Sugar doll 9
夏の終わり、レイモンドとキティは正式に婚約を交わした。
名うての遊び人であるレイモンドと、厳格な家風と有名な司法一家の娘であるキティとの婚約発表は、驚愕をもって社交界を駆け抜けて行った。
そして、近頃あの遊び人が人が変わったように真面目になったのは、アンダレイ家の令嬢のおかげだったのか、と人々は納得したのである。
両家で正式に婚約を交わした事でようやく二人は人目を気にする事なく会えるようになった。
キティは今日シノン家を訪れ、レイモンドと二人でシノン家の裏庭の先の離れを訪れていた。
キティは柔和な表情を向けてくるレイモンドの祖父を前に、緊張に身を固くして座っている。それも致し方のない事だ。この白髪の老紳士は、今や稀代の策士と名高い。シノン家が現在の王家にもたらしたものはあまりにも大きい。王太子妃アレクサンドラの知略を育てたのもこの目の前の人物なのではないかと言われている。
「よく来てくれたねキティ嬢。そう緊張しないでください……色々聞き及んでいるだろうが、あなたの前に座るこの老人は、しがないただの隠居爺だ」
そう言っていたずらをした少年のように笑う顔を見ていると、アレックスを彷彿とさせる。彼もまた、あの人と血が繋がっているのだと感じずにはいられない。
「お会い出来て光栄です、シノン卿。今後はレイモンド様の婚約者としてどうぞご指導下さいませ」
「ははは、私が指導するような事は何もないよ。あなたはご生家で充分な教育を受けていらっしゃる。むしろレイモンドの目を覚まさせてくれただけではなく、この不肖の孫に添うてくれるというのだから頭が上がらない。……本当に良かったのかい? あなたならもっと良いお相手がいるだろうに、わざわざ苦労を背負い込むようなものだ」
フリッツの言葉を聞いて、レイモンドは焦ったように口を開く。
「お祖父さま! やっと振り向いてもらえたというのにやめて下さい」
孫の制止を受け、フリッツは若葉色の瞳で企んだように笑った。
そんな二人を見て、キティはふふふ、とこぼす。
「それでもレイモンド様が良いと思ってしまったのですから、惚れた弱みというものですわ。誰に何を言われても、わたくしはもう覚悟を決めましたから」
そう言ってキティはフリッツに笑って見せた。
「そうかい? ならばもう、これを渡しても大丈夫かな。ご家族に大事に育てられたあなたには少々刺激の強い代物かもしれないが、あなた達の婚約が社交界に広まった今、おそらく避けては通れない。妬み、嫉み、悪意……政治的にも足元を掬おうとする者がいてもおかしくはないからね。上手く使いなさい」
そう言ってフリッツは机の上にコートの内側から取り出した四つ折りの紙束を置き、キティの方へと押し出した。
キティは恐る恐るその紙束を手に取って広げる。
内側に記されていたのは、女性の名前と容姿の特徴、それに年月日が続いている。既婚か未婚か、パートナーがいる場合はその相手の容姿、家系的な容姿の特徴。妊娠出産歴などの詳細な個人の調査書だった。
紙束に表記されているのは全て女性。つまりは、レイモンドと過去関係があった女性という事だ。
「これは、レイモンド様の過去のお相手の方々でございますね? そして、この日付は肌を重ねられた日」
「その通りだ。正直、あなたとレイモンド、どちらにこれを手渡すべきか迷った。一夜限りのお相手ばかりとはいえ、一人二人ではないからね。この人数をあなたがどう捉えるかは分からなかった。レイモンドを好いてくれていても、現実を直視すれば最悪の場合破談になりかねない。この事を我が家の手の内に握りこんだまま婚姻成立までこぎつければ、もうあなたは逃げられない。不幸な結婚の出来上がりだ。でも、それは公平とは言えないし、それが良いとも思えない。政敵の多い我が家にダメージを与えるならば、もっとも効率が良いのはあなたを攻撃する事なんだキティ嬢。レイモンドではなく、あなたの前に子供を連れた女性が現れるのが一番攻撃力が高いからね」
そう言って苦笑した老紳士は、やはり隠居していても策士に違いなかった。非力な老人だと侮っていたら、鋭い牙を隠し持っているのをうっかり見てしまったような怖さがある。
王太子妃殿下の障害になるような事を放置する家ではないと父が言っていたが、こういう事だったのか、と実感せずにはいられない。
「お祖父さまどうやってこんなものを」
驚愕の表情を浮かべて祖父に問うた孫に、穏やかに笑んで事も無げに口を開く。
「ああ、情報の出処はもちろんタイラーだよ。タイラー・スオンソンをそうあるように仕向けたのは私だもの」
やられた、とレイモンドは腹の中でこぼした。
タイラーの父クライブ・スオンソンは先の戦争の折にこの祖父と組んで王弟を欺いた軍の実行部隊だった。ピノワ師団の師団長を務めるタイラーの父クライブは、革命が起こるまでの十五年間保守派を装っていた。中級士官であった頃から、祖父はクライブと手を組んでいたことになる。その、壮大な時間を掛けて組みあがった軍略。息子の方も巻き込まれていて当然だった。タイラーと親しくなったのは先の戦争の直後で、戦前の社交場でも度々顔を合わせていた。女性との火遊びを始めたのもその頃だから、計算としては完全に合致する。
仕組まれていたのならば、友情も偽物だったのかとため息が出そうになる。
そんな孫の様子を見とがめたのか、フリッツは微笑して口を開く。
「タイラーをそうあるように仕向けた、と私は言ったんだよ? 彼の友情を疑うのはおよし、レイモンド。私は私の都合で意図的にタイラーを動かした。彼はその事に気づいてはいないさ。私はタイラーに、擦れて不安定な孫が心配だ。外孫は後宮に入っているし、レイモンドの放蕩でそちらに何か影響があっては困る。もし君がレイモンドの悪い遊びを目撃するような事があれば、こっそり私に教えてもらえないだろうか。万一の時のために、事態だけは把握しておきたいんだ、とね」
そうだった。この祖父は人を意のままに操るのに長けているのだった。
もしかしたら、自分もまた真っ当な道を歩むように仕向けられたのかもしれない、と思うと背筋が寒くなる。
レイモンドはそれを振り払うように、もうその事を考えるのはやめよう、と湧き上がった疑念に蓋をした。
冬の終わり、王城の招客殿のホールでは、毎年末恒例の王家主催の夜会が催されていた。
夜会場でのもっぱらの話題は、王太子妃アレクサンドラが秋の終わりに王子を出産した事であった。産前産後、王太子殿下をお慰めするのに、どこかの貴族が娘を側室にと提案したが、すげなく断られたなどという下世話な噂話も付随して飛び交う。
王子は王家の直系としての証である、金色の瞳を持って生まれたらしい。国の基となった女神の末裔の証である金色の瞳は王家にとって神聖なものとされ、それを持って生まれたのが男子であったことから、アレクサンドラの王太子妃としての地位は揺るぎないものとなった。中立派で知られる公爵家から王家に輿入れした妃が出産したことによって政治の勢力図は大きく傾き、保守派の一部が中立派に鞍替えしそうだという。
血縁として無関係とは言えないが、駆け出し役人のレイモンドとその婚約者であるキティにとっては未だ遠い世界の事だ。
二人は揃ってこの夜会に参加していたが、それは純粋に友人に会う為である。
アレクサンドラは産後すぐという事もあって、今夜は不参加と周知されているが、後宮に入っていた折に親しくなったビビアンとイデアは、二人共夫を伴って参加すると言う事は手紙に書いてあった。
混雑したホールでは中々出会えないが、会場を巡っていればそのうち出会えるだろう。そう思って二人連れ立って巡っていると、にわかに周囲が騒がしくなる。
怪訝に思って二人で顔を見合わせると、眼前から王太子が近衛を伴って歩いて来るのが見えた。
キティは王太子の背後を護って歩いて来たセーラムに視線を投げたが、それも一瞬の事だった。職務中の彼に何を言えるわけでもない。まして縁談話はなかった事になったのだから、彼との縁は途切れたのだ。
レイモンドとキティは、目の前にやって来た王太子カイルラーンに一礼して、形通り挨拶を交わした。
「レイモンド殿は初めてだな。キティ嬢は久方ぶり、息災そうで何よりだ。アヴィがまだ寝台を降りられぬゆえ、伝言を言付かって来た。婚約おめでとう、結婚式を楽しみにしている、と」
ありがとうございます、とふたり揃って礼を言う。
「誰も彼もが似ているというからどれほど似ているのかと思っていたが、期待したほど似ておらんな」
王太子はまじまじとレイモンドを見つめて、興味深げにそう吐きだした。
「は……はぁ。あの、それは」
「ああ、内政官の長どもが、農務部のレイモンド・シノンは我が妃に似ておるなどと口々に言うものだからな」
「そうなのですね……。確かに、昔から似ているとよく言われていました。殿下からご覧になられれば似ていないのですね」
「目の色が違う上に、表情も違う。何より気配が全然違うな」
己の妻との相違点をそう説明した王太子に、二人はあっけにとられて一瞬固まる。
前二つは相違点としてわからなくはないが、気配が違うなどと言われては、それはもはや武人としては達人の域にいるこの貴人にしか分からないレベルの話だろう。
常人とは物の見方が違うのが支配者というものだろうか。それを理解しようなどというのは僭越な事だ。
レイモンドはそう結論付け、ではな、と言い残して去って行く長身の王太子を見送った。
残された二人は顔を見合わせて、吹き出すのを我慢して笑いあった。
―――なんだ、意識する必要なんかなかったじゃないか。
広い会場の中、人が多すぎるせいかビビアンとイデアに全く出会えない。
仕方なく一度休憩しようと外宮側に位置する招待客専用のテラスに移動する。
何か飲み物を取って来ると言って、レイモンドは給仕係を探しにホールへと戻って行った。
庭園に向かって設けられた一席に腰を下ろし、ふぅ、と一息ついて月下に沈む白い景色を眺める。
各所に置かれたファロと、席に備え付けになったひざ掛けのお陰で凍えるほどではないが、組んだ腕が遠くなったお陰で少し寒い。
冴え渡った冬の月を見上げていると、背後に近付いて来る気配があった。男性がたてるものにしてはヒールの音は高く、衣擦れの音もさわさわと大きい。
振り向いたその先にいるのは、自分よりも十は年嵩の女だった。だが、キティはその女に見覚えがない。見覚えはないが、その女が誰なのかはわかる。
フリッツに手渡されたあの紙束に幾度となく目を通したからだ。レイモンドと関係を持ったあと、疑わしきと思しき時期に出産した女性だけに絞って覚えた。
案の定、その女は目の前にやって来て、自分を見下ろすように笑った。
「キティ・アンダレイ伯爵令嬢でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです。ラニア・フォン・マイロドフ子爵夫人」
女は驚いたような表情を浮かべる。
「わたくしの事をご存知という事は、息子の事もご存知なのでしょう?」
「ええ、存じ上げております。それで、わざわざわたくしの所までいらして、どんなご用件でしょう?」
「息子は確かにあなた様の大切なお方の血を引いております。夫にもそれが知られてしまいました。息子共々、認知して受け入れていただきたいのです。もうすぐご結婚という折に心苦しいですが。息子は庶子、わたくしは第二夫人という扱いで構いませんから」
ラニアはそう言って、勝ち誇ったようにいやらしく笑った。
マイロドフ子爵家の資産状況は良いとは言えない。火遊びの果てに出来た他の男の子供など、嫡男にはできないという事なのだろう。まして有責が夫人にあるのなら、離縁して追い出されるのであれば資産分与も望めない。幼子を抱えて女一人。この目の前の女も必死なのだ。
「新居での同居となれば、わたくしひとりの一存ではどうする事もできません。三日後の午後14時、ご子息をお連れになって、アンダレイ家をお尋ねになって下さいませ。あなた様の事も、ご子息の事も、しかるべき待遇をご用意致します」
それを聞いて、ラニアはいやらしい表情を浮かべたまま、満足したように頷いた。
「では、三日後にお伺いします」
彼女はそう言い残して去って行った。
その後しばらくしてレイモンドがフロートグラスを手にして戻って来たが、キティはレイモンドには何も告げなかった。
結婚すれば夫が不在でも家を守って行かなくてはならないのだ。あんな女になど負けはしない、とキティは心の中で決意していた。
王家主催の夜会から三日後、キティは自宅の客間で歩き始めたばかりの男児を連れた女と向かいあっていた。会話をするのに、後宮にも連れて行っていた自分付きの侍女ジニを子守りとして同席させている。
「可愛いですね、いまおいくつになられたのですか」
キティは笑みを浮かべて男児を目で追う。出自がどうであれ、稚い幼児は可愛いものである。女性ばかりの部屋の中で緊張感が薄いのか、男児は興味深々で部屋の中を歩き回っている。そのあとを、ジニがついて回っている。
「ええ、今一歳三ヶ月になりました。もうすぐ一歳四ヶ月です」
「そうですの……」
キティは表情から笑顔を取り去り、スゥと切れるような冷たさを目元に浮かべてラニアの瞳を直視した。
「あなた様とレイモンド様が関係を持ったフォルベス家主催の夜会は一昨々年の九月十五日でしたわね……ご出産が九月十二日でいらっしゃいましたかしら。おかしいですわね? 十月十日の後に子は生まれてくる……それですのに、あなた様はご子息を十二ヶ月も宿していらした計算になる。早産でご出産日が早くなることはあっても、あまりにも遅くなるというのは少し無理があるのではございませんか? それに、シノン家の血を引いているにしては、あまりシノン家風のお顔立ちではございませんわね?」
キティの言葉に、女は怒気をあらわにし、食ってかかるように反論を吐き出す。
「間違いなくこの子はレイモンド様の子です。そうではないと、あなた様に証明できますか?! 十二ヶ月というのも何かの間違いです。言い逃れをしようとしても無駄ですわ!」
「そうですか。あくまでレイモンド様の子と言い張るのですね。ジニ、お通しして」
ジニはキティの指示に黙って頷いて、客間から出て行った。
すぐに、ジニは男をふたり連れて戻って来る。
ラニアはその内の一人に吸い寄せられるように視線を移したあと、すぐに気がついたように視線を反らした。
「今日こちらにお招きいたしましたのは、ミハイロ・リュドリー様。隣にいるのはわたくしの兄、エダン・アンダレイです。ミハイロ様、ここにいる男の子、わたくしの婚約者であるレイモンド様の血を引いている、とラニア様はおっしゃるのですが、それは信じても宜しいのでしょうか? あちらのお子様とあなた様、随分似ていらっしゃるようにわたくしには感じられるのですが」
男二人が部屋の中に入ってきて、怯えたように立ち止まったまま動かなくなった男児の顔は、ミハイロと他人だとは思えないほどに似ていた。むしろ、これでシノン家の血を引いていると強弁する方が無理だと思える有様だ。
赤茶の頭髪、白よりも黄味がかった肌。鳶色の瞳に一重瞼。どこをどう切り取っても、あの家系の色がない。母親であるラニアにすら似ていないのだから。
兄と同世代と思しきミハイロは、しどろもどろに、あの、その、などと口走っている。
「わたくしも司法一家の娘です。司法部に訴えでて、白黒はっきり致しましょう。その後に、本当にあの子がレイモンド様の子だと司法的な判断がなされたら、わたくしが責任を持って母子共々お迎えするとお約束致します。その代わり、もしも虚偽である事が判明したら、容赦はいたしませんから」
ミハイロから目の前に座る女へと視線を戻すと、青ざめた表情をして俯いている。
「ミハイロ殿、認知もせずに逃げ回って、マイロドフ夫人とかなり揉めていたというのはもう調べがついている。司法部に訴えでてもおそらく貴殿は勝てんよ。これだけあからさまなら、アンダレイ家の力など使わずともこちらが勝てる。世間的な醜聞として晒されるくらいなら、男として責任を取ったらいかがか」
兄エダンに止めを刺された形で、ミハイロは諦めたように肩を落とした。
「あの子が私の子である事を認めます。これ以上、アンダレイ家にもシノン家にも責任を求めるような事はしないと……お約束致します」
「それではお兄様、公正書類を」
そう言ってキティは、貴族令嬢らしく優美に微笑んで見せた。
翌年、春の温かい日差しの中、キティとレイモンドは王都アレトニア聖教会の聖堂で結婚式を挙げた。ここは、王太子妃アレクサンドラが、神の御前で王太子カイルラーンと永遠の愛を誓った場所でもある。
荘厳な雰囲気の中、法王サミュエルが詠む経典の一節が聖堂内に響き渡る。
汝の愛とは何ぞや と神は問うた
愛し児は 吾を棄てても与えるものと応た
神は述べられた
愛とは 赦し 導き 歩むもの と
サミュエルが問う。
「神の御前に愛を誓いますか」
二人は向かい合い、互いに愛しげな表情をして愛を誓った。
――― 互いの罪を赦します。互いを導いて参ります。互いと生涯を歩みます。
二人は手を取り合って、神の御前でくちづけを交わした。
おわり
番外編も長らくお付き合いいただきありがとうございました。もし宜しかったら、評価、コメントをいただけたら作者がむせび泣いて喜びます。
番外編のネタのストックを書ききったので、一旦ここで完結済みとさせて頂きます。事件のない日常パートで良ければ延々と書きなぐる事はできるので、リクエストがあれば書こうかなと思っております。ソロキャラのカップリングの指定はお受けできませんが、この夫婦の日常が読みたいとか(例/ベリタス家の夫婦のやり取りが読みたい等)があればお気軽にどうぞ。今後の執筆予定については活動報告に上げます。
お読みいただいてありがとうございました。




