思って、「もういいよ」って答えてみた。
その瞬間――
「うわぁあぁぁああああ!」
Bさんの悲鳴が響いたの。Aさんが驚いてBさんの方を見ると、Bさんはさっきまで持っていた缶を床に放り投げていて、転げるように来た道を凄い勢いで戻っていくところだった。
「おい!」
Aさんは慌ててBさんを追いかけようとしたけど、女の子を一人で置いていくわけにはいかないと気付いてそこにとどまった。そして女の子の方に振り返ろうとした時、ぐに、って何か踏んじゃったの。
なんだろう――よく分からない感触にAさんが床に視線を落とすと、Bさんが放り投げていった缶が目に入った。蓋が空いていたから、ああ、これの中身か、って考えなくても分かった。だからそのまま何の疑問も持たずに足を上げたんだけど、そこから出てきたのはなんだか黒い、見たことのないものだったのね。
「なんだこれ……?」
思わず口に出しながらよく見てみると、その黒いものからは何本か枝のようなものが生えてるのが分かる。それを見た瞬間、Aさんは自分が踏んだのが何かを悟った。
手だったの。子供の。
その正体が分かると同時にAさんは混乱したんだけど、それでも子供にこんなもの見せちゃいけないだろうって思ったみたい。だから咄嗟に女の子の方を見たんだけど、その子、にっこり笑って言ったの――
「見つかっちゃった」
§ § §
「――結局、Aさんはそのまま行方不明。Bさんもおかしくなっちゃったんだって」
そこまで言うと、佳織は「おしまい」と満足そうに微笑んだ。
その声で亜美は自分の緊張が解けるのを感じたが、ぞわぞわとしたものが背中に残っているせいで顔は引き攣ったままだった。
「いやぁ、佳織の話し方は本当雰囲気あるねぇ」
感心したように菜月が言う。その顔には少しだけ緊張が滲んでいたが、それよりも楽しそうな雰囲気の方が勝っていた。
「台詞も迫真の演技って感じだしねぇ」
佳織の語り口を指したたまの発言に、亜美はそれはそうだけど、と思いながら顔を顰めた。
たまの言う通り、佳織は話の中に出てくる台詞には俳優さながらに感情を込める。普段の亜美であれば佳織の驚かせようとする演出に自分も叫ぶところだったが、今回は彼女の放った〝Bさん〟の叫び声に驚きすぎて、逆に声が全く出なかったくらいだった。
「臨場感なんていらないんだよう……。なんかかくれんぼも怖く思えてきた……」
「でも作り話でしょ? 行方不明になった子と一緒に遊んでた女の子、かくれんぼしてたならどこでしてたのかはっきり言うはずじゃない? 本人が言わなくても大人が絶対聞き出すだろうし」
「それはそうだけどさぁ……」
菜月の解説に納得したものの、それでも亜美の恐怖は拭えなかった。もぞもぞと身体を動かしながら感情を誤魔化そうとしていると、「ま、怖がってくれて何よりだよ」と佳織が満面の笑みを浮かべる。
「亜美だけじゃなくてみんないい反応してくれたし、わざわざ残ってもらった身としてはとても満足です」
「今回のお話も大変よろしゅうございました」
恭しく言った佳織に、たまが合わせるようにして丁寧に頭を下げた。
(佳織はともかく、どうしてたままであんな怖い話を聞いた後すぐにふざけられるの……)
そう疑問に思いながら亜美が視線をずらすと、菜月が笑顔で「美味でございましたぁ」と合いの手を入れているのが見えた。
(ここにまともな人はいないのか……)
最後の望みを託すように、今度は紗季へと顔を向けた。
(そういえばずっと黙ってるけど、そんなに怖かったのかな)
いつもと違う様子の友人は、少し顔色が悪く見える。亜美が小さく「紗季……?」と声をかけると、紗季ははっとしたように顔を上げた。
「――私、この話知ってるかも」
小さな声で紗季が呟く。
「本当?」
いち早く反応したのは佳織だった。やってしまったと言いたげな表情をしながら、窺うようにして紗季を見ている。
「女の子が行方不明になった話。地元じゃ有名だよ」
「え?」
亜美が聞き返すと、紗季は考えるようにしながら話しだした。
「その小学校、この近くにあるんだよ。みんな中学違うから知らないだろうけど、私が通ってた二中はその小学校から上がってくる人がいるんだ。そういう子たちから聞いたんだと思うんだけど、確かその学校、昔夏休み中に女の子が行方不明になったことがあったはずだよ」
「えぇ! 本当に実話だったの、佳織!?」
好奇心に満ちた顔で菜月が佳織に詰め寄る。当の佳織も驚いたような表情をしていたが、そこには明らかに喜びが含まれていた。
「私も初耳……! 昔の習い事の先輩に教えてもらったんだけど、『この近くの小学校』だなんてよくある導入だと思ってた……」
「その人がこの辺の人なのかなぁ?」
「どうだっけ……あんまり住んでるところ気にしたことないから分からないや」
佳織とたまのやりとりを聞きながら、亜美の背には再び寒気が襲っていた。完全な作り話と思っていた時から怖かったのに、それが実話で、しかも身近な話だと分かってしまったせいで余計に恐怖を感じるのだ。
亜美は咄嗟に両腕を抱いてその怖さを紛らわそうとした。すると同じタイミングで、「ただ、ちょっと違うんだよね――」と紗季が言葉を続けるのが聞こえてきた。
「――まず行方不明になった女の子なんだけど……その子は遺体で見つかってるの」
「え……?」
興奮に湧いていた空気が、しんと静まり返った。
「もしかして、さっきの旧校舎で見つかった腕……? 本当にばらばらにされてたの……?」
「待ってよ、もしそうなら旧校舎にいた女の子が友達を殺したってこと?」
佳織と菜月が口々に質問を並び立てる。
「どうだったかな……女の子がどう関わってたのかはよく覚えてないけど、旧校舎でばらばら死体が見つかってるのは確かだよ」
「じゃ、じゃあ女の子は捕まったの? 業者の人は?」
亜美が問いかけると、紗季は言いづらそうに口を開いた。
「見つかった死体は、四人分だって」