Sugar doll 8
一年のうちもっとも暑いこの時期は、夜でも大気に熱気が閉じ込められているような気がする。地方の農村より比較的湿度の低い王都はまだ幾分かマシだが、出張帰りという事もあって、自宅に戻ったら湯に浸かるよりも水浴びでもしたい気分だった。
半月以上前、出張に赴く際に夏用のリンネルのコートを持って出たが、お上品にそんなものを着込んでの仕事などやっていられないと、早々に着るのはやめてしまった。
下着とシャツの替えを数組旅行カバンに詰め、宿の井戸を借りて手洗いしながら各地を巡っていたが、水洗いのうえアイロンも掛けられないからしわくちゃの上に汗臭い。それを肘まで捲っているおかげで、暑さは多少紛れているが。
恋に敗れたとは言え仕事は待ってくれない。寝台でふてくされている余裕すらないおかげで、どうにか痛手を紛らわせているのかもしれない。
それでも、忙しくしていなければ、キティの事を考えてしまう。
アンダレイ家に最後の手紙を書いてから、一月以上が経過していた。
旅先で星渡り祭を迎え、王都とは違う国民の休日を体験したが、なかなかに楽しいものだった。
夏の果実の浸かったサングリアを片手に、村の中央の広場で輪になって踊る人々を見ていた。よそ者よろしく輪に入ろうとしない自分を見とがめたのか、村のおませな女児にせがまれて一度だけと踊りに参加すれば、次々に他の女児や女衆と踊る事になった。果ては老婆の踊りの相手までさせられて疲労困憊離脱すれば、今度は昼から呑み通しの男集に散々呑まされるハメになった。
翌日は昼近くまで宿の寝台で使い物にならなかったが、酒を酌み交わしたおかげか村の男集の態度が一変した。結果仕事はやりやすくなって、いつもなら倍は掛かる時間が、その村に限っては早く終わったのも良い経験だった。
王都のものとはまた違った風情のある地方の星渡り祭に、キティと一緒に来ることができたら楽しかっただろうな、と感傷に浸って見上げた旅先の空も美しかった。
そんな思い出を彼女に伝える術すらも、今となっては失ってしまったが。
「ぼっちゃんおかえりなさい」
「ああ、ただいま」
自宅へと無事たどり着き、出迎えに来た馬丁に馬を預ける。
「おかえりなさいませ、レイモンド様」
馬の蹄鉄音を聞きつけたのか、玄関口から執事のフィルもやってくる。
「ただいま」
フィルが扉を開けたままにしておいてくれたおかげで、書類カバンとコートを手にしたままでもスムーズに家の中に入ることができた。
馬から馬丁が下ろした旅行鞄を執事が持って後ろをついてくる。
入口で出迎えていた侍女にコートを手渡した所で、フィルから声が掛かった。
「旦那様が部屋でお待ちです。荷物を置いたらおいでになられるようにと」
近頃は大人しくしているお陰か釘を刺される事も久しくなかったというのに、どんな風の吹き回しなのだろう。
父の呼び出しなど、嫌な予感しかない。
仕事は真面目にやっているつもりだが、農務部の長官経由で使い物にならんと嫌味でも言われたかな、とげんなりする。
「わかった、これを置いてから行くよ。そっちの中身はいつも通り洗濯しておいて」
「かしこまりました」
小言より先に風呂に入りたい、とレイモンドはため息をついた。
レイモンドは農務部で働き始めてから、初めて休暇を取った。
出張明けで地方から帰り着いたあの日、父の部屋に呼び出されて告げられた事は、キティの父アンダレイ伯爵が自分に会いたいと言っているという事だった。
キティと初めて出会った昨夏の終わりの夜会から、およそ一年が経過していた。
自宅から家紋の入った馬車を出せば、自分がアンダレイ家を訪れたことが人の口の端に上るかもしれない。
レイモンドはアンダレイ家を訪うのに目立たないよう、非礼にならない程度の簡素な装いをして、ここ半年旅の相棒になった馬を走らせていた。
アンダレイ家の邸宅の敷地内に馬を乗り入れると、よく手入れされた庭園が見えて来る。同格位を賜っているシノン家と規模はあまり変わらないが、やはり家風が出るのか、アンダレイ家の邸宅は全体的に重厚な雰囲気がある。否、自分がアンダレイ家に持つ印象がそう思わせるのかもしれないが。
玄関口まで乗り付けられるよう、門扉から石畳の敷かれたポーチを抜け、降車場までゆっくりと馬を走らせる。
事前に時間を伝えてあったからか、すでに馬丁と執事が出迎えに待っていた。
手綱を馬丁に手渡し、執事の案内に従って屋敷の中に入る。
通された談話室には、アンダレイ家の当主オルデルの姿があった。
立ち上がって自分を出迎えた伯爵に誘われるまま、応接セットの椅子に腰を下ろす。
「多忙中呼び立てて悪かった」
「いえ、私の事はお気になさならず。お初にお目にかかりますアンダレイ卿、レイモンド・シノンです。お招きに従いまかりこしました」
そう言って頭を下げる。
初めて対面したキティの父は、この屋敷同様厳格な雰囲気をしていた。
だが、今は穏やかな表情をしているおかげか、レイモンドの緊張感も幾分かマシだった。
最後に出した手紙に何か不手際があって呼び出されたのかもしれないと思っていたが、オルデルの表情を見ているとそうではないような気がする。
おもむろにオルデルは話し始める。
「娘の縁談話だが、結局そちらは取りやめになった」
その言葉に、レイモンドは大きく目を見開いた。自分がしつこく手紙を送っていた事が、縁談相手の耳に入ったのだろうか。それが誤解をうんだのならば、その男に自分が弁明しても構わない。だが、それは余計に誤解を広げる事になるだろうか。
「申し訳ございません」
「なぜ君が謝る」
「今まで度々差し上げた手紙の件がお相手の耳に入って誤解をうむ結果になったのかと」
「そうではない。縁談話を取りやめたのは、娘の意志だ。今回の縁談相手は我が家より家格の高い家のご令息だった。条件で言えばこれ以上は望めないというほどの良縁だったのにも関わらず、困ったことに娘は君が良いなどと言い出してね」
「はっ……ええ?!」
告げられた言葉の意味が頭の中で空回りして、まさかそんな、という疑念が胸のうちに渦巻く。
「あの、それはつまり」
「君の心の中には、まだ娘への気持ちは残っているかね?」
じっと自分を見つめて来るオルデルの瞳は、娘を慈しむ父親のそれだった。
「もちろん。今なお私の心の中にはキティ嬢への想いがございます」
レイモンドの言葉を受け、そうか、と頷いたオルデルの二の句を遮るように、にわかに玄関口が慌ただしくなる。
使用人の制止するような声が聞こえたかと思うと、苛立ったように靴音を響かせながら、一人の男が談話室に乗り込んできた。
どこかで見覚えがあるような気もするが、自分の記憶が確かなら初対面のはずだ。
「父上、私は納得していませんよ!」
「セス、お前の同席は許可しておらん。いくら兄とは言え、レイモンド殿に失礼だと思わんのか」
そう一喝したオルデルの声は、この家の当主としての威厳と静かな怒りに満ちていた。
なるほど、セスと呼ばれたこの男はキティの兄なのだ。見覚えがあるような気がしたのは、以前農務部を訪れていたイデオに面差しが似ているからだ。
「しかし父上!」
「お前もイデオも、いつまでそうやって妹の手を握っているつもりだ。家族として可愛いのはわかる。歩き始めた赤子が転んで怪我をせぬよう、足元が少しでもふらつけば手を出してしまいたくなる。だがそうやって手を出していれば、いつまでたっても自分で歩き出す事はできない。お前たちはそんなに自分の妹の事が信じられないのか?」
オルデルにたしなめられたセスはその場に立ち尽くしたまま、悔しげに両手を握って口を開く。
「キティの事は信じています。私が信じられないのはその男の方です」
「いいや違うな。彼が良いと言ったのはキティだ。そのキティの判断が信じられないから納得できないとお前は言うのだろう。少なくとも私はこの一年、レイモンド殿の行いを見定めてきたつもりだ。自らの行いを恥じ、悔い改め、お父上の力を借りずに自分を律して歩き始めた。彼の仕事ぶりについても、私のところに噂はそれなりに届いている。概ね評価は高い。それはつまり、彼が自分に与えられた仕事に真面目に向き合っているという証左だろう。我が家を訪れた彼の姿にも、こちらへの気遣いは感じられないか? 彼は今日馬車ではなく馬でやって来た。装いも目立たぬよう、さも役人然とした落ち着いた色形と素材を選んでいる。それは今後のキティへの影響を考えてくれたのだという事だ。私たちは司法に身を置く者として、自分の力で立ち上がった者の行く先を挫いてはならないのだ。いつだって、更生した者を再び罪へと引き戻すのは、周囲の無理解と悪意なのだからね。もうそろそろ、キティの手を信じて放してやるべきだ……私も、お前たちも」
そう言って穏やかな眼差しを息子に向けたオルデルの言葉が、レイモンドの胸を打つ。
そうか、と心の中でひとりごちる。
信じているから手を放す事ができるのだ。同い年の従妹と比べて出来が悪いから、諦められたのだと思っていた。だが、そうではなかったのだ。
誰よりも自分の可能性を信じてくれていたのは、家族だったのだ、と初めて今分かった。
「これ以上妹を泣かせるような事はしないでくれ」
セスは苦しげにそう告げて、談話室を出て行った。
「済まないね、見苦しい所を見せた。あれも兄としてキティの事を心配しているんだ。過ぎた行いだが、大目に見てやって欲しい」
オルデルはそう言って苦笑した。
「もちろんです。兄君の心配は当然の事ですから。……それはそうと、本当によろしいのですか? 私の過去の行いが、御家にとって障害となりませんか?」
「仮に君に認知していない婚外子が存在していたとしよう。貴族社会での庶子の問題はさほど重要ではないよ。醜聞というのなら醜聞にはなるのだろうが、珍しいことではない。そこのところの問題については、君たち二人が乗り越えて行かねばならない問題だ。それについては私もキティとよく話しあった。それでも、娘はそれについてもまるごと受け入れる、と言ったよ。自分が育てても良いと」
「そこまでの話を……」
「年を取ってから出来た子で、随分と甘やかして育ててきた。世間知らずで寂しがり屋の娘だが、私たちにとっては可愛くて仕方がない娘なのだ。娘を君に託しても良いかな? レイモンド殿」
すっかり父親の顔をしたオルデルはそう問うた。
「私の生涯を掛けて大切にすると誓います」
男同士の約束が固く結ばれた瞬間だった。
オルデルとの会談を終え、レイモンドはアンダレイ家の庭園へと足を向ける。
キティを呼んでくるから庭園で待っていて欲しいと告げられたからだ。
談話室には扉がない。まだ正式に婚約を交わしたわけではないから、扉の閉まる部屋で二人きりになる事はできない。家人の目を気にせず二人でゆっくり話ができるようにとの当主の気遣いだった。
サクサクと芝を踏む足音に気がついて振り向くと、日傘を手にしたキティが近付いて来るのが見えた。その姿に、思わず眉根を寄せる。
一年近くも夢にまで見た顔だった。恋焦がれていたから、胸がつかえて言葉にならない。
「どうされたのです? まるで死人でもご覧になるような顔をなさって」
「もう二度と、あなたとこうしてお会いできる日はないのだと思っていましたから」
そう返すと、キティはなんとも表現し難い表情を一瞬浮かべてから苦笑した。
歩きましょうか、と二人並んで歩きだす。
「頂いたお手紙が一通、父の元に届く前に消失してしまったようです。何と書いてあったのか気になって……ひとつ前の手紙の内容は忘れてくれと書かれていたその手紙の内容、教えて下さいませんか?」
ああ、とレイモンドは小さく漏らす。
「本当に、大した事ではないのです。今思い出しても相当に恥ずかしい内容で……ですから本当に忘れてください」
キティはその場で立ち止まった。
それに気づいたレイモンドも足を止めてキティの顔を見つめる。
自分を見上げたキティの表情が、心なしか怒っているような気がする。
「もう、隠し事は無しに致しましょう。わたくしは、あなたの過去も、どんな醜態も、全て受け入れると覚悟を決めました」
凛としたキティの表情は、出会ったあの夜と同じように強い意思をあらわしていた。
そんな顔をされては、もう拒む事はできない。
レイモンドは決意するように口を開いた。
「私はアレックスと顔が似ているとよく言われます。血縁ですし、それもおかしくはない事ですが。……もしもあなたがアレックスにお心を寄せていらっしゃるのなら、身代わりにしてもらって構わない、と。どうにかして、あなたの側に居られないかと……そう、思っていました」
「本当に、愚かな方。誰かが誰かの身代わりになどなれるはずがございませんのに……。でも、わたくしもあなたにアレックス様の面影を重ねていました。だから、わたくしも愚か者ですわ。わたくしもあなたと同じ、甘い夢を見ていた人形でした」
そう言って、キティは寂しそうに笑った。
「キティ嬢……」
「キティ、と呼んで下さいませレイモンド様」
「ええ、では私もの事もレイ、と」
二人は互いに笑いあった。
夏の強い日差しが、キティの薔薇色の瞳に乱反射していた。




