姫と軍馬
リクエストを頂いた、レグルスのエピソードです。異世界恋愛ジャンルにふさわしいお話に仕上がっているといいなぁ……。
己の身の内に子を宿すのというのは不思議な事だと思う。
そもそも自分は、一年半前まで女性ですらなかったと言うのに。
身を切るような恋をした。叶わぬ願いに絶望して、一生愛する人を護って生きて行くのだと心に蓋をした。どこにも行き場のないその執着心が、胎の内で吹き溜まって、己の中で眠っていた女としての機能を目覚めさせたのだと思っている。
成人しても兆すことすらなかった月経が始まった肉体との付き合い方に少し慣れた頃、妊娠したことが分かった。
愛する人の子だ。もちろん何よりも守るべき存在であるのは充分承知している。
まして腹の子が男子であれば、将来王位を継ぐ子だ。周囲が敏感になるのは仕方がない。仕方がないとは分かっているが、皆神経質すぎやしないだろうかと思う。
自身が生きて来た時間の半数以上が、この相棒と共にあったのだ。その背に乗ったからとて何をそんなに血相を変える必要があるというのか。
落馬するような無茶な乗り方などしないし、まして体に負荷のかかるような速度を出すつもりもない。
王家に嫁した以上行動に制限がかかるのは致し方ないが、ただでさえ妊婦だと言って何もさせてもらえないのに、相棒との時間まで取り上げられてしまっては精神衛生上良くない。今まで騎士として生きてきたから、定期的に体を動かさないと落ち着かないのだ。軽い運動くらいさせて欲しい。
そう思ってサラには黙って、こっそり相棒のいる厩まできたものの、嗅ぎなれているはずの厩舎の臭いが何故だか今までよりも気になって仕方がなかった。
これも妊娠したせいだろうかと思いながら、いつものように相棒に鞍を置こうと壁に掛けられたそれに手を伸ばした瞬間、強烈な吐き気を催した。
咄嗟に口元を抑え、馬房の中でしゃがみこむ。
鼻先にかすめた革の臭いが、胸の内側で不快感となって滞留する。
こんな場所で嘔吐するわけにはいかないと、その状態のまま落ち着くのを待っていると、外へ出てこないのを不審に思ったのか当番制で護衛についていた近衛が様子を見に来た。
「妃殿下!」
駆け寄ってくる足音が馬房に近づくのを感じて立ち上がった。
「馬房には入らないで下さい、わたくしが外に出ます」
青白い顔をして絞り出すようにそう言った王太子妃に、近衛は怪訝な表情をしながらも頷いた。
王太子妃アレクサンドラの愛馬レグルスは気性が荒く扱いにくい馬だった。自身の気に沿わぬ相手が側に近寄ろうものなら、歯を剥いて威嚇するような場合もある。だから馬房の中には慣れた者しか入れられない。
王太子妃の救助のためとは言え近衛を馬房の中に入れてしまっては、最悪後ろ足で蹴られかねなかった。
壁に手をかけ、それを支えにするようにして馬房の外に出たアレクサンドラは軽い嘔吐感に耐えながら厩舎の外へ出た。
外気を吸ってしばらく待つと、胸の悪感は幾分かマシになった。
当番制とは言え近衛である。本来ならば彼の手助けを受けるべきだったのだろうが、女の身の上でそれはできなかった。だから女性王族には女性の近衛がついている。
だが女性近衛は万年人手不足。一度女性王族の側近として選出されてしまえば、特別な事情がない限りはその生涯を主に捧げるという役目を負うため、人選が難航していると聞いている。
妊娠中とは言え悪阻などもなく至って元気だったから、己の頑健さを過信して油断していた。身の内に子を宿したという自覚が足りなかった。
母として迂闊すぎた、と心の中で反省する。
「妃殿下、大丈夫ですか?」
そう言って気遣う様子を見せた近衛に、大丈夫だと笑って見せる。
自分が妊娠している事は、まだ伏せられている。妊娠初期は子が胎の中に留まらず流れてしまう事も珍しくないからだ。
だからこの男も、こちらの体調については把握していない。
それでも、もしも何かあった場合近衛が責任を負う事になるのは想像がついた。たとえ妊娠について知らされていなかったとしても。
その点においても、王族になったのだという自覚が足りなかった。今までのように、臣下の感覚でいてはいけないのだ。
今日はもう諦めて、大人しく自室に戻ろうと思った時だった。
厩の管理をしている馬丁頭のトマスがやってくるのが見えた。
トマスはこの厩で馬丁をつとめて四十年以上というベテランだ。馬の性質をよくこころえ、気難しいレグルスの世話を安心して任せられる数少ない者だった。
「妃殿下、レグルスに会いに来なすったか」
「ええ。あなたのおかげで毛艶も良くて安心しました。このところ時間がなくてなかなか世話をしてやれないものだから」
「軍におられた頃とは違いまさぁな」
そう言ってトマスは朗らかに笑った。
婚前はこのトマスが厩の管理をするシルバルド師団に騎士として在籍していた時期があった。
だから自分が男として働いていた頃の事も、レグルスの気性についてもこの老馬丁はよく知っている。
「そうだ……妃殿下、レグルスを繁殖に出してみませんか」
「繁殖……ですか」
「人間相手には難しいところもあるが、あれだけの駒でさ。相性のええ牝馬がみつかりゃええ仔馬ができやすい。試しに牝と引き合わせちゃどうですかね」
レグルスは今まで軍馬として慣らされて来た。
自分が男として生涯を全うする事になっていたら、今でもその能力を遺憾なく発揮していたことだろう。
だが、主である己が女として生きる道を選び、王家に嫁した事でそれは叶わなくなってしまった。
レグルスはその気性の激しさと偏屈さから、アレクサンドラ以外を主と認めない。だから他の者が背に乗るのを許さない。
つまり、自分が乗ってやらないなら、死ぬまでその能力を飼い殺しにする事になってしまうのだ。
御すには難しい気性だが、その分軍馬としては傑物であると言って良い程の馬だった。堂々とした筋骨に恵まれた体躯と、主の意を汲んで走る賢さ、敵の気配に敏く警戒心の強い気性。何より、戦場に連れて行っても何事にも怯まず動く胆力がある。
この血を次世代に残して行くこともまた、主である自分の役目なのかもしれないと思う。
夫を愛し、子を孕んだ今は特にそう思う。
「良い機会かも知れませんね……手配をお願いできますか? 何かあったらルドン大佐経由で連絡して下さい」
「お引き受けしました。ええ牝馬を探しまさ」
そう言ってまた笑ったトマスに薄く笑んでその場を後にした。
夏が過ぎ、季節に秋の気配が漂い始めた頃、繁殖の手配を頼んでいたトマスからソルマーレ経由で連絡が入った。
厩舎前でトマスとレグルスの繁殖の話をした頃には目立たなかった腹も、八ヶ月を過ぎて明らかに妊娠しているのがわかる程度には大きくなっていた。
自分以外の命を抱えた身体は、夏を過ぎても熱を孕んで熱い。
今日は散歩と称し、侍女サラと当番近衛を伴ってシルバルド師団の厩舎まで来ていた。
厩舎独特の臭いがするが、あの日のように気にならないのがありがたかった。
相棒の馬房の前まで行くと、訪いを告げてあったからかすでにトマスが柵の前に佇んでいた。
「待たせましたトマス」
「妃殿下、たいして待っとりゃしませんさ。お元気そうで何よりだ。ご予定は秋の終わりでしたかな……楽しみですな」
アレクサンドラの大きくなった腹を目に映し、トマスは柔和に目を細めた。
「ええ。それよりも、ダメだったとか」
「ははは、参りました。見目の良い成熟した牝馬を何頭か試して見たんですがね、まぁ見事に空振りでさ。流石に牝とわかっとるのか威嚇したりはせんのですがね、靡きもせんっちゅう」
馬房につながれた相棒の元へと近づき、柵の外側からその鼻面を撫でる。
「お前は美しい女性に興味がないの?」
呆れたようにそう声をかけると、レグルスは不機嫌そうな目をして不満げに鼻を鳴らした。
「レグルスは妃殿下に操を立てとるのかもしれませんなぁ」
「主として喜ぶべきなのか複雑ですね……お前の心は嬉しいけれど、馬としての生を謳歌したって構わないでしょうに」
黒い瞳を覗き込んで寂しげに笑って見せると、レグルスは柵から身を乗り出すようにして首を出し、主の大きくなった腹に鼻を寄せた。
しばらくフンフンと匂いを嗅ぐようにしてから、また納得したように一つ鼻を鳴らした。
「産月も近くなってきたから、しばらくは来てやれない……ごめんね。あまりわがままを言ってトマスを困らせないようにしてね」
アレクサンドラはそう声を掛け、相棒の首を慈しむようにしばらく撫でたあと、名残を惜しむようにしてから厩舎を辞して行った。
レグルスとトマスは揃って王太子妃一行を見送った。
姿が完全に見えなくなってから老馬丁は口を開く。
「お前さんも厄介な相手に惚れちまったなぁ」
その言葉に応えるように、レグルスはまた一つフンと鼻を鳴らした。
馬と人間、そこには越えられない種の壁がある。それでもなお主と定めたアレクサンドラにだけ靡くこの軍馬を、長年馬の世話を生業として生きて来たトマスは愛おしく感じずにはいられなかった。
この馬なら、アレクサンドラが産んだ子であれば己が主のように愛して従うだろう、とトマスは思った。
秋の終わり、王家に新しい命が誕生する。妻帯する事のなかった自分にとっても、それは我が事のように嬉しい。幼い頃から親しんで来た王太子殿下の血を引く子なのだから。
口には出さないが、今か今かと、首を長くしてそれを待ち望んでいる。
嫁した今なお愛馬を大事にしている王太子妃だ。彼女が子を連れて頻繁にここを訪れる様が想像できる。
この厩舎もまた賑やかになるだろう、そんな予感がしていた。
新章スタートしています。気が向かれましたらそちらもお付き合い下さい。




