Sugar doll 7
自宅のカウチに身を投げ出し、近衛の隊服姿のまま明日の事を考える。
明日は十日に一度の公休日だから、たまの休みくらいゆっくり過ごしたいが、近衛に上がる時に自ら飛び込んだしがらみのツケを払いに行かねばならなかった。
王族の側近などというものは、生まれ持った己の人脈を頼みに仕事をするようなものだ。命じられた何がしかの調査にしろ、誰かのために取り寄せる品にしろ、主が興した新規事業を軌道に載せる調整をするのにせよ、政務に関するありとあらゆる事に人脈が物を言う世界だ。
だから、成人して軍に入る時に飛び出したきり疎遠になっていた実家から、そろそろ身を固めろなどという煩わしい手紙が従兄経由で届いた時には、どうにか回避できないかと考えながらも結局無視はできなかった。
隣国との戦争の前後は、仕事が忙しいともっともらしい理由で断っていたが、流石に終戦して一年半以上が経った今、突っぱねる事が難しくなってきている。
戦争の喪があけ、主である王太子の盛大な結婚式が執り行われたのは昨年末の事だ。
殿下よりも先に結婚するわけにいかなかったのはわかるが、その王太子の慶事が滞りなく済んだのだから、もう気遣いはいらないだろう、などという的外れな手紙を見て頭を抱えたくなったものだ。
結婚に乗り気になれないのは元来の性分で、王太子の側近などという無駄に忙しい仕事に足を突っ込んでしまった今は、余計に家庭などという煩わしいものを背負い込みたくはない。仕事でも家でも神経を遣うなど、考えただけでも疲れる。
相手があの王太子妃だったなら、その煩わしさも喜んで背負ったのだろうが。
それでも今回の縁談話の相手が、あのアンダレイ家の令嬢なのは幸運だった。上手く持っていけば、この縁談話は回避できる可能性が高い。
初顔合わせと称して前回令嬢当人と顔を合わせた時、「はじめまして」と挨拶をしたが、実際には初対面ではない。名の交換をしていないから互いの認識として初対面に分類されるのは間違いないのだろうが。
今回の縁談相手のキティ・アンダレイは、主の正妃候補として後宮に入っていた。その主の近侍として側近くにいた自分は、後宮内で催される行事には必ず主や正妃候補達と同じ場所に居た。もちろん主の結婚式当日も。
主の警護のために周囲に気を配るのも仕事のうちだから、周辺にいる人々の様子もそれとなく探る。もちろんキティはそれには気づいていなかった。
ゆえに自分は知っていた。キティの事も、キティが誰に心を寄せているのかも。
自分と同じく、第一近侍言うところの無自覚な人誑しに魅了されているのだと当時から気がついていた。なにせ彼女はわかりやすかった。アレックスを見る目が恋する乙女そのものだったのだから。そして鈍いアレックスはその事に全く気がついていなかった。
互いに同じ相手に叶わぬ想いを寄せていた。だからそういう意味では、キティとは同士と言えなくもない。
自分はもうアレックスに対する想いは吹っ切っているが、あれだけ熱を上げていた初心な令嬢ならばどうなのだろう。まだ、心を残しているような気がする。
明日はその辺から切り崩すのが鍵かな、と戦略を立てた所で声が掛かった。
「旦那様、お風呂が湧きましたよ」
従僕として雇い入れたティーノだ。
王都の外れに借りた小さな家だが、さすがに使用人の一人すらいないのでは生活が回らなかった。
なにせ仕事が忙しいから、公休日にも片付けておかないといけない事がある。洗濯屋や掃除婦を呼ぶ事さえ出来なくなって、男の一人暮らしは無理だと音を上げた。
それでやむなく雇った従僕だった。ティーノは成人したばかりの純朴な青年だが、頭が良いのか目端が利く。下男を探していた頃、商業区域の酒場の前で路頭に迷い掛けていた旅装姿のこの青年を偶然拾ったが、これが良い拾いものだった。
親の代から地方の領主の館で親子共々仕えていたが、親が亡くなったのと同時にそこを追い出されてしまい、仕方なく働き口を求めて王都まで出てきたのだという。
流石に身元が不安だったのでティーノの事はそれとなく調べたが、当人の言うとおり、嘘は言っていなかった。
追い出された館があのヤンセン家だったのには驚いたが、それはまた別の話である。
なにはともあれ心得ているティーノが、小さい家とは言え他に使用人も居ないこの家をよく切り盛りしてくれて助かっている。何よりも、疲れて帰ってきても、こうして温かい風呂に入れるようになったのはありがたい。
「ありがとう、すぐ入る」
「はい」
セーラムはカウチから起き上がり、近衛の隊服の襟に手を掛けた。
前回の初顔合わせから十日後の昼下がり、再びあの男が自宅にやって来た。
王宮までとはいかないが、貴族の邸宅としては恥ずかしくない程度の大きさの庭園の一角、大木の木陰にタープを張って一席設けてあった。
後は二人でゆっくり話でもしなさいと言って父が席を立ってしまったから、キティはセーラムと二人そこに取り残されている。
夏とはいえ湿度の低い王都では、風が吹き抜ければさほど暑さは厳しくない。アフタヌーンティを飲みながら、木陰でこうして吹き抜けて行く風を楽しむのは避暑として悪くないのだろうが、何せ今は目の前に気心の知れない相手がいる。
居心地の悪さを感じるのは、何も理由がそれだけではないのはもう自覚している。父に任せると言ってしまった手前この縁談話を反故にする事はできないが、心が嫌だと訴えている。だが、今更それは遅すぎた。もっと早くに手紙を読んでいれば、こんな事になっていなかったのかもしれないのに。
「浮かない顔をなさっておいでですね? キティ嬢」
そう言って目の前に座る男は穏やかに笑んだ。
正直なところ、王太子の近侍であるこの男が怖い。
王族の側近などという人種は、人の心を簡単に読む。表情、視線、仕草、その他全てから主に対する敵意を読み取る。巧妙に隠された心の裏側でさえも。
だから、きっと自分がこの縁談に乗り気でない事も読まれている。
「いえ、そのような事は……今まで男性と二人きりになる事はあまりなかったので、緊張してしまって」
苦し紛れだろうとなんだろうと、それを明かしてはならないのだ。この状況を招いたのは自分のせいだが、だからと言って父の顔を潰すような事はできない。
「キティ嬢は、この縁談をどうお考えですか? 正直なところ、私は互いに相性が悪かったと言う事にした方が良いのではないかと考えているのですが」
そう言って自分の瞳をじっと見つめて来る男の視線が怖い。
やはり読まれていた、と、心音がドクリと跳ねる。
「わたくしが何かを言える立場にはございませんので……。セーラム様がそうおっしゃるのでしたらそれでよろしいと思います」
「随分受身なのですね。私はあなたの本心を伺いたいのです。他にお心を残していらっしゃる方がいるのではないですか?」
心を寄せるのではなく、心を残す、と男は言った。それに、大きく目を見開く。
そうだ、この男は、いつもあの人の近くに居た。
「いえ、そのような事は……」
先を継ごうとした矢先、遮るように男の声が重なる。
「私も、ずっと想う相手がいるのです。この想いは届く事はありませんが。ですから、このような状態であなたとの縁談を進める事は不誠実だと思っています。ですが、互いにしがらみもありますし、どうしても回避できないのであれば喜んでお受けします。ああ、もちろんそうなったらあなたの事は大切にするとお約束します」
セーラムの言いたいことは概ね理解できたが、想いを寄せる相手がいるのに喜んで結婚するとはどう言う事だろう。
飲み込むことのできない言葉に引っかかっていたのを察したのか、男がまた微笑して口を開く。
「貴族に政略結婚は付き物、年の差のある婚姻もめずらしくはないとは言え、私はあなたより十近く年齢が上です。こんな婚期を逃して若くもない男のところに、妙齢の美しい女性が嫁してくれるというのなら、それは喜ぶべきでしょう」
なるほど、とキティは心の中で呟く。
この男も貴族の例に漏れず、心などなくとも結婚できるという事なのだ。家格と容姿を鑑みれば、縁談話は引きも切らなかったはずなのだ。それを今まで独身を貫いていたということは、意図的に縁談を避けていたという事にほかならない。
父の顔に泥を塗る事はできない。けれど、セーラムがここまで内実を晒しているのだ。いまそれに乗らなくては、きっと生涯後悔し続けるのは分かっていた。
あの人ではないのに、あの人の殻を無理やり被せようとした。どんなに似ていても、違っていて当たり前。そんな当たり前の事を、分かっているとうそぶきながら、殻を被せようとしていたのは自分だ。
それでもレイモンドは逃げなかった。こんなどうしようもない女の事を、ずっと想い続けてくれていた。彼の言葉に絆されてしまった今、目の前の男との縁談をなし崩しに進めようとしている自分の方こそ不誠実なのに違いない。
父の体面に傷をつける事になる。それでももう、嘘はつけない。
「お察しの通り、わたくしも心に想う方がございます。そう告げられたと、セーラム様の方からお断り頂ければあなた様の面子も保たれましょう。この度は申し訳ございませんでした」
キティはそう言って深く頭を下げた。
「どちらかが一方的に責を負わなくても良いでしょう。お互い会話してみて、どうしても合わなかった……それで済む話だと思いますよ?」
こんな形で出会わなければ良かったと思わせるほどに、目の前の男は紳士だった。
十も年上の彼の掌で転がされたのだろうという事は直感としてわかったが、悪い気はしなかった。
変わらず穏やかな笑みを浮かべる男に、キティは力なく苦笑した。
セーラムが帰って行ったあと、キティは父の部屋を訪れていた。
力なく肩を落とした娘を見て父は何かを感じ取ったのか、近付いて来て娘の身体を包み込んだ。
「私のことなら気にしなくていい。帰りがけにセーラム殿が言ってくれた。互いに合わなかったという事に致しましょうと。この縁談話は外に出てもいないし、それで終わる話だよ」
「お父様、ごめんなさい……本当にごめんなさい」
キティは父にしがみついて泣いた。
「私の面子や家の体面なんてどうでも良いんだよ。そんな事は気にしなくて良い、キティ。私たち家族は、みんなお前の幸せを願っているんだから。我が家のわがまま姫なんだから、最後までわがままを言えば良いんだよ。嫁いでしまえばもう、それも聞いてやれなくなるのだから」
父の深い愛に、涙が止まらなくなった。
言葉なく嗚咽して、キティはしばらく幼子のように泣き続けた。
最強の当て馬セーラム(笑)
キティ19歳・アレックス21歳・カイルラーン26歳・セーラム28歳




