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蜜蜂は王乳の夢をみるか【本編完結済】  作者: うにたむ
HoneyButterBrownsiroop
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Sugar doll 5

 季節は春を越え、もうすぐ夏の盛りがやってくるという五月の終わりに、一通の手紙と贈り物が届いた。

 家令が直接贈られて来た包みと共に自室に携えてきたその手紙には、薄藍の封蝋に蜂の御印が押されている。

 差出人の名前は、アレクサンドラ・アヴィ・ラファム・アレトニア ――― レイモンドの従妹であり、王太子妃となった友人。かつての想い人だ。

 王族となってしまったがゆえに、すっかり長くなったその名前を複雑な気持ちで眺める。

 王家の直系の子供であれば、二番目に国の基となった神話の星の名前を受け継ぐが、公爵家から嫁した彼女にはそれがない。それゆえ王太子妃となった時に、親しい者だけが呼ぶ事のできる二番目の名を持つ事になった。かつて騎士として軍に身を置いていた頃、誰が言い出したのか蜜蜂(アベイユ)の二つ名を付けられた友人は、わかりやすくて良い、などという理由であっさりそれを二番目の名前にしてしまった。家名の前につくのはその人物の持つ称号で、騎士爵ならサー、貴族家当主夫妻ならフォン、王もしくは王位を継ぐ者はラ、王位継承権を持つものはドゥ、その配偶者にはファムが冠される。つまりラファムは王妃もしくは王太子妃という意味になる。

 そして、王家の一員となった者は必ずその人を示す固有の御印を持つ。二番目の名に合わせて、アレクサンドラの御印は蜂だった。

 家令が部屋を辞したあと、ペーパーナイフを使って友人からの手紙の封を切る。

 夏へと向かって陽射しを強くし始めた今の季節に似合ったそのレターセットの色は、萌える緑と盛夏の空を混ぜ合わせたようなペールグリーンだった。

 便箋を開くと、そこに時節の挨拶と共に、誕生祝いの言葉が続く。この手紙が届いた今日が、まさに自分の十九歳の誕生日だった。

 懇意のテーラーが持ち込んだ輸入レースにとても素敵なものがあったから、あなたに贈りますと記されている。

 糸も布もレースも、それぞれに等級というものがある。城に出入りするテーラーが王家に持ち込むようなものは、例外なく最高級品と言って良い。まして輸入レースともなれば、値もそれなりに張るものだ。

 包みの大きさをみれば、リボンなどではなく生地の巻き筒一本の状態であるのがわかる。これ一本で贅沢に総レースの夏のドレスが仕立てられるくらいの分量だ。

 あの友人の事だから、自分に割り当てられた歳費からではなく、個人資産から買い求めて贈ってくれているというのは分かっている。それでも、あまりにも贅沢な贈り物すぎて申し訳ない気持ちになる。だがおそらく、それは本当に彼女の気持ちなのだ。きっと、値段など気にしていない。自分が良いと思ったものを金銭の多寡に関わらず贈ってくる。王太子妃アレクサンドラとはそういう人だ。

 アレックス様らしいわね、と笑んで目を細め、その先を追う。

 そこに記された一文を咀嚼して目を見開いた。


――― 順調に行けば秋の終わり頃、母となります。


 王太子妃として女性の人生を歩む事を決断した友人。それでもどこかで、互いに後宮で生活していた頃の青年のような姿のまま記憶は固定されていた気がする。

 王太子カイルラーンを愛し、戦場に身を置いてあの貴人を護って戦った。夫となったその人を庇って自身が傷つく事すら躊躇わなかった。

 今は自国内だけに留まらず、他国にまで広まった二人の恋物語(ロマンステイル)の通り、アレックスが肉体までをも女性へと変えたのはあの恋敵への深い愛ゆえだ。

 だからその報告は友人として手放しで喜ぶべき事なのだ。だが、純粋にそれを喜べない自分がいる。

 かつての想い人であっても、彼女の幸せを願う気持ちは友人となった今でも変わらない。

 それなのに、失望感と喪失感だけが心の中を埋め尽くしている。友達だなどと言っておきながら、自分はなんてひどい女なのだろう。

 想いはもう絶対に届かないのだという現実を突きつけられたような衝撃。

 思わず手紙から顔を上げて目を瞑り、深いため息をついたその時。部屋の扉を叩く音がする。

 誰、と問いかけると、隔てられたその先から父の声が聞こえた。どうぞ、と返すと扉を開いて顔を出す。

 部屋の中に入って来た父は、穏やかな笑顔を浮かべて口を開いた。

「もうそろそろ、縁談話を進めようと思っているんだけどね、キティ。お前が婚姻に対して前向きになれるのを待っていたけれど、そろそろお相手を探しても良い頃だと思うんだ」

 貴族の子女が十九で婚約者も居ないとあれば、完全に行き遅れだ。父の気持ちとしては、二十歳までには相手を決めておきたいのだろう。それは父の親心だとわかっている。

 レイモンドの事も、あの男を歓迎はしなくとも、娘が手紙を処分しないうちは見守ってやろうと思っていたのだろうと思う。

 貴族の結婚は政略結婚の方が多い。だから、当主である父が相手を探すというのなら、それに従うのも悪くはないだろう。この父の事だから、為人を信用できないような相手を宛てがうような真似はすまい。

「わかりました。お父様にお任せします」

「ああ。良い人を探すからね」

 そう言い残して部屋を出て行く父の後ろ姿を力なく見つめる。

 ようやく、自分の恋は終わったのだ。



 夏の盛り、良い人を探すと言った父が見つけて来た男が自宅へとやって来た。

 談話室の応接セットの側で父と二人待っていると、執事の案内でやって来たのは明らかに軍人だった。

 小柄な自分から見て、部屋に入って来たその男の体格は王太子とそう変わらない。違っているのは、王太子は長い黒髪だったが、男は金の短髪に赤茶色の瞳をしている所だ。

 軽く会釈して、父の誘いを受けて全員が席につく。

「多忙なのに済まないね、ファンデル中佐」

 夏らしい漂白リンネルのズボンに、インディゴに染められた同素材のコートを身にまとっていた。馬に乗るのか、足元は柔らかい素材のブーツだった。紳士物に疎いキティには、それが何の皮なのかは分からない。

「いえ、私の事はどうぞお気遣い無く」

 男性らしい低めの声だが、こういった席に慣れているのか、その声色は何の気負いもなく落ち着いていた。

「キティ、こちらはファンデル侯爵家のセーラム殿だ。カイルラーン殿下の第二近侍をされていらっしゃる」

「お初にお目にかかります、キティ嬢。私はセーラム・ファンデルと申します」

 そう言って微笑した男は、侯爵家の子息だというのも納得できる容姿をしていた。

 あの王太子の側近に選ばれるだけあって、嫌味のない品のある立ち振る舞いと装い。野性的で精悍な顔付きだが整った相貌と言える。近侍に重用されるくらいなのだから、家柄も能力も知性も折り紙付きだ。

 そして、王太子の第二近侍であるという事は、過去、あの友人と共に働いていたという事だ。

「はじめまして、セーラム様。オルデル・フォン・アンダレイの娘キティでございます。どうぞお見知りおき下さませ」

 そう言って、キティは作り笑いを浮かべた。


 

 レイモンドは一月ぶりの王城内の通路を、農務部に向かって歩いていた。各地を巡って調査書を仕上げるのに、思わぬ所で足止めを食ってしまった。

 調査で立ち寄った村で、農業用水を引き込んでいる川に掛けた橋が、経年劣化で崩落して川の水が塞き止められていた。

 治水事業は農務部の管轄ではないが、村人にとって中央から来る役人など皆同じだ。

 村長も村長で、良いところに来たとばかりに橋の修繕の話を振ってくるものだから、それを領主経由で土木部に申請するように調整するのに時間がかかってしまった。なにせ分散領地を治める領主だったから、村に領主が到着するのを待っているだけでも時間のロスがひどかった。おかげで予定は大幅に狂うし、延々と村長の不平不満を聞かされるハメになるし、村の若い娘が逗留した宿の部屋に忍び込んで来るし、散々だった。

 あと数時間乗り切れば、やっと自宅の寝台に横になれるのだと思うと清々する。仕事で各地を巡り始めて半年ほどが経ったから、硬い寝台でもかろうじて眠れるようにはなったが、馬を駆っての長距離移動だ。疲れが取れるほどゆっくり休めるわけでもなく、やはり長年馴染んだ自室の寝台が一番だった。それを思うとあの従妹は軍馬を乗り回し、寝台などない戦場で寝食していたのだから感心する。その事だけでも、いかに自分がぬるま湯に浸かっていたのかを実感してしまう。

 さっさと報告を上げて自宅へ帰ろうと考えながら歩いていると、通路の先に法服を来て立っている男が見える。

 歳の頃は自分よりは一回り程上だろうか。だが、その男に見覚えはない。会釈して通り過ぎようと思ったその時、男が口を開く。

「レイモンド・シノンはお前か」

 不愉快さを隠そうともせず、男はそう問うた。

「ええ、そうです」

「私はイデオ・アンダレイ。キティ・アンダレイの兄だ」

 ああ、とレイモンドは腹の中でこぼす。

「ご用件をお伺いします」

 男は眉間にしわを寄せ、苦虫を噛み潰すように吐き出す。

「用件など聞かずとも分かれよ。妹は縁談話が進んでいる。父上はお前に何も言っていないようだが、これ以上妹の心を乱すような真似はやめてくれ。迷惑だ」

 いよいよこの時が来たのか、と喉の奥のもっと深い場所に痛みが走る。

 キティは良家の令嬢だ。王太子の正妃選出で後宮に入った後とはいえ、そう長く未婚のままでいられる訳が無い。

「わかりました。長らくご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 レイモンドはそう返し、イデオに向かって深く頭を下げた。

 兄なら、妹の幸せを願ってやまないだろう。放置すれば、その妹の縁談をぶち壊しかねない男がいるのだから、釘を刺しに来るのも当然だった。

 頭を下げている間に、返答に納得したのか男が去って行く気配を感じた。

 背を伸ばし、弛緩するように天を仰いで瞳を閉じる。

 神は自分の行いをきちんと見ていたのだ。その事に気づくのが遅すぎた。

 後悔しても、愛しい人はもう手に入らない。それこそが、己に与えられた罰だった。

 それでも、男としてのけじめはきちんとつけておかなくてはならない。自宅に帰って寝台に横になるのは後回しだ、とレイモンドは萎えた気力を奮い立たせた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] キティのお相手が、まさかのセーラムに、びっくりしましたw キティも、セーラムも…共通した想いがあり、それが、こんな形で会うことになるのは想像してませんでしたΣ(゜艸゜〃) [一言] レイモ…
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