Sugar doll 4
レイモンドは自室で、今しがた家令のバーネットが持って来た手紙を見つめる。差出人はキティ・アンダレイ。
まさかこんなにも早く返事をもらえるとは思っていなかった。夜会での一件を、彼女から許してもらえるまでは何度でも手紙を書くつもりでいたのに。
とりあえずは返事をもらえた事にホッと胸をなでおろし、ペーパーナイフを書物机の引き出しの中から取り出す。
押された封蝋は、秋らしい薄紫だった。そこに、長鞭とネモフィラの意匠の組み合わされたアンダレイ家の家紋が浮き上がっている。
鞭は罪に対する罰を、ネモフィラは罪に対する赦しを意味し、司法に身を置くアンダレイ家の有り様そのものだった。
中身を傷つけないよう、ペーパーナイフを使って慎重に封を切り、便箋を取り出す。
広げて、その文面を食い入るように見つめる。
一語も漏らすまいと視線を動かすほどに、胸の中には失望と、そしてやはりそうかと言う納得が混ざり合う。
文字にはその人の持つ人物像があらわれるものだ。キティの字は丁寧で整っているが、若い女性らしく伸びやかで、どこか可愛らしい。左右の比率がほぼ同等で、線は丸みを帯びてやや大きめだ。
その可愛らしい字が綴ったそれは、文字とは真逆の拒絶の言葉だった。
レイモンドからの丁寧な謝罪の手紙に対する感謝の言葉に続いて、たとえ初対面の相手に失礼な事をされたにしても、扇で頬を打ったのはやりすぎだったから、自分からも謝らせて欲しいと続く。そして、あの夜の事は互いに水に流し、もう二度と手紙を送って来ないでくれと記されていた。
許されるとは思っていなかった。キティにしでかした事については許すと記してくれているが、自分という存在は赦してはもらえないのだと、レイモンドは脱力するように椅子の背もたれに身体を預ける。
拒絶の言葉を記すにはあまりにも洒落たレターセットには、ポムの木と果実の模様の透かしが入っていた。
レイモンドへの返事を書いてから二ヶ月、あの男へはあれきり手紙は書いていない。
それにも関わらず、レイモンドは父を通して手紙を送って来る。その頻度は、きっかり十日に一通。
今日も父は、自分宛に届いた手紙に同封された娘あてのそれを持って自室にやってきていた。
「彼も頑張るね……。心を入れ替えたのか、近頃は真面目にやっているようだよ。今のところ悪い遊びからは一切手を引いたようだ」
「わたくし何もお尋ねしておりませんわ、お父様」
そう言って不満そうに眉間にシワを寄せた娘に微笑む。
「年明けに内政官の採用試験があるのだけどね、それを受ける事にしたようだよ。お父上の力を使えば、税務部に席を用意する事もできるだろうに、わざわざ市民階級の者と混じって一般試験を受けるのだとか。シノン伯からも採用担当者あてに、心遣いは無用との連絡が入ったと官部内はこの話で持ちきりでね」
あくまで自分が携えてきた手紙についての世間話の体だが、娘に対して選ぶ話題としては少々不適切ではないだろうかとキティは思う。
アンダレイ家としても、その当主である父個人としても、レイモンドは娘の相手として歓迎される人物ではないはずだ。
だが、父の口ぶりを聞いていると、政略結婚の相手との顔合わせを嫌がる娘に釣書を勧めるような物言いだ。
レイモンドとのやりとりは、最初の一度きりで終わっている。その時に、もう二度と手紙を寄越してくれるなと書いておいたし、実際あれきり自分から返事を出していない。返事など出しようがない。何故ならあの後から来るようになったあの男の手紙の封を切る事すらしていないのだから。
「ですから何度も申し上げますけれど、わたくし興味はございませんわ、お父様」
「ああ、すまない、そうだったね。今日は冷え込みそうだから、暖かくしておやすみ」
そう言って父は娘の頑なな様子に気を害した風もなく、穏やかな笑顔を向けてから部屋を出て行った。
手の中に残された封筒を見つめてため息をつく。
あの夜の件については許すと決めた。それを覆すつもりもない。だからもしもそれについてレイモンドがまだこだわっているのなら、流石にそれはかえってこちらに失礼というものだ。
だが、おそらく手紙の内容はその事ではないのだろう。
自分とて既に成人している身だから、有爵貴族家の男子が女性に何度も手紙を寄越す意味を分からぬほど鈍くはない。
何があの男をそうさせるのか分からない。今まで社交界で浮名を流してきた遊び人だから、自分を拒む女がいるとは思っていなかったのだろう。要は、自分の意にならない女だから物珍しいだけなのだ。これであの男の思惑にのって返事など書こうものなら、やはり落ない女は居なかったと満足して、すぐ別の女に走るに決まっている。
キティは書物机に移動して、右手側についた薄い引き出しの取っ手を引く。そこにはレイモンドから今まで届いた手紙が積まれている。
その上に、層を積み増すようにそれを置いた。
見たくないものを見るように眉根を寄せ、封を掛けるように引き出しを押し込んだ。
春がやって来た。キティと出会った夏の終わりの夜会のあとから、年明けに行われる内政官の一般採用試験の勉強に取り組んで、無事合格をもぎ取った。
配属されたのは、農務部地政調査課。国に申請のあった各領の農地の作付面積が申告通りか、その農地から上がる収穫量、品目がどうなのか、またその作物が不作になっていないかどうかなど、足を使って各領を調査する泥臭い仕事だ。
従妹アレクサンドラのように戦場で立ち回る程うまくはないが、乗馬技術は有爵貴族家の子息として幼少期から身につけている。街道を移動する程度ならば問題なくできるから、最初のうちは使っていた御者付きの馬車は、時間が惜しくて自分で駆る馬に変わった。
ひと月のうちの半分以上を国の中を移動して飛び回る仕事だ。はっきり言って忙しすぎて遊ぶ暇もなければ、専門知識も体力も必要だし、なによりも忍耐が必要だった。
領地を治める有爵者相手ならともかく、一般市民階級の村長や農夫はとにかく支配階級と折り合いが悪い。おまけに中央から派遣されてきた調査官は土にまみれた事もないような見目が良いだけのいかにもなおぼっちゃまときている。
領地の最高位である領主に話を通すのは簡単だが、それではきちんとした仕事はできない。
領主が国に申告したことが正しいかどうかは分からないし、もっとひどければ領民と領主が手を組んで嘘の申告をすることもある。
農務と税務の関連書類をきちんと確認し、それと相違がないか各領の農地と穀倉を自分の目で見て判断しなくてはならないのだ。
ずっと甘えて生きてきた。都合の悪いことは見ないようにして、頑張る事を放棄して、怠惰に過ごしていた。
父の力を使えば、一般採用試験を受けずとも税務部に席を置くのは簡単だっただろう。だが、それをしてしまえばキティに振り向いてもらえる可能性すらなくなるのは分かっていた。甘い砂糖で出来た令息と、彼女は痛烈にこちらをなじったのだから。
はっきり言って仕事はキツい。遊び暮らしていた自分には想像もできなかった市民階級の暮らしと国の在り方。
己の口に入る物が、どんな過程を経ているのかなど、想像したことすらなかった。
泥にまみれて大地を耕す農民たちの過酷な暮らし。その彼らのささやかな営みを守る責務を負っているのが支配階級である自分達だ。
そんな当たり前の事でさえ、こうして自ら各地の領を巡ってみて初めて確かな事として実感できたのだ。
これでは甘いと言われても仕方がない。
家の力に頼らず、とにかく今は自分ができる事を精一杯やると決めた。キツくとも仕事は投げ出さず、シノン家の人間としてではなく、己個人を認めてもらえるように努力するしかないのだ。
出張先の宿で農務部に提出する調査書を仕上げたあと、素っ気ないレターセットを取り出す。最初のうちは王都の文具屋で質の良い物を求める事もできたが、仕事が忙しくなった今そこに気を遣う事はできなくなった。良家の令嬢相手に、なんて気の利かない男だろうと思われているだろうか。キティの負担にならないよう、十日に一通と決めていた手紙の頻度すらバラバラだ。何故なら、旅先から出すそれが、いつアンダレイ伯爵の元に届けられるのかすら曖昧なのだから。全てはその手紙を運ぶ者の都合に左右される。
手紙を専門に配達する生業の者はおらず、貴族の手紙はその差出人の身分のみを頼りに送られて行く。王都へ向かう荷車の御者や旅人に、金を握らせて運ばせるのだ。運ぶ者は小金稼ぎと、それを紛失したらどのような罰を受けるかという自身の保身のために手紙を運ぶ。だから確実に届くという保証もないし、誰かに見られても差し障りのない事しか書けない。
なんの保証も担保もない不確かな代物だ。それは今の自分には似合っていると思う。
キティに想いを綴っても、彼女を幸せにしてやれる保証などないのだから。それでも諦めきれないから、届く保証のない紙面に、届く可能性のない想いを綴っている。
謝罪の手紙を送って以降、キティから返事が届いた事は一度もない。おそらく、見ることなく捨てられているだろう。キティの父であるアンダレイ伯爵から、もう送ってくれるなとは言われていないから、おそらくそれはキティの意思だ。
家族の忠告を、もっと早くに真摯に受け止めるべきだった。どうしようもない子供で、救いようのない馬鹿だった。それでも、変わるのが遅すぎたとは思わない。
たとえこの想いがキティに届かなくとも、目を覚まさせてくれた彼女に出会えたのは自分の人生において僥倖だったのだろうから。
紙質が良くなく、ざらついてインクがにじむ便箋に、レイモンドは素直な言葉を綴った。なんの気負いも虚飾もなく、丸裸の自分の心を。
開封されないと分かっている手紙に言葉を載せるその行為は、今までの自分を見つめ直す作業のようだとレイモンドは思った。




